表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
97/168

第97話 ユリウス、初めて自分からアリアへ文を出そうとして止まる

 ユリウスは、自室へ戻ってからも、しばらく椅子に座れなかった。


 侯爵家の廊下は、いつも通り静かだった。

 壁に掛けられた古い肖像画も、磨き上げられた燭台も、窓辺の薄い光も、何一つ変わっていない。


 変わってしまったのは、自分の中だけだ。


 王城から届いた文書。

 北方越境路再構成。

 仮案破棄。

 現地照合担当。

 第一草案成形まで継続を要す。

 そして、そこに当然のように置かれていた名前。


 アリア・ウェルグラン。


 その文字が、何度も頭の中へ浮かんでは消える。


 婚約者だった女。

 いや、そう呼ぶことさえ、今はどこか違って感じる。


 自分の隣にいた人間。

 自分が見ていなかった人間。

 王城が今、必要不可欠だと認めた人間。


 ユリウスは窓際まで歩き、外を見た。


 侯爵家の庭は整っている。

 剪定された木々。

 白い小石の小道。

 一定の間隔で植えられた花。

 乱れのない景色。


 以前の自分なら、それを美しいと思っただろう。

 今は、少し息苦しい。


 整いすぎている。


 そう思った瞬間、自嘲が喉の奥へ浮かんだ。


 まるで、父に見せられた王城の文書に出てきた言葉のようだ。

 整えられたもの。

 均されたもの。

 見えなくなったもの。


 自分は、アリアをそういうふうに見ていたのではないか。


 静かで、控えめで、婚約者として扱いやすい令嬢。

 侯爵家の隣に置いても、余計な波風を立てない娘。

 古文書を読むのが得意で、家の中では便利な才を持つ女。


 その程度に。


「……違った」


 声に出してから、ユリウスは目を伏せた。


 違ったのだ。

 最初から。


 ただ、自分が見なかっただけだ。


 机へ向かう。


 書き物机の上には、上質な便箋が揃えてある。侯爵家の紋章が薄く透かしで入ったものだ。正式な文を書くには十分すぎる紙。けれど、その白さが今はやけに重い。


 ユリウスは椅子へ座り、ペンを取った。


 何かを書かなければならない。

 その衝動だけはあった。


 だが、最初の一行が出てこない。


 ――アリアへ。


 そう書こうとして、止まる。


 呼び捨てでよいのか。

 以前なら当然だった。婚約者だったのだから。

 だが今は違う。


 もう、彼女は自分の婚約者ではない。


 では、ウェルグラン嬢へ、と書くべきか。

 それでは他人行儀すぎる。

 いや、他人なのだ。今は。


 そう考えて、ユリウスはペン先を紙から離した。


 たった宛名で、もう進めない。


 情けない。


 自分は侯爵家の嫡男として、どれほど複雑な文書にも目を通してきた。形式的な挨拶も、政治的な含みを持つ返書も、家同士の調整文も書いてきた。


 なのに今、たった一人の女へ何を書くかが分からない。


 ユリウスは別の紙を引き寄せた。


 宛名は後で考えればいい。

 まずは本文だけでも書こう。


 ――君が王城で必要とされていると聞いた。


 違う。


 その一文を書いた瞬間、胸の奥が嫌な形でざわついた。


 “聞いた”。

 まるで他人事だ。

 しかも、彼女が必要とされるようになって初めて関心を向けたように響く。


 実際、そうなのかもしれない。

 だからこそ、余計に醜い。


 ユリウスは線を引いて消した。


 ――君の力を、私は知らなかった。


 違う。


 知らなかったのではない。

 知ろうとしなかったのだ。


 また消す。


 ――すまなかった。


 短い。

 短すぎる。


 何に対して謝るのか。

 婚約を白紙にしたことか。

 役立たずに近い扱いをしたことか。

 彼女の才を見なかったことか。

 彼女を、自分の都合のよい形へ押し込めていたことか。


 謝ることが多すぎて、ただ“すまなかった”と書いた瞬間、全部が薄くなる。


 ユリウスはその一文にも線を引いた。


 紙の上には、消された言葉だけが増えていく。


 君が王城で必要とされていると聞いた。

 君の力を知らなかった。

 すまなかった。


 どれも本当のようで、どれも足りない。


 扉が軽く叩かれた。


「入れ」


 入ってきたのは、側近のエルンストだった。

 幼い頃からユリウスに仕えている男で、侯爵家の空気に慣れた控えめな人物だ。だが今日の彼は、机の上に散らばる書き損じを見て、わずかに表情を動かした。


「お邪魔でしたか」


「いや」


 ユリウスはペンを置いた。


「何か用か」


「旦那様より、午後の予定を一部遅らせるとの伝言です。王城からの件で、追加確認が入るかもしれないと」


「そうか」


「……アリア様の件ですね」


 その名が出た瞬間、ユリウスの指がわずかに動いた。


 エルンストはすぐに頭を下げる。


「失礼いたしました」


「いや、いい」


 ユリウスは紙を見下ろしたまま言う。


「お前は、アリアのことをどう見ていた」


 エルンストは少しだけ黙った。


 答えに迷っているというより、どこまで正直に言うべきか測っている沈黙だった。


「……静かな方だと思っておりました」


「それだけか」


「いいえ」


 エルンストは慎重に続ける。


「静かですが、何かを見落とす方ではない、と」


 ユリウスは目を上げた。


「なぜそう思った」


「以前、侯爵家へお越しになった時、応接室に置かれていた古い北方関係の控えに目を留められたことがありました」


「そんなことが?」


「はい。ほんの短い時間でしたが、アリア様は差し替えられた地名の表記に気づいておられました。私どもは飾りのように置いていた文書でしたので、少し驚いた記憶がございます」


 ユリウスは息を止めた。


 知らなかった。


 いや、まただ。

 知らなかったのではない。

 その場にいたとしても、自分はきっと気に留めなかった。


「なぜ言わなかった」


 そう口にしてから、すぐに自分の浅さに気づく。


 エルンストは責めるでもなく、淡々と答えた。


「申し上げるほどのことではないと、その時は思いました」


「今は?」


「今なら、申し上げるべきだったかもしれないと思います」


 その言い方には、責任逃れがなかった。

 だからこそ、ユリウスは何も言えなかった。


 自分だけが悪い、と言えば楽なのかもしれない。

 周囲が何も言わなかった、と言えばもっと楽かもしれない。

 だが実際には、誰もが少しずつ見過ごし、そして自分が一番、見ようとしなかった。


「文をお書きになるのですか」


 エルンストが控えめに尋ねた。


 ユリウスは書き損じを見た。


「書こうとしている」


「出されるのですか」


「分からない」


 それが本音だった。


 書きたい。

 だが、出す資格があるのか分からない。


 今この時、アリアは王城と隣国館の間で、新しい草案に関わっている。自分が何か個人的な文を送れば、その仕事の邪魔になるのではないか。

 あるいは、今さら感情を向けてくる男として、ただ彼女を煩わせるだけではないか。


「何を書けばいい」


 それは、側近へ向けた問いというより、独り言だった。


 エルンストはすぐには答えなかった。


 やがて、静かに言う。


「戻ってきてほしい、ではない方がよろしいかと」


 ユリウスは苦く笑った。


「分かっている」


「必要だった、も」


「それも、分かっている」


「でしたら……」


 エルンストは少しだけ言葉を探した。


「今すぐ送る文ではなく、まず旦那様ご自身が何を見てこなかったのかを整理する文を書かれてはいかがでしょう」


 その提案に、ユリウスは黙った。


 父にも言われた。

 自分が何を見てこなかったのかを考えろ、と。


 文を送る前に、自分の中で整理しろ。

 同じことを、側近もまた別の形で言っている。


「……そうか」


 ユリウスは新しい紙を一枚引いた。


 今度は宛名を書かなかった。

 誰かへ送るための文ではない。

 自分が見てこなかったものを書き出すための紙だ。


 ペンを置く。


 最初の一行は、意外にもすぐ出た。


 私は、アリアの静かさを、従順さだと思っていた。


 書いた瞬間、胸が痛んだ。


 だが、消さなかった。


 続ける。


 私は、彼女が黙っている時、何も考えていないのではなく、私より深く読んでいるのだと考えたことがなかった。


 指先が強く震えた。


 さらに書く。


 私は、彼女の才を、家の中で役立つものとしてしか見ていなかった。


 ここで一度、ペンが止まる。


 息が少し苦しい。

 だが止めてはいけない気がした。


 私は、婚約者を失ったのではない。先に、彼女を見る機会を自分で捨てていた。


 その一文を書いた時、ユリウスはようやく顔を伏せた。


 胸の奥から、何か鈍いものがこみ上げてくる。


 後悔。

 羞恥。

 喪失。

 それらが混ざって、名前をつけられない重さになる。


 エルンストは何も言わなかった。

 黙って一礼し、部屋を出ていく。


 ひとりになると、静けさが戻った。


 ユリウスは送るつもりだった便箋を見た。


 宛名もない。

 書き損じばかり。

 消された言葉ばかり。


 戻ってきてほしい。

 必要だった。

 すまなかった。


 どれも今は送れない。


 彼女に届く言葉としては、まだあまりに自分本位だ。


 ユリウスはその紙を折らず、封もせず、引き出しへ入れた。

 そして、もう一枚の紙――自分が見てこなかったものを書いた紙だけを、机の上に残した。


 送るためではない。

 忘れないために。


 窓の外では、午後の光が庭を斜めに照らしていた。

 整った庭。

 整った屋敷。

 整った家。


 その中で、自分だけがようやく少し崩れ始めている。


 だが、たぶんここからしか始まらない。


 ユリウスは机の上の一文をもう一度見た。


 私は、アリアの静かさを、従順さだと思っていた。


 その誤りを、まず自分が認めるところからしか、何も書けないのだと知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ