第96話 父、初めて娘に手紙を書く
王都では、その日の午後になっても、ウェルグラン伯爵の書斎の空気だけが朝のまま重かった。
窓の外では陽が高く、朝に水を打たれた石畳はもうすっかり乾いている。庭師が低木の形を整え、回廊では使用人たちが静かに行き来し、家そのものは何事もなかったかのように整っていた。
だが伯爵の机の上だけが違った。
王城からの正式照会。
現地照合担当アリア・ウェルグラン。
第一草案成形まで継続を要す。
伯爵家においても不用意な帰還命令その他、照合作業を妨げる行為なきよう配慮されたし。
その文面を、伯爵は朝から何度読み返したか分からない。
最初に読んだ時は困惑だった。
次に来たのは、戸惑いと、わずかな反発。
家の娘のことを、なぜ王城にここまで言われねばならないのかという気持ちがなかったわけではない。
だが、時間が経つにつれ、その感情はだんだん別のものに変わっていった。
反発するにも、その前提が崩れている。
王城が書いてきたのは、家の内向きの礼儀ではなく、実務の必要そのものだったからだ。
つまりこれは、伯爵家の体面をどう保つかより先に、
アリアがいま、実務の中にいる
という現実を受け入れるかどうかの話なのだ。
「……旦那様」
控えていた書記が、そろそろ伺うように声をかけた。
「何だ」
「王城への返書、文面の確認を」
伯爵は机の端へ置かれた下書きへ目を落とした。
伯爵家ウェルグランは、貴局の意を了解し、照合作業継続を妨げぬよう配慮する。
現地滞在の延長についても、王城実務上の必要を尊重する。
それだけの短い文だ。
だが、その短さの中に、この家が初めて認めることになる事実が詰まっている。
アリアは家の中の“余っている娘”ではない。
婚約が白紙になって宙に浮いた存在でもない。
王城が必要とし、家がそれを妨げぬよう配慮を求められる位置にいる。
「……出せ」
伯爵が言うと、書記は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
書記が下がる気配を見届けたあと、伯爵は椅子へ深くもたれた。
王城へ返す文は、それでいい。
いや、それしかない。
だが、それで終わりではないことも、もう分かっていた。
机の隅には、まだ白紙の便箋が一枚置かれている。
夫人に言われたのだ。
“何か書きますか”と。
その時はまだ、いいと答えた。
何を書けばよいか分からなかったからだ。
だが今は、書かぬわけにもいかない気がしていた。
父として。
今さらであっても。
伯爵は便箋を手元へ引き寄せた。
ペンを取る。
だが、最初の一行が出てこない。
――王城の文を見た。
――よく務めているようだ。
――健康に気をつけよ。
――伯爵家の名を損なうな。
どれも違う気がした。
違うというより、薄い。
表面だけだ。
いま自分が本当に書くべきものには、届かない。
だがでは何を書く。
お前を見誤っていた、とでも書くのか。
必要な娘だった、と。
そんなことを書いて、何になる。
書きかけてはやめ、別の言葉を考えては止まり、伯爵はしばらく白紙の上で無言のままペンを持っていた。
そこで扉が軽く叩かれた。
「入れ」
伯爵夫人だった。
彼女は机上の白紙と、まだ何も書かれていない便箋を見て、すぐに事情を察したらしい。
だが何も言わず、書斎の中ほどで止まる。
「まだ、書けん」
伯爵が先に口を開いた。
夫人は少しだけ目を和らげた。
「でしょうね」
「お前はすぐ書けるのか」
「短くなら」
その答えに、伯爵は小さく息を吐く。
「何と書く」
「もう書きました」
「……何?」
夫人は懐から小さく折った紙を出した。
「追伸に同封してもらうつもりでした」
伯爵はそれを受け取り、開いた。
そこには、夫人らしい整った字で、たった一行だけ書かれていた。
やっとあなたの机が、広い場所へ出ましたね。
伯爵は、その一行を見て長く黙った。
机が、広い場所へ出た。
娘が変わった、ではない。
王城が特別に目をかけた、でもない。
もともとそこにあった机が、ようやく本来あるべき広さへ出た。
その言い方は、ひどく静かで、だが残酷なほど正確だった。
「……お前は、ずっとそう思っていたのか」
夫人は頷いた。
「ええ」
「私は、家の中で足りると思っていた」
「知っています」
「婚約が決まれば、それで穏当におさまると」
「それも」
夫人は責めなかった。
ただ事実として受け止めるように言う。
「でも、あの子が読んでいたものは、家の棚一つでは収まりきらなかったのでしょう」
伯爵は、その言葉に反論できなかった。
収まりきらなかった。
たしかにそうだ。
自分はずっと、家の中で使える範囲に娘の価値を収めようとしていた。
伯爵家の役に立つ範囲。
婚約者として都合のよい範囲。
静かな長女として整っている範囲。
だが今、王城が文書で言ってきているのは、その範囲の外側だった。
「……今さらだ」
再びその言葉が漏れる。
夫人は静かに頷く。
「ええ」
「今さら、父として何を書く」
「遅いのは、もう仕方ありません」
彼女は柔らかく、だが曖昧には言わなかった。
「でも、今さらでも父として書くなら、少なくとも体面だけの言葉にはしない方がいいでしょう」
その一言で、伯爵はようやく目を閉じた。
体面だけの言葉。
それなら、いくらでも書ける。
健康に気をつけよ。
家名を損なうな。
王城の実務に励め。
そういう文なら、いくらでも整えられる。
だが、いま書くべきなのはそれではないのだ。
「……難しいな」
「ええ」
夫人は少しだけ微笑んだ。
「でも、初めて書くのですから」
初めて。
伯爵はその語に、少しだけ顔をしかめた。
たしかに初めてかもしれない。
指示でもなく、家の都合でもなく、婚約に関する調整でもなく、父としてアリアへ何かを書くのは。
彼は便箋を引き直した。
そして今度は、少しだけ違う言葉から始めてみる。
アリアへ。
そこまで書いて、手が止まる。
だが、さっきまでの白紙の重さとは違った。
次に書いたのは、ひどく不器用な一文だった。
王城より文が来た。お前の仕事が、今の向こうに必要であることを知った。
きれいではない。
整ってもいない。
だが嘘ではなかった。
伯爵は少しだけ間を置き、さらに書いた。
父として言うのが遅いが、身体を損なわぬように。
そこでまた止まる。
謝るべきか。
見誤っていたと書くべきか。
必要だったと書くべきか。
どれも、まだうまく言葉にならない。
だから伯爵は、いま言えるところまでしか書けなかった。
伯爵家のことは気にせず、まずはお前の務めを果たせ。
それが精いっぱいだった。
読み返してみると、やはり不器用だ。
感情がこぼれているわけでもない。
父として温かい文とも言い難い。
だが少なくとも、今までのように体面だけではない。
そして初めて、娘のしている仕事を“お前の務め”と書いた。
「……これでいいか」
誰にともなく言うと、夫人は少しだけ便箋を読み、静かに頷いた。
「ええ」
「短すぎるか」
「ちょうどいいと思います」
「そうか」
伯爵は便箋を折る。
そこへ夫人の一行を添える。
ふたつの文の温度差は大きい。
だが、それでもいいのかもしれない。
今の伯爵家そのもののようで。
「出しておきます」
夫人が言う。
伯爵は一瞬だけ迷ったが、やがて頷いた。
「頼む」
夫人が出ていったあと、書斎にはまた一人の時間が戻った。
机の上には、王城からの正式照会の写しだけが残る。
必要不可欠。
第一草案成形まで継続を要す。
現地照合担当。
伯爵はその文書をもう一度見た。
今さらだ。
たしかにその通りだ。
だが、今さらでも書かぬよりはましなのだろう。
窓の外では、昼の光が少しだけ傾き始めていた。
その光の中で伯爵は、初めて少しだけ理解する。
王都で最初に慌てたのは父であり、
そして初めて娘へ手紙を書くのもまた父なのだと。




