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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第8話 見つけられてしまった令嬢

 王城の客が去ったあとの古書庫は、いつもより静かだった。


 何も変わっていないはずなのに、棚に並ぶ書物も、机の上の控え帳も、積まれた問い合わせ文書も、どこか別の顔をして見える。まるで長いあいだ自分だけのものだと思っていた場所へ、外の風が少しだけ入り込んできたようだった。


 アリアは窓際の机に座り、しばらく何も書かずに指先だけを重ねていた。


 心が落ち着かない。


 理由は分かっている。今日ここへ来た王城の文官フェリクス・ドーレンと、あの夜会にいた高い男――おそらく北方使節側に連なる何者かが、自分を一人の「読める人間」として確認していったからだ。


 しかももう、誤魔化せない段階で。


 伯爵家を通って来た文書仕事が、実際には誰の手によるものなのか。

 夜会で巻紙を読み解いたのが誰なのか。

 古い北方語と王国の旧規定を一つの線で結びつけられる人間が、どこにいるのか。


 彼らはそれを見つけた。


「……見つけられてしまったのね」


 小さく呟くと、自分の声が少しだけ震えて聞こえた。


 嬉しくないわけではない。むしろ嬉しいのだ。やっと見つけてもらえた、という思いは確かにある。


 ただ、長く暗い場所にいた者が急に日向へ引かれた時のような、目の眩む感じも同時にあった。


「お嬢様」


 ローベルトが湯気の立つ茶を置きながら、控えめに声をかける。


「少しお休みください」


「ありがとう」


 茶器に手を伸ばすと、指先が思ったより冷えていることに気づいた。自分では平静のつもりでも、身体は正直らしい。


 老執事は少し離れた場所に立ったまま、静かに言った。


「今日の方々は、本気でございましたな」


「ええ」


「表向きは伯爵家へ依頼していたとしても、今はもう『誰が見ているのか』を知ってしまわれた」


 アリアは湯気の向こうで目を伏せた。


「そうね」


「お嫌でございますか」


 問いはまっすぐだった。


 アリアは少し考える。


 嫌か、と問われると難しい。

 怖い。落ち着かない。自分なんかが、とまだどこかで思う。

 でも嫌ではない。


「……嫌ではないわ」


 その答えを口にした瞬間、自分でも少し驚いた。


「怖くはあるけれど、嫌ではないの。むしろ、今まで見ないふりをされていたものを、ちゃんと見てもらえた気がして……」


 そこまで言って、言葉が少し途切れる。


 ローベルトは急かさず待ってくれた。


「でも同時に、今さら気づかれても、と思う自分もいるのよ」


「今さら、でございますか」


「だって、この家ではずっと前から同じだったもの。読めることも、探せることも、整理できることも。役に立つ時だけ紙を回されて、それ以外では地味だとか華がないとか、そういうことばかり言われてきたのに」


 そこまで口にしてから、アリアは小さく息を吐いた。


「王城の人たちは悪くないわ。あの人たちは知らなかっただけ。でも私は……なんだか、自分が大事にしてきたものを、家の中でずっと安く扱われていたことまで、急にはっきり見えてしまって」


 ローベルトはややあってから、静かに言った。


「それは、お嬢様が悪いのではございません」


「分かっているつもりよ」


「つもり、ではなく、本当にそうでございます」


 古書庫に落ちる光が少しずつ傾いていた。棚の上段だけが明るく、足元の石床はもう薄暗い。アリアはその明暗の境目を見つめながら、ぼんやり思う。


 自分はずっと、この薄暗い方に立っているつもりだった。


 けれど外の世界は、思っていたよりこちらを必要としているのかもしれない。


 その時、廊下の向こうから早い足音が近づいてきた。マリーだ。


「お嬢様!」


 少し息を弾ませている。


「どうしたの」


「奥様が……いえ、伯爵様もでございますが、今夜の夕食は必ず揃うようにと」


 アリアは眉を寄せた。


「いつも揃っているでしょう」


「今日はその……ローデン侯爵家からもお話があるそうで」


 ローデン侯爵家。

 カイルの家だ。


 胸の奥がわずかに冷える。


 夜会の翌日、王城の客が来たその日に、ローデン侯爵家から話。偶然とは思えなかった。少なくとも、カイルかその父が何かを聞きつけた可能性はある。


「分かったわ。支度をする」


 マリーが去ると、ローベルトが低く言った。


「お気をつけください」


「ええ」


「今日のことを、侯爵家がどこまで知っているかは分かりません」


「でも何も知らない、ということはないでしょうね」


 カイルは少なくとも、王城の者が来たことを知っているだろう。父がわざわざ隠すとも思えない。彼はむしろ、自分の家にとって有利な札なら見せたがる人だ。


 アリアは机の上の控え帳を閉じ、引き出しにしまった。

 その隣に、無署名の手紙もそっと戻す。


 まだ誰にも見せたくない。

 これは、自分だけが知っている「外の世界からの声」だから。


 夕食の席は、いつも以上に息苦しかった。


 父ベルナールは上座で表情を引き締め、母マルグリットは不自然なくらい優雅に微笑んでいる。セレナは落ち着かない様子でナプキンの端を指先で整え、アリアの向かいにはカイルが座っていた。


 さらに今日は、カイルの父であるローデン侯爵まで同席していた。


 恰幅の良い男で、物腰は洗練されているが、目の奥は計算高い。社交界で評判の「抜け目ない人物」という噂を、そのまま顔にしたような男だった。


「では、改めて」


 食事が半ばまで進んだところで、ローデン侯爵が杯を置いた。


「昨夜は伯爵家のご令嬢がずいぶん活躍されたとか」


 やはり来た。


 アリアは表情を変えず、手元の銀器へ視線を落とす。


 父が肩をすくめるように笑う。


「大したことではありません。少し古い文に目が利くもので」


「少し、ですかな」


 侯爵の声には笑みがある。


「王都ではもう、『ベルナール伯のご令嬢が北方使節の文を解いた』と噂になっておりますよ」


 母の笑みが一瞬だけ引きつった。


 セレナは驚いたように顔を上げ、カイルは無言のまま杯を傾ける。


 アリアはそこで初めて知る。

 昨夜のことは、家の中だけで消化できる程度の小さな出来事ではなかったのだと。


「噂というほどでは」


 父が控えめに否定しようとするが、侯爵は手を振った。


「いやいや、謙遜は結構。むしろ喜ばしいことです。婚約者としても誇らしいことでしょう、カイル」


 突然話を振られ、カイルはわずかに間を置いてから答えた。


「……ええ。まあ」


 その間が、何より雄弁だった。


 誇らしいなどとは、まったく思っていない。むしろ、自分の知らないところで婚約者が注目を集めていることに、居心地の悪さを覚えているのだろう。


 ローデン侯爵はそれを承知で、さらに言葉を重ねる。


「ただ、一つ気になることもありますな」


 父が目を細める。


「と申しますと?」


「ご令嬢の才が、これまで社交界でほとんど話題に上らなかったことです。北方語の巻紙をあの場で解くほどなら、王城でもすでに知られていてよさそうなものだ。そうは思われませんかな」


 食卓の空気がぴたりと止まった。


 母は何も言えない。セレナは俯く。父は笑みを消し、カイルの指先がわずかにテーブルを叩いた。


 アリアだけが、その問いの意味をゆっくりと理解していた。


 この男は探っている。

 伯爵家がどれだけこの才能を把握していたのか。

 そして、それをどう扱ってきたのかを。


「地味なことですからな」


 父がようやく答えた。


「家の中で必要な時に見せればよい程度のものと考えておりました」


「なるほど」


 ローデン侯爵は含みのある相槌を打つ。


「家の中で必要な時に、ですか」


 その繰り返し方に、皮肉が滲んでいた。


 アリアは少しだけ驚いた。てっきり侯爵家はカイルの側に立ち、自分のことなど「地味な婚約者」程度にしか見ていないと思っていたからだ。だがこの男は違う。少なくとも今は、婚約の感情より「使える人材かどうか」でこちらを見ている。


 それが嬉しいわけではない。


 ただ、家の中での見方とは別の角度があることに、妙な現実味を覚えた。


「アリア嬢」


 ローデン侯爵が今度は直接こちらを見た。


「北方語は、どなたに学ばれたのですかな」


 父母より先に、カイルがわずかに身じろぎする。

 だが侯爵は息子を気にしない。


「独学です」


 アリアは静かに答えた。


「独学?」


「はい。古い交易記録と写本、それから祖父の代の控え書きを見比べていくうちに、少しずつ」


 侯爵は目を細めた。


「少しずつ、でそこまで届くものですかな」


「届かないことも多いです。ですから、分からない時は分からないと申します」


 その答えに、侯爵は初めて小さく笑った。


「正直でよろしい」


 カイルの表情がさらに硬くなるのが分かった。


 彼にとって、父が婚約者を評価する流れは面白くないのだろう。


 その時、母マルグリットが無理に明るい声を出した。


「アリアは本当に、昔から書庫ばかりの子でして。令嬢らしいことには疎いのですけれど、ああいう古い文字だけは妙に好きで」


 好きで。


 軽く言ったつもりなのだろう。だがその言葉だけは、アリアの胸に少し柔らかく落ちた。


 そう。好きなのだ。

 ようやく自分でも、それを認められるようになってきた。


 しかしローデン侯爵は、母の取り繕いには乗らなかった。


「好きで続けたことが、今こうして役に立っているのなら、それは立派な才ですな」


 その一言で、食卓の空気はまた別の緊張を帯びた。


 立派な才。


 そんな言葉が、この家の食卓でアリアに向けられたことがあっただろうか。


 父は答えに窮したように黙り、母は笑みを保ちながらも目を伏せる。セレナははっとした顔で姉を見る。カイルだけが、今度ははっきりと不快そうに眉をひそめていた。


「父上」


 ついに彼が口を開いた。


「少し持ち上げすぎではありませんか。昨夜の件も、あくまで偶然うまくいっただけのことで」


 その言葉に、アリアの中の何かが静かに冷えた。


 またそれだ。


 偶然。たまたま。補助的。地味なだけ。


 ずっと彼は、自分の知らないものをそういう言葉で片づけてきた。


 だが今夜は、もう黙って飲み込むだけでは終われなかった。


「偶然ではありません」


 気づけば、口が先に動いていた。


 食卓がしんと静まる。


 カイルが驚いたようにアリアを見る。父も母も動きを止めた。セレナは息を詰める。


 アリアは杯にも触れず、まっすぐ前を向いたまま言葉を継いだ。


「昨夜の文は、北方語と王国語が混ざった古い形式でした。祝辞に見えて、実際は継続的な信義を確かめる言い回しです。昔の交易記録を読んでいなければ、同じ意味には取りにくかったと思います」


 誰に向けてというより、自分のために言っていた。


 偶然ではない。

 たまたまではない。

 ずっと積み重ねてきたことの結果なのだと、今度こそはっきり口にするために。


「ですから、あれは偶然ではありません」


 繰り返すと、食卓の上の燭台の火がわずかに揺れた。


 長い沈黙のあと、ローデン侯爵が低く笑った。


「なるほど」


 それだけだったが、その一言には十分な重みがあった。


 父ベルナールは落ち着かない様子でナイフを置き直し、母は困惑したまま口を開けない。カイルは何か言い返そうとして、しかしすぐには言葉が見つからないらしい。


 最初に沈黙を破ったのは、意外にもセレナだった。


「……そうよね」


 小さな声。


 だが皆が彼女を見た。


 妹は少し震える指先を握りしめながら、姉を見ていた。


「お姉様、ずっと書庫にいたもの。ずっと読んでいたもの。偶然なわけ、ないわ」


 その言葉に、アリアの胸が小さく揺れる。


 妹は今、初めてはっきりと姉の側に立つ言葉を口にした。


 ほんの少し。けれど確かに。


 カイルはますます面白くなさそうに視線を逸らした。


 ローデン侯爵はそんな息子を横目で見てから、アリアへ穏やかな声を向ける。


「失礼しました、アリア嬢。たしかに、積み重ねた才に偶然はありませんな」


 謝罪ではない。


 けれどきちんと認める言葉だった。


 夕食が終わり、侯爵家の馬車が去ったあとも、屋敷の空気は妙に張りつめていた。


 母はすぐに自室へ引き上げ、父は執務室へ籠もった。セレナは何か言いたげに何度もアリアを見たが、結局言葉を探しきれずに去っていく。


 そして廊下の窓辺で、カイルが待っていた。


「君に話がある」


 冷たい声だった。


 夜の庭には薄い月明かりが落ちている。屋敷の中は静かなのに、その一角だけ空気がぴんと張っていた。


「何でしょう」


 アリアが足を止めると、カイルは低く言った。


「最近、少し出過ぎではないか」


 ああ、やはり。


 アリアは心のどこかで納得していた。彼はきっとこう言う。褒められるほど、必要とされるほど、逆にそう言うしかなくなるのだ。


「出過ぎ、ですか」


「王城の者が来たことも、父上が君を評価したことも、今夜の食卓でのあの言い方も、すべてだ」


 アリアはしばらく黙って彼を見た。


 夜会の灯りの下でも、昼の庭でも、今こうして月明かりの中で見ても、彼は整った顔をしている。だがその整った顔の奥にあるのは、やはり自分の形を崩されたくない人間の苛立ちだった。


「私は、聞かれたことに答えただけです」


「それが問題だと言っている。君は自分の立場を忘れている」


「私の立場とは?」


 静かな問い。


 カイルは一瞬言葉に詰まり、すぐに答えた。


「私の婚約者だ」


「ええ」


「ならば、もっと私や家の体面を優先すべきだろう」


 体面。


 その単語を聞いた時、アリアの中で何かがすとんと定まった。


 この人はやはり、最後までそこなのだ。


 誰が困っているかでも、何が正しいかでも、自分がどんな努力を積み上げてきたかでもない。

 すべては、自分の体面のためにどう見えるか。


 それだけ。


「……カイル様」


 アリアは初めて、彼の名を少しだけはっきり呼んだ。


「私、ずっと思っていたのです」


「何を」


「あなたは私を見ていないのだと」


 カイルの顔が固まる。


「何だと」


「足りないところを見ているのでも、欠点を責めているのでもなく、最初から見ようとしていない。あなたの隣に置くのに都合のいい婚約者の型があって、そこから外れているから価値がないと決めているだけ」


 言葉は驚くほど滑らかに出た。


 怒鳴るつもりはなかった。責め立てたいわけでもない。

 ただ、長いあいだ胸の奥に沈んでいた形のないものに、ようやく名前がついただけだ。


「だから、あなたは私が何を読めるかも、何をしてきたかも、知ろうとしなかった」


「……君は」


 カイルが何か言い返しかける。


 けれどアリアは、静かに一礼した。


「お話は以上でしょうか。私はまだ確認したい文書がありますので」


 そう言って横を通ろうとした時、カイルの手がわずかに動いた。腕を掴もうとして、しかし触れる寸前で止まる。


 彼はそこで初めて、自分の婚約者が思うほど従順ではなくなっていることを理解したのかもしれない。


「アリア」


 呼び止める声には、先ほどまでとは違う響きが混じっていた。怒りだけではない。わずかな焦り。


 だがアリアは振り返らなかった。


「おやすみなさいませ、カイル様」


 それだけ残して、静かにその場を離れる。


 背中に視線を感じる。だがもう、それに引かれない。


 古書庫の前まで戻ったところで、アリアはようやく足を止めた。


 胸が少し熱い。怖くなかったわけではない。でも、不思議と後悔はなかった。


 言ってしまった。


 ずっと言えなかったことを。


 そして言ってしまった自分を、今は嫌だと思わない。


 扉の向こうからローベルトが出てきて、彼女の顔を見るなり少しだけ目を細めた。


「何かございましたか」


「ええ。少しだけ」


「少しだけ、でございますか」


 アリアは小さく笑った。


「たぶん、今までで一番大きな『少しだけ』よ」


 ローベルトはそれ以上は聞かなかった。


 ただ古書庫の扉を開け、いつものように静かな場所へ彼女を迎え入れた。


 その夜、机に向かったアリアは、控え帳の端に一行だけ自分のための言葉を書いた。


 ――偶然ではない。これは、私が積み重ねてきたもの。


 そしてその一文を見つめながら、ゆっくりと思う。


 この先、まだ何も決まっていない。

 婚約も家も、王城との関わりも、どう転ぶか分からない。


 けれど一つだけ、もう前と同じではいられない。


 見つけられてしまったのだ。

 外の世界に。

 そして何より、自分自身に。

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