14話 興味の行く先
「あら、何だか少し顔色がいいわね。昨日はよく眠れたのかしら?」
「……」
翌日。
宰斗はこの日も柳木のカウンセリングルームを訪れた。
柳木は相変わらず穏やかな笑みを絶やさず、無表情の宰斗に接する。
「今日はね、来栖さんの話を聞きたいと思ってるの。何でも思い付いたら話してみてね。あ、もちろん話したくなければそれで構いません。ゆっくりお茶を飲むだけでもいいから」
そう言うと、柳木は自分のデスクで作業を始めた。
宰斗は黙ったまま、テーブルに置かれたカップを見つめる。
小花柄のティーカップに、薄いオレンジ色の紅茶。その横には、小さな器にクッキーやらのお菓子が盛られていた。
それに触れることもなく、宰斗は静かにゆらゆらと立つ紅茶の湯気を眺める。
(何で俺は……こんなことをしてるんだ。こんな、無様な姿を晒して、のうのうと生きてる。ただ、与えられたモノにすがって。何も出来ない。こいつだって、心の底ではここにいる奴らを見下してる筈だ。聞こえのいい言葉を吐いて、笑って……)
微かな音で流れるオルゴールのメロディ。
カタカタと鳴るキーボードの音。
そんな環境音が耳に入らないほど、宰斗の思考はだんだん深く沈んでいく。
「……楽しいかよ。病んだやつらの相手は」
思考の中の言葉が意図せず漏れる。
柳木はそれに反応し、ピクリと視線を動かし作業の手を止めた。
「うーん……どうして、そう思うの?」
悩み声を上げ、柳木は平常心のまま言葉を返す。
宰斗は一瞬ハッとするも、すぐに顔を背けて押し黙った。
「いいのよ。何でも遠慮なく言って。あなたの心の中にあるものを吐き出して? ここはそういう場所だから」
柳木は頬杖をつき、柔らかな笑みで宰斗の言葉を待つ。
しばらくの沈黙が流れた後、ようやく宰斗は口を開いた。
「誰だって内心そう思うだろ。おかしくなったやつの相手なんて、正気でやれるわけがない……結局、自分より下のヤツを見て安心してるんだろ?」
軽蔑を含む言葉にも関わらず、柳木は穏やかな表情で姿勢を正す。
そして、優しい口調で話始めた。
「そう……まぁ、そう考える人もいるでしょうね」
微かに哀れみのある声に、宰斗はチラリと視線を向ける。
「精神的な病は、情報化が進んだ今でも正しく理解される事は少ないわ。本人の弱さ、持って生まれたもののせい……そんな風に思われることもある。でもね、これって誰にでも起こり得ることなの。ほら、生涯一度も風邪を引かない人なんていないでしょ?」
おどけたように笑うと、柳木は椅子から立ち上がり、宰斗の向かいのソファーに腰を降ろす。
向かい合わせになり、宰斗は無意識に構えて身を引く。
「誰にでも起こることだからこそ、自身を蔑むことはない……私はね、ここにいる人たちを鏡だと思ってるの」
「……鏡?」
「ふふ、そう。何かが違えば、自分も同じようになっているかもしれない。だから、軽蔑するなんて考えもしなかった……その人のルーツを探って、症状を理解して、少しでも心に寄り添う。そしてまた、穏やかな道を歩けるようにサポートする。少なくとも私は、そういう思いで今もこの仕事を続けてるわ」
柳木の飾らない言葉と自然な笑顔。
宰斗はいつの間にか、彼女の話に耳を傾けていた。
「どう? まだおばさんが隠し事をしてると思う?」
柳木は胸の前で腕を組み、少し意地悪な笑みを向ける。
宰斗は無愛想な表情で、彼女の目じっとを見つめた。
すると、柳木はキョトンと瞬きを繰り返し、ポッと頬を赤く染める。
「……もうやだ! そんな見られちゃったら、ドキドキしちゃうじゃない?」
くねくねと身を捩る柳木に、宰斗は心底呆れたような視線を送った。
「……冗談はやめてください」
「あら、滑っちゃったかしら」
柳木が嘘をついていないことは、宰斗にも理解できた。
それでも、どうしても自分の現状が受け入れられない。
自分がどうしようもない人間だと肯定してほしい。それと同時に、そんな自分自身が許せない。
そのせめぎ合いの感情が、宰斗を動けなくさせていた。
「……俺のこと、少しは知っているんでしょう? 俺は……ここで温い扱いを受けていいような人間じゃない。ずっと他のヤツを見下して、めちゃくちゃにして」
宰斗は膝の上で拳を握り、俯いたまま話し始める。
その様子に、柳木は真剣な顔で背筋を伸ばした。
「大学4年の冬に、教育実習の評価の取り消しと退学。理由まではカルテにないから、事情は知らないわ。けどま、それなりの事を起こしたってことなんでしょうね」
柳木の冷静な口ぶりに、宰斗は呆れたように鼻で笑う。
「はっ、白々しいな……これでもまだ、鏡だなんて思うんですか。平気で人を傷つけるようなクズを」
その問いかけに、柳木は表情を崩さないまま当然のように答える。
「えぇそうよ」
「は? そんなわけ」
「だって、今のあなたは違うもの……もう、違うんでしょ?」
見透かされるような、真っ直ぐな目。
宰斗はそこから目を逸らせず、僅かに唇を震わせる。
「……あんたに、何がわかる」
震える声に、柳木はふわりと笑顔を浮かべた。
「わかるわ。なんたって、おばさんは経験豊富ですから」
冗談めかした口ぶりに、宰斗は呆然と彼女の顔を見つめる。
「……本当に平然と人を傷つけた人なら、こんなにも思い病むことはない。たぶん来栖くんは今、過去の自分に罰を与えたいって……そう思ってるんじゃない?」
その言葉に宰斗は目を見開き、勢いよく立ち上がる。
「そんなもん、勝手な推測だ……もう、疲れたので戻ります」
背を向けて呟き、宰斗はそのまま部屋を出た。
パタンと閉められたドアを見つめ、柳木は背もたれに体を預け息を吐く。
「紅茶……飲んでくれなかったなー」
すっかり冷めてしまったカップを持ち、柳木はそれを少し傾ける。
内側には紅茶の線がくっきりと残り、底が濃く沈殿していた。
「……混ざれば綺麗な色になるのに、底に沈んで、濃く、暗くなっていく」
バランスの崩れた状態が、宰斗の心と重なって見えた。
柳木は一人呟き、そっとカップをテーブルに戻す。
「崩れた心の欠片が沈んで、濃くなって。本当の自分が見えなくなっている……彼、もう来ないかもしれないわね」
宰斗の心を思い、柳木は少し寂しそうに笑っていた。
◇
柳木の予想通り、宰斗はカウンセリングに現れなくなった。
数日が経ったある日の午後。
藍は宰斗の様子を見に病室を訪れる。
「宰斗くん? 入るよ」
軽くノックをして、藍は少し気まずい様子で声をかける。
病室を覗くと、宰斗は窓辺に立って外を眺めていた。
「……今日は、起きてたんだね」
ゆっくりと歩み寄ると、宰斗は一度振り返り、何も言わずにまた窓の方を向いた。
藍は同じように、静かに彼の隣に立つ。
「……あんたは、何でこんな仕事してるんだ?」
「えっ……」
予想外な宰斗の問いに、藍は戸惑い言葉に詰まる。
宰斗が藍に質問を投げ掛けるのは、初めての事だった。
嬉しさと動揺を隠しながら、藍は必死に答えを探す。
「君から僕に質問なんて驚いたよ。どうして、そんなことを?」
「別に……ちょっと気になっただけだ」
「そっか」
藍は同じ目線で外を見つめたまま、ゆっくりと口を開く。
「前に中庭で、君に聞いたでしょ? 誰かを愛したことがあるかって」
「……あぁ」
意図せず藍に抱き締められたことを思い出し、宰斗はふと顔を背ける。
「あれさ……僕も同じなんだよ」
「え?」
「僕もないんだ。今まで一度も、誰かを愛したことなんて」
そう言って微笑みかける藍の表情は、宰斗にはどこか寂しそうに見えた。
宰斗は藍を見つめたまま、ただ黙って耳を傾ける。
「昔から、どこか俯瞰して見てしまうんだ。自分のことも、他人が自分に向ける感情も、なんだか現実味がなくて。頭では感情を理解できても、心はどこか浮いていて……変だよね。その理由を探したくて、心理学に興味を持って。気付けば精神科医になってた」
外を眺めながら話し終えた後、藍は宰斗に笑いかける。
「……少し、わかるような気がする」
ポツリと漏らした宰斗の言葉に、藍は驚いて目を見開く。
そして、フッと安心したように微笑んだ。
「ありがと。でも、やっぱり何か今日は変な感じだね」
「……そうかよ」
無愛想な声に、藍は俯いて堪えるように笑った。
「こういうのは良くないのかもしれないけど……僕は、患者さんのことを興味の対象として見てた。どんな言葉をかけるのが正解かとか、この症状にはどう接するのがいいかとか。単なる医学的なことに基づいた行動。まぁ、それが間違いではないんだけどね……患者さんが寛解しても、難問が解けたみたいな達成感が先に来て。医師としての喜びみたいなものとは、少しずれていたと思う」
淡々と、穏やかな口調で話す藍を、宰斗は隣で静かに見つめていた。
「……ごめん。ちょっと話しすぎた」
「いい。聞いたのはこっちだから」
それから話は途切れ、二人の間に沈黙が流れる。
宰斗の横顔を見つめて、藍は気になっていたことを口にする。
「そういえば最近、柳木先生のカウンセリングに行ってないようだけど……何か、嫌なことでもあった?」
しかし、宰斗は黙ったまま質問には答えなかった。
「……まぁ、無理に行くものじゃないけど。気になることがあれば、話してくれれば」
そう言って、藍は宰斗の手に優しく触れる。
拒絶されるかもしれないという藍の思いとは反対に、宰斗はその手を握り返した。
「さ、宰斗くん?」
「……何でお前が驚くんだよ」
「ははっ……いやぁ、ちょっと予想外でさ」
確かめるように指先を擦り、絡めてくる宰斗の手。
ひんやりと冷たい手を、藍は徐々に強く握っていく。
「……俺のことも、ただの興味なのか?」
空っぽで、どこか哀しさを孕んだ声。
それを耳にした途端、藍は一気に全身の血が巡るような感覚を覚えた。
そして衝動的に、彼の手を引き体を強く抱き締める。
「やっぱり……今日は変だよ」
背中に這う、宰斗の遠慮がちな手の感触に、藍は切ない声を漏らしていた。




