15話 笑顔と涙
脈打つ心臓の音。
薄い布を隔てて、触れたところからこの男の体温が移ってくる。
まだ明るい昼間に、男同士で抱き合うなんて馬鹿みたいだ。
けれど、妙に心地がいい。
これは何の匂いだろう。柔軟剤か、香水か。あとは、薬品のような匂い。奥の方には、汗みたいな人の匂いが混じっている。
匂いを辿って縋るように、俺は八月一日の首筋に顔を埋めた。
やっぱり、俺はおかしい。
あばらが軋みそうな程、強く抱き締められる。
ほずみは、俺を愛すると言った。
ただの興味の対象としてか、こいつの気持ちなんて知らない。
俺は、こいつをどう思っている?
俺にとってこいつは、どんな存在なんだ。
ただ近しい存在だから、依存しようとしているだけなのか。
今まで散々軽蔑していたものに、愛情に縋ろうとでもいうのか。
そんなこと……馬鹿げている。
——『あっはは! 笑える。愛だの何だの言うやつを見下して、死ぬほど癪に障るんじゃなかったのか? それをいざ自分が落ちぶれたら、すぐに手のひら返しやがって……ちょっと都合が良すぎるんじゃないのか?』
「はっ」
己の幻影が囁く声が頭に響く。
宰斗は息を飲み、唐突に藍の体を押し退けた。
「……宰斗くん? ごめん、急にこんなことして」
狼狽える藍に、宰斗は何も言えず顔を背ける。
沈黙が続く中、藍は一歩後ずさり何気なく白衣の襟を直した。
「僕は……人の愛しかたを知らない」
寂しげな声に、宰斗はゆっくりと顔を上げる。
視界に映る藍は、窓の外を遠く眺めていた。
「けど、君に対する感情は、今まで感じたことのないものだ。いつも頭の片隅に君がいて、ふとした事でも君に結びつけて考えてしまう。だから……」
言葉の後、藍は宰斗に向き直る。
その真っ直ぐな視線に、宰斗は目が離せなくなった。
「これが僕の愛情だと思う。うん……やっぱり、僕は君が好きなんだ。宰斗くん」
「……ほずみ」
藍は自分の気持ちを確かめるように、頷きながら話していた。
宰斗が小さく名前を呼ぶと、彼はふわりと笑みを溢す。
「別に何か答えが欲しいわけじゃない。ただの興味じゃないってこと、伝えたかっただけだから」
藍の言葉は、宰斗の胸をじんわりと満たしていく。
それと同時に、答えの出せない難問を突きつけられたように苦しくなった。
(なんだこれ……ドロドロして、息苦しくて……声が出せない)
黙り込む宰斗を見て、藍は真剣な顔で話を続ける。
「……変わってもいいんだよ? 宰斗くん」
その声に、宰斗は戸惑いの目で見上げる。
「君は過去の行いを悔やんで、自分が変わることを怖れてるのかもしれないけど……人が変わることは、何もおかしなことじゃない。自然なことなんだよ」
「……別に、俺はそんなんじゃ」
図星を突かれたように目を開き、宰斗は視線を逸らし呟く。
すると、藍は笑みを浮かべて首を横に振る。
「わかるよ……なんたって、君の主治医だからね」
藍は片手を腰に当て、得意気に言ってのけた。
しかし、格好を付けた瞬間に彼のスマホは鳴り、藍は慌ててポケットに手を突っ込む。
「ほずみです。はい、あぁ……わかりました、すぐ行きます」
通話を切り、藍は軽くため息を吐く。
「呼び出し。残念だけど、今日はこれまで。また明日ね、宰斗くん」
藍は軽い口調で、ヒラヒラと手を振りドアに向かう。
その時、ベッドの角に彼の脛が鈍い音を立てて当たった。
「くぅぅ〜〜……いってぇぇ」
藍はその場に踞り、蚊の鳴くような悲鳴を上げていた。
さすがの宰斗も、その情けなくこじんまりとした背中に声をかける。
「お、おい」
「えへへ……だ、大丈夫。じゃあ!」
藍は引きつった笑顔で振り向き、片足を擦る。そのままスッと立ち上がると、ぴょんぴょんと片足で跳ねながら病室を出ていった。
「なんだあいつ……ぷっ、ふふ」
ひとりになった病室で、宰斗は口を覆い吹き出す。
「ふふ……あっははは……あの音、絶対やべぇだろ」
笑い声と共に、ポタポタと水滴が床に落ちた。
笑えば笑うほど、生温い涙は止めどなく流れていく。
宰斗は両手で顔を覆い、その場にへたり込んだ。
まだ笑うことが出来る。
なのに何故か、とてつもなく胸が苦しい。
自分の心がわからない。
変わってもいいのか。いや、そもそもどう変われと言うんだ。自分自身のことすらわからないって言うのに。
「お前は、この答えを知っているのか? ほずみ」
◇
翌日。
宰斗はカウンセリングルームのドアをノックする。
中からは柳木の明るい声が聞こえ、宰斗は慎重にドアを開けて足を踏み入れる。
「いらっしゃい! また来てくれて嬉しいわ」
自然な笑顔を見せる柳木に、宰斗は無言で会釈を返した。
柳木はデスクに座ったまま、ソファーに向けて手の平を差し出す。
「どうぞ座って。あ、何か飲む? 前は勝手に紅茶にしたけど、珈琲もあるのよ?」
宰斗はソファーに腰掛け、テーブルの上にあるお菓子を見つめる。
大きめの器には、以前のようにクッキーや煎餅など個包装のものが盛られている。
(……またお菓子。もしかして、自分用なのか?)
じっと黙っていると、柳木は答えを待つように笑顔で首を傾げた。
「じゃあ、珈琲を」
無愛想な返事だったが、柳木は目を見開き嬉しそうに微笑む。
「わかったわ! ちょっと待っててね。あ、ブラックかしら?」
問いかけに、宰斗はこくりと頷く。
「ふふ、やっぱり。そうだと思った」
くすくすと声を上げながら、柳木はカップにインスタントの粉末を入れていく。
ポットからお湯が注がれると、部屋には珈琲の香りが充満する。
その不思議と気分の落ち着く香りを、宰斗はひどく懐かしく感じた。
「……はいどうぞ」
柳木は両手にカップを持ち、片方を宰斗の前に置く。
もう片方のカップには、ミルクが混じり甘い匂いがしていた。
「私もついでにね。ミルクと砂糖たっぷりで」
向かいの席に座り、嬉しそうに珈琲の匂いを嗅ぐ柳木を、宰斗は冷めた目で見つめる。
(だから……こんなに丸くなるんだよ)
「あ、今『だから太ってるんだ』って思ったでしょ?」
「……別に何も思ってません」
目を逸らしさらりと反論する宰斗に、柳木は不審の眼差しを送った。
「ふぅん……まぁいいわ。それより、今日は何か話したいことが出来た?」
柳木は珈琲を一口飲み、素早く切り替えて話題を振る。
宰斗はしばらく考え込むように俯くと、伏し目がちに口を開く。
「話したいことと言うか……聞きたいことが」
宰斗の言葉に、柳木は目を輝かせて身を乗り出す。
「何かしら。何でも遠慮なくどうぞ」
宰斗は若干身を引き、目を逸らしたまま息を飲んだ。
太ももの上で組んだ手に力を込め、落ち着かせるように息を吐く。
「……人を傷つけた人間が、笑うことは許されるんですか?」
話を聞いて、柳木の笑顔はすっと消えた。
「うーん、難しい質問ね。もう少し、詳しく話してもらってもいい?」
柳木の質問に、宰斗は俯き言葉に詰まる。
何度かパクパクと口を開くも、上手く言葉に出来ないまま時が過ぎた。
「……すみません。やっぱりいいです」
そのまま立ち上がる宰斗に、柳木は慌てて声を書ける。
「待って……時間ならあるのよ? もう少し、考えを整理してみない? ゆっくり待つから。時間の許す限り」
「……でも」
「そうね。私の考えを先に話しましょうか」
「あなたの?」
柳木は軽く頷き、宰斗に座るよう促した。
少し悩んでから腰を下ろす宰斗に、柳木は安心して息を漏らす。
「さっきの答えだけど……誰にでも感情を表現する権利はあると思うわ。そもそも、許す許さないの話ではないかもしれない」
「……だけど、傷つけられた人間はどうなる?」
宰斗の返事を聞いて、柳木は苦笑いを浮かべる。
「確かにいい気持ちではないわね。けれど、もし傷つけた側が誠意を持って謝罪して、それが伝わって受け入れてもらえれば、話は変わってくると思う。あくまで想像の話だけど、それが取り返しのつく事ならね」
「……取り返し」
虚ろに呟く姿に、柳木は慎重に言葉を選ぶ。
「もし、来栖くんが誰かを傷つけたとして……それを悔いて、誠意を持って向き合うことが出来れば、何かが変わる可能性はある」
「変わる?」
「えぇ。自分次第で取り返せることなら、向き合った方がいい。傷つけた相手のために出来ることをする……拒絶されるかもしれないけれど、それが前に進むための鍵になる」
宰斗は膝の上で拳を握り、固く唇を結ぶ。
その様子に、柳木はふわりと微笑んだ。
「……嫌なことからは逃げてもいい。本来はそう言った方がいいんだけど、あなたはそれを望んでないんでしょ?」
「え?」
「罰して欲しいって、そう思ってる。そうじゃないと、こんな疑問自体浮かばないもの」
柳木の見透かすような瞳に、宰斗は思わず目を逸らす。
そして、すっかり湯気の消えたカップを手にしてぐっと珈琲を飲み込んだ。
「ふふ、嬉しい。今日は飲んでくれて」
「……ごちそうさまでした」
優しく微笑む柳木に、宰斗は無愛想に返事をした。
宰斗の態度に確かな違いを感じ、柳木はふとあることを思い付く。
「ねぇ……来栖くんは、ほずみ先生のことどう思う?」
「へ? 何で、そんな」
「だって、あなたの主治医でしょ? 合う合わないとか、色々あるんじゃないかと思って」
予想していなかった質問に、宰斗は気まずさから視線を泳がせる。
「別に、これといって何も……ただの、変なやつで」
ぶつぶつと言い淀む姿に、柳木は面白そうにニヤリと笑う。
「うっふふ、変か……彼のことよくわかってるじゃない」
柳木の言葉に、宰斗は不思議そうな顔を向ける。
「彼、一見ちゃんとして見えるけど、考えが読めないというか面白いのよね。それにもう気付くなんて、来栖くんやるわね」
「……はぁ」
宰斗は目を合わせないまま、曖昧に返事をした。
すると、柳木はポンと手を打ち、ある提案を口にする。
「そうだ。今日私に聞きたかったこと、ほずみ先生に聞いてみたらどうかしら」
「……あいつに?」
「えぇ。彼も精神科医だもの、きっと話を聞いてくれるわ……あなたの事ならなおさらね」
最後の言葉に、宰斗はフッと目を伏せる。
無意識に藍の顔が浮かび、何故か体は熱を帯びていた。
ここに来る前、宰斗は藍に話をしようと考えていた。
けれど出来なかった。
自分の心をさらけ出す事に何故か躊躇して、気持ちが揺らいでしまったから。
宰斗は返事が出来ないまま立ち上がり、カウンセリングルームを後にした。




