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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第98話 アリア、レオンハルトと“戻らない理由”を言葉にする

隣国館に、王都からの手紙が届いたのは、その日の夕刻だった。


 最初に届いたのは王城からのものではなく、ウェルグラン伯爵家からの封書だった。

 封蝋には見慣れた家紋が押されている。


 アリアはそれを見た瞬間、ほんの少しだけ息を止めた。


 父からだ。

 正確には、父の書斎から出されたものだろう。


 これまで家から文が届かなかったわけではない。

 必要な連絡や形式上の確認はあった。

 だが、この封書は少し違って見えた。


 厚くはない。

 むしろ薄い。

 だからこそ、中に込められたものの扱い方に迷っている気配が、封の向こうから滲んでいるようだった。


「おひとりで読まれますか」


 グレゴールが静かに問う。


 アリアは少しだけ考え、頷いた。


「はい」


 自分の机へ封書を持っていく。

 数日前に用意されたその机は、もうすっかり彼女の作業の形を覚え始めていた。右端には語固定候補。左端には王城から返った写し。中央には記録帳。引き出しにはしおり紙と薄紐。


 そこへ伯爵家の封書が置かれる。


 家の中でしか居場所を持たなかった自分の過去が、いまこの机へ小さく訪ねてきたようだった。


 アリアは封を切った。


 父の字だった。


 整っている。

 硬い。

 そして、いつもより少しだけ迷いがある。


 ――アリアへ。

 ――王城より文が来た。お前の仕事が、今の向こうに必要であることを知った。

 ――父として言うのが遅いが、身体を損なわぬように。

 ――伯爵家のことは気にせず、まずはお前の務めを果たせ。


 短い文だった。


 読み終えて、アリアはしばらく何も言わなかった。


 父らしい文だと思った。

 不器用で、形式の殻を完全には脱げていない。

 謝罪ではない。

 労いというにも硬い。

 今までのすべてを埋めるような温かさもない。


 けれど、そこにはひとつだけ、以前なら決して書かれなかった言葉があった。


 お前の務めを果たせ。


 伯爵家の務めではない。

 侯爵家へ嫁ぐ者の務めでもない。

 王城へ迷惑をかけるなという命令でもない。


 お前の務め。


 父は、少なくともその言葉だけは書いたのだ。


「……今さらですね」


 小さく、声が出た。


 怒りではなかった。

 悲しみとも少し違う。

 胸の奥に、乾いたものと温かいものが同時に落ちてくるような感覚だった。


 今さらだ。

 でも、父にとってはたぶん、これが精いっぱいなのだろう。


 便箋の下に、小さな紙が添えられていた。


 母の字だ。


 ――やっとあなたの机が、広い場所へ出ましたね。


 その一行を見た瞬間、アリアの視界が少しだけ揺れた。


 父の文では涙は出なかった。

 だが母の一行は、胸の中のいちばん柔らかいところへまっすぐ届いた。


 机が、広い場所へ出た。


 そうだ。

 自分はずっと机の前にいた。

 伯爵家の古書庫でも。

 婚約の陰でも。

 王城の端でも。

 そして今、この隣国館の閲覧室でも。


 変わったのは、自分が机に向かうことではない。

 机の置かれる場所だった。

 家の奥から、制度と現場と王城のあいだへ。

 閉じた部屋から、返した言葉が人を動かす場所へ。


 アリアは母の紙をそっと記録帳に挟んだ。


 父の文は、しばらく見つめたあと、同じように記録帳へ入れた。

 破りたいとは思わなかった。

 抱きしめたいとも思わなかった。


 ただ、残しておこうと思った。


 今さら届いた、不器用な認識として。


 その日の作業は、いつもより少し早く区切られた。


 王城から返ってきた信頼回復案への第一応答は、翌朝になる見込みだった。

 商人組合の聞き取り記録も、午後の段階で一度整理が終わっている。


 夕食後、アリアは自分から庭へ出た。


 隣国館の庭は、伯爵家の庭ほど整いすぎていない。

 低木の枝は少し自由に伸び、石畳の間には小さな草が覗いている。手入れはされているが、呼吸を残している庭だった。


 夜気は冷たすぎず、石壁に沿って細い風が流れている。


 その庭の端で、レオンハルトが立っていた。


 待っていたのか、偶然なのか。

 アリアには分からなかった。

 ただ、彼がこちらを見ても驚かなかったことから、少なくとも予想はしていたのだろうと思った。


「眠れませんか」


 彼が問う。


「まだ、少し」


 アリアは庭の石段に近づいた。


「父から手紙が来ました」


「伺いました」


「短い文でした」


「そうですか」


「不器用で、硬くて……でも、初めて私の仕事を“私の務め”と書いていました」


 レオンハルトは静かに聞いていた。


 アリアは夜の庭へ視線を向けた。


「母は、一行だけでした」


 そして、その言葉をそっと口にする。


「やっとあなたの机が、広い場所へ出ましたね、と」


 レオンハルトは少しの間黙っていた。

 やがて、低く言う。


「よい言葉ですね」


「はい」


 アリアは頷いた。


「とても」


 それからしばらく、二人は庭の風の音を聞いていた。


 遠くで夜番の足音がする。

 館の中では、まだ書記官が紙をまとめているのか、かすかな物音があった。

 ここは静かだが、止まってはいない。


 その静けさの中で、レオンハルトが口を開いた。


「王都から戻るよう求められたら、どうされますか」


 いずれ聞かれると分かっていた問いだった。


 王城内では、すでに帰還派と現地継続派が割れ始めている。

 伯爵家は妨げぬと返した。

 侯爵家も、おそらく今ごろ何かを考えている。

 王都へ戻せば体面は整う。

 中央で扱えば政治的にも収まりがよい。


 けれど、アリアの答えはもう、かなり前から決まり始めていた。


「戻りません」


 彼女は静かに答えた。


 言ってから、自分でも驚くほど声が揺れていないことに気づいた。


 レオンハルトは問い返さない。

 ただ、続きを待つ。


「いえ……正確には、今は戻りません」


 アリアは言葉を整え直す。


「王都が嫌だからではありません。父の手紙が遅すぎたからでも、侯爵家に会いたくないからでもありません」


 それらが全くないと言えば嘘になる。

 王都には痛みがある。

 伯爵家には古い息苦しさがある。

 侯爵家には、もう取り戻せないものがある。


 でも、それが一番の理由ではない。


「必要とされているから残る、でもありません」


 レオンハルトの目が少しだけ動いた。


 アリアは続ける。


「ここでしか、自分の見たものを最後まで返せないからです」


 言葉にした瞬間、胸の奥が静かに開いた気がした。


 ここでしか返せないものがある。

 現地帳簿の息。

 商人たちの言葉。

 道を信用しなくなるという痛み。

 最初の一往復の重さ。

 王城が均しそうになるたびに、ぎりぎりで残さなければならない原語。


 それらは、中央へ持ち帰れば整うかもしれない。

 だが、整うことで消えるものもある。


「王城へ戻れば、きっと肩書きは綺麗になります。伯爵家にも説明しやすくなる。侯爵家との距離も、表向きには処理しやすい」


「ええ」


「でも今の段階で戻れば、私自身もまた、整えられてしまう気がします」


 それは自分に向けた恐れでもあった。


 王城の中へ入れば、照合担当という肩書きはもっと公式になるだろう。

 だが同時に、誰かが自分の役割を定義する。

 どこまで見てよいか、どの文に口を出してよいか、どの語を残してよいか。


 その枠が必要な時もある。

 だが今ではない。


「今はまだ、ここで見なければならないものがあります」


 アリアは夜の庭を見つめる。


「制度の外側にいた人たちの声が、ようやく紙へ入り始めたばかりです。ここで離れたら、また“制度に入れやすい形”だけが残ってしまうかもしれない」


 それは、もう何度も見てきた危険だった。


 再平滑化。

 有無への置換。

 可否への二分。

 機能語への逃避。

 暫定を補助扱いする癖。

 全部を守るふり。

 そのすべてを見てきたからこそ、ここで離れる怖さが分かる。


「だから、戻りません」


 今度ははっきり言った。


「必要だから置かれるのではなく、私が最後まで返したいから、ここに残ります」


 言い終えたあと、夜風が少しだけ髪を揺らした。


 レオンハルトはしばらく黙っていた。


 その沈黙は、評価でも確認でもなかった。

 アリアの言葉が、庭の中に自然に置かれるのを待つような沈黙だった。


 やがて彼は言う。


「それなら、もう誰かがあなたを“連れてきた”のではありませんね」


 アリアは顔を上げた。


「え?」


「あなたが、ここに残ると選んだ」


 その一言に、胸の奥が強く鳴った。


 連れてこられた。

 求められた。

 必要とされた。

 それらは確かに事実だった。


 だが今は違う。


 自分が残ると選んだ。


 その違いは、とても大きい。


「……はい」


 アリアはゆっくり頷いた。


「そうですね」


 言葉にすると、驚くほど静かな覚悟が胸に満ちた。


 誰かに必要とされたから残るのではない。

 誰かに認められたから進むのでもない。

 父が今さら手紙を書いたからでも、元婚約者が後悔しているかもしれないからでもない。


 自分が見たものを、最後まで返したいから残る。


 それが今の答えだった。


 レオンハルトは夜の庭へ視線を戻した。


「王城には、いずれそれを伝える必要があるでしょう」


「はい」


「帰還派にも、現地継続派にも」


「ええ」


 アリアは頷く。


「その時は、感情ではなく実務として書きます」


「あなたらしい」


 少しだけ、彼の声が柔らかくなった気がした。


 アリアは小さく笑う。


「でも、感情がないわけではありません」


「分かっています」


「怖くないわけでもありません」


「それも」


 短い返答だった。

 だが、その短さが心地よかった。


 夜の庭で、アリアは初めてはっきりと自覚した。


 自分はもう、受け身の人間ではない。

 追い出されたから来たのでも、拾われたから働いているのでも、必要とされたから残るのでもない。


 自分の見たものを最後まで返すために、ここを選ぶ。


 その選択が、ようやく自分の足元に置かれた。


 部屋へ戻る前、アリアは一度だけ館の窓を見上げた。

 閲覧室の灯りがまだ点いている。

 自分の新しい机のある部屋だ。


 あの机へ戻る。

 そう思った時、胸の奥に温かな確かさが生まれた。


 母の言葉通り、机は広い場所へ出た。

 そして今、自分はその机に戻ることを、自分で選んでいる。

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