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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第7話 王城が求めるもの

 王城からの正式な問い合わせが届くようになってから、伯爵家の空気は目に見えないところで少しずつ変わり始めた。


 表面だけ見れば、何も変わっていない。


 朝食では相変わらずセレナが話題の中心にいて、母は夜会や訪問客のことを気にし、父は家格と顔繋ぎの話しかしない。カイルも、アリアに対して特別やわらかくなることはなく、むしろどこか注意深く観察するような視線を向けることが増えた程度だった。


 だが、水面下では確かに違う。


 王城から来る紙の数が増えた。


 しかもその中身は、もはや「古い写本を少し見ておけ」程度の曖昧なものではなくなっていた。北方交易の旧規定、廃鉱山の権利書、隣国との補助協定の条文比較、古い関所税の例外規定。どれも一見すると地味だが、実際には今の王国の運営に尾を引いている問題ばかりだった。


 そしてそれらは、すべて父の執務室を通り、最終的にアリアの机へ積まれていく。


「お嬢様、こちらもでございます」


 ローベルトが新たな封筒を持ってくるたび、アリアは少しずつ奇妙な感覚を覚えるようになっていた。


 自分はこの家で、娘としてはさほど重要ではない。婚約者としても望まれていない。けれど紙の流れの中では、確実に必要とされている。


 その事実が、今はもう否定できない。


 その日の午後も、アリアは古書庫の文机に向かっていた。


 目の前に広げているのは、三十二年前の河川通行税に関する記録だ。表向きは単純な通行税率の改定文書だが、欄外に書かれた補注の中に、洪水期のみ別扱いとなる臨時免除規定が潜んでいる。しかもそれが後年の写本では落ちている。


 最近こういう「本文ではなく余白に残った決まり」を見つけるたび、アリアは心の底からいやな予感を覚えるようになっていた。


 王国は、想像以上に多くのものを「たまたま残っていた誰かの知識」に頼って回している。


 そしてその誰かがいなくなれば、歪みはすぐに表へ出る。


「……あまり健全な状態ではないわね」


 思わず零れた言葉に、向かいで帳面整理をしていたローベルトが顔を上げた。


「何か問題が?」


「問題というより、怖いの。今までどうやって保っていたのかしらと思って」


「それは、お嬢様がおられたからでは」


 アリアは苦笑した。


「そんな言い方をすると、私が王国を支えていたみたいじゃない」


「少なくとも、伯爵家を通る文書のいくらかは、お嬢様が支えておられたのでしょう」


 さらりと言われて、返す言葉に詰まる。


 前なら即座に否定していただろう。そんなはずはない、自分などただの地味な娘で、少し文字が読めるだけだと。


 けれど今は、その言葉を完全には退けられない。


 あまりにも多くの問い合わせが、あまりにも自然に自分の手元へ積まれていくからだ。


「……それでも、名前は出ないわ」


 気づけばそう言っていた。


 ローベルトは手を止めた。


 アリア自身も、口に出したことに少し驚いていた。


 それは愚痴だった。はっきりとした、不満だった。


 これまでずっと抱いてきたのに、明確な形にしないよう避けてきた感情だ。


「名前が出れば、何か変わると思われますか」


 老執事は慎重に問い返した。


 アリアはペンを置き、机の上の紙へ視線を落とした。


「分からないわ。でも……今までは、出なくて当然だと思っていたの」


「はい」


「役に立つだけで十分だって。褒められなくても、理解されなくても、伯爵家のためになるならそれでいいのだと、そう思うようにしていたの」


 言葉は、思っていたよりするすると出た。


「でも最近、変なの。たった短い紙片一枚で、ありがとうとか、助かったとか、見事でしたとか……そんなことを言われるだけで、自分でも驚くくらい嬉しくて」


 ローベルトは黙って聞いている。


「嬉しいと思ったあとで、逆に気づいてしまうのよ。私は今まで、一度もそういうふうに扱われてこなかったんだって」


 古書庫は静かだった。


 窓の外では風が木の葉を揺らし、遠くで使用人の足音が時折通り過ぎる。その静けさの中で、自分の声だけが少しだけ頼りなく響いていた。


「お嬢様は、それでよろしいと思っておられたのですな」


「思うようにしていた、の方が正しいわ」


 ローベルトはゆっくりと頷いた。


「ですが、よろしいと思えなくなった」


 アリアは少しだけ目を閉じた。


「ええ」


 それが今の自分にとって、一番正確な言葉だった。


 今までは、諦めが先にあった。そういう扱いしか受けられないのだと、自分で自分を納得させていた。


 だがいったん外から別の言葉を与えられてしまうと、もう以前のようには戻れない。


 必要とされること。理解されること。役に立ったと正面から言われること。


 たったそれだけで、人は自分を雑に扱い続けられなくなるのだ。


「……困ったことね」


 自嘲気味に呟くと、ローベルトは珍しくはっきりと言った。


「困ったことではございません」


 アリアは顔を上げた。


「お嬢様がご自分の価値を、ようやくご自分でも認め始めただけでございます」


 その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 認め始めた。


 そんな大げさなものではないと思いたいのに、否定しきれなかった。


 その時、古書庫の扉が控えめに叩かれた。


 マリーが顔を覗かせる。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 父が。


 こういう時の呼び出しは、たいてい厄介だ。


「何かしら」


「王城からのお客様がいらしているそうです。お嬢様にも確認したいことがあると……」


 アリアの指先が止まる。


 王城からの客。


 しかも父ではなく、自分に確認したいことがあるという。


「お父様は、それを許したの?」


「はい。最初は少し渋られたそうですが、『話が通じる相手に直接確かめた方が早い』と向こうの方が」


 ローベルトとアリアの目が合った。


 ついに来たのだ。


 紙のやり取りだけではなく、向こう側の誰かが、直接会って確認する段階へ。


「すぐ参りますと伝えて」


「かしこまりました」


 マリーが下がると、アリアは机の上の紙を整えた。心臓が少し速く打っている。


 怖い、というより落ち着かない。


 何を聞かれるのか。どんな立場の人間が来ているのか。そして、父がその場で自分をどう扱うつもりなのか。


「お一人で大丈夫でございますか」


 ローベルトの問いに、アリアは小さく笑った。


「大丈夫でなくても行かなければならないわ」


「左様でございますな」


「でも」


 アリアは一瞬だけ迷い、それから机の端に置いていた小さな控え帳を手に取った。


「これだけは持っていく。最近の問い合わせと、関連する古文書の所在を書いたものよ。もし向こうが本気なら、役に立つはず」


「それがよろしゅうございます」


 古書庫を出て執務室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。


 窓から入る昼の光が妙に白い。屋敷の中は静かなはずなのに、あちこちに気配がある。使用人たちが「王城から客が来ている」と知って落ち着かないのだろう。


 執務室の前に着くと、中から父の声が聞こえた。


「……ですから、あくまで家として協力しているのであって」


「承知しております、ベルナール伯。しかし文の癖から見て、同じ方が継続して確認されているのは明らかです」


 低く、よく通る男の声だった。


 聞き覚えはない。だが言葉の選び方に無駄がなく、押しつけがましさもない。文官だろうか。


 アリアは一度深呼吸し、ノックした。


「お父様、アリアでございます」


「入れ」


 執務室の中には父と、見慣れない二人の男がいた。


 一人は三十代半ばほどの文官風の男で、灰青色の衣服に王城の記章を控えめにつけている。表情は穏やかだが、目の奥はよく働いていた。


 もう一人はその少し後ろに立っていた。年齢はもっと若いだろうか。背が高く、濃色の上着に無駄な飾りはない。付き人、あるいは護衛のようにも見えるが、ただ立っているだけで場の重心がそちらへ引かれるような空気があった。


 その男を見た瞬間、アリアの心臓が小さく跳ねた。


 夜会で、北方使節団の後ろにいた男だ。


 表情も佇まいも昨夜と同じく静かだったが、彼は確かにアリアの方を見ていた。


 文官風の男が一歩進み出る。


「お初にお目にかかります、アリア嬢。私は王城の記録管理局に属するフェリクス・ドーレンと申します」


 丁寧な礼。


 その所作には、伯爵令嬢への形式的な敬意以上のものがあった。少なくとも、話の通じる相手として扱っているのが分かる。


「お初にお目にかかります、ドーレン様」


「突然のご無礼をお許しください。ですが、北方交易に関する旧規定の件で、どうしても直接確認したい箇所がございました」


 父が咳払いをする。


「アリア、ドーレン殿は最近こちらへ届いた報告について確認したいそうだ。答えられることだけ答えればよい」


 答えられることだけ。


 つまり父はまだ、この場を自分の監督下に置きたいのだろう。だがドーレンはそれに構わず続けた。


「先日ご提示いただいた資料の中に、冬季減税の旧例と衣料不足対策の関連を示す記述がございましたね」


「はい」


「その場合、現行の税率運用はどの段階で誤って固定化されたとお考えですか」


 いきなり核心だった。


 しかもこの問いは、ただ文を読んだだけでは答えられない。複数の時代の写本の癖と、省略された条項の扱い方を踏まえないといけない。


 アリアは少しだけ気を引き締めた。


「明確な断定はまだできません。ただ、第三改訂版の時点で本文から該当条項が省かれ、別記扱いになっているのが最初の綻びだと思われます」


「理由は」


「当時はまだ現場の実務記録が生きていたからです。本文に書かなくとも、運用する側が知っていた。けれど時代が下るにつれ、本文だけを写す写本が増え、現場記録の方が散逸したのでしょう」


 ドーレンはすぐには頷かず、さらに問う。


「つまり、制度そのものを廃したのではなく、制度を知っている前提が先に失われた、と」


「はい。おそらくは」


「なぜそう言い切れるのです」


 父が少しだけ顔をしかめた。尋問めいて聞こえたのだろう。


 だがアリアには、その聞き方がむしろありがたかった。曖昧な賛辞より、こうして論理を求められる方がずっと答えやすい。


「三十六年前の暫定付則の控えに、『旧例に従う』という文言が残っています。もし制度自体が廃されていたなら、その言い回しは使われません」


「ほう」


「それに、二十年前の倉庫出納帳でも、冬季の羊毛流入量だけが不自然に増えている年があります。これは税率か通行条件のどちらかに例外措置があったと考える方が自然です」


 そこで初めて、ドーレンの口元がわずかに動いた。


 笑った、というほどではない。


 だが確かに、興味を深めた顔だった。


「帳簿の数字まで追っておられるのですか」


「文だけでは分からないことがありますから」


 そう答えると、後ろに立っていた高い男が、ほんのわずかに視線を動かした。


 夜会の時と同じ目だ。


 驚くでもなく、感心をあからさまにするでもなく、ただ「なるほど」と内側で一つ積み上げるような目。


 ドーレンは続けていくつかの問いを重ねた。


 古い北方語の語尾変化。補注と本文の筆跡差から見た年代推定。実務控えと正式協定文の優先関係。地方家に残る控えの信頼度。


 アリアは一つずつ答えた。分かることは分かると、断定できないことは断定できないと。そうして話しているうちに、緊張は次第に消えていった。


 不思議だった。


 相手が父ではなく、母でもなく、カイルでもないだけで、言葉がこんなにも真っ直ぐ出てくる。


 途中、ドーレンがふと問いの方向を変えた。


「アリア嬢は、これらの文書をどの程度ご覧になっておられますか」


「どの程度、とは」


「北方交易に限らず、王城から伯爵家へ回ってきた旧記録全般についてです」


 父がわずかに身じろぎした。


 アリアはそれに気づいたが、視線は外さなかった。


「……ここ数年に届いたものの多くは、目を通しております」


「数年」


「はい」


「それは継続して、同じ方が?」


 父の眉がぴくりと動く。


 アリアは静かに答えた。


「基本的には私が」


 短い沈黙。


 執務室の空気が一度だけ止まったように感じた。


 ドーレンは父ではなく、アリアの方を見たまま問い返す。


「すべて、ですか」


「すべてではありません。ですが、古文書や旧協定、翻訳を要するもの、あるいは古い台帳の照合が必要なものは、おおむね」


 父が低い声で口を挟む。


「アリアはその手のものが得意でしてな。地味な作業ではありますが、家としても助かっている」


 家としても。


 いつもの言い方だ。


 だが今この場では、もうそれだけでは済まない気がした。


 ドーレンは父に軽く礼をしたものの、その表情はやや硬くなっていた。


「なるほど。事情は理解いたしました」


 その一言の意味を、アリアはまだ読み切れなかった。


 ただ、後ろに立つ高い男が、その時初めて口を開いた。


「確認だが」


 低く落ち着いた声だった。


 父でさえ一瞬、言葉を待つ姿勢になる。


「先日の夜会で、北方使節の巻紙を読んだのも、あなたか」


 やはりこの人はあの場にいたのだ。


 アリアはまっすぐに頷いた。


「はい」


「王城で扱う旧例の件も、今の説明も、すべて同じ人物の知識に基づくものだと考えてよいな」


「……はい」


 男はそれだけ聞くと、わずかに顎を引いた。


「分かった」


 その短さが、かえって重かった。


 この場で必要な確認は終わった、という響きがある。


 ドーレンが一歩引き、改めて礼をする。


「本日は突然のお願いにもかかわらず、詳しいご説明をありがとうございました。大変参考になりました」


 大変参考になりました。


 また同じ言葉だ。


 けれど今度は紙ではなく、目の前で直接言われた。


 アリアはきちんと礼を返したが、胸の奥では何かが小さく震えていた。


「こちらこそ、少しでもお役に立てたなら幸いです」


 王城の客が去ったあと、父は執務室に残ったアリアをしばらく無言で見ていた。


 やがて机を指で叩きながら言う。


「……思った以上に、話が通じるようだな」


 褒め言葉とは言えない。


 だが見下しだけでもない。


「ありがとうございます」


「礼を言うことではない。今後もああした確認が来るなら、きちんと答えろ。ただし、余計なことまで喋るな。伯爵家として不利になるようなことがあっては困る」


 そこでようやく、アリアははっきりと理解する。


 父は、自分の能力そのものより、それが伯爵家の札として使えることに価値を見出しているのだ。


 家の娘としてではなく、便利な手札として。


 それでも以前と違うのは、その手札の重さを父も無視できなくなっていることだった。


「承知いたしました」


 執務室を下がり、廊下へ出ると、窓辺にセレナが立っていた。どうやら待っていたらしい。


「お姉様」


「どうしたの」


「今の方たち、王城の方だったのでしょう?」


「ええ」


 妹は少し言いにくそうにしながら、それでも尋ねる。


「……お姉様って、本当にそんなに色々なものがお分かりになるの?」


 アリアは答える前に、少し考えた。


 前なら「たまたまよ」と言っただろう。


 でも今は、それだけではもう済まない気がした。


「分かるものもあるわ」


 そう答えると、セレナは目を伏せた。


「わたくし、知らなかった」


「あなたが知らなくても無理はないわ。言ってこなかったもの」


「でも、どうして言わなかったの?」


 その問いは、思いがけず真っ直ぐだった。


 どうして。


 どうしてだろう。


 言ったところで意味がないと思っていたから。どうせ誰も価値を認めないと思っていたから。褒められるものではなく、せいぜい便利に使われるだけだと知っていたから。


 いくつもの理由があった。


 でも一番大きかったのは、たぶん。


「……言っても、誰も聞きたいと思っていないと思っていたの」


 セレナが息を呑んだのが分かった。


 彼女は何も言えず、ただ姉を見つめる。


 アリアもそれ以上は続けなかった。


 それは責めるための言葉ではなかったし、今さら妹に理解させたいことでもなかった。ただの事実だった。


 セレナはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。


「わたくしは……」


 けれどその先は言葉にならず、唇を噛んで俯いた。


 アリアは静かに妹の横を通り過ぎる。


 今はまだ、それでよかった。


 夕方、古書庫へ戻ったアリアは、机の上に並ぶ問い合わせ文書を見つめた。


 王城はもう気づいている。


 伯爵家を経由してきた旧記録の精査の多くが、一人の娘の手でなされていたことに。


 父も気づき始めている。


 自分が「地味なだけの長女」ではなく、家にとって簡単には手放せない存在であることに。


 そしてアリア自身も、ついに認めざるを得なくなっていた。


 これはただの趣味ではない。


 ただの補助でもない。


 誰かが必要としている力なのだ。


 窓の外では、陽が落ちかけていた。


 古書庫の中だけが少し早く夕暮れになり、紙の白さが淡く青みを帯びていく。


 アリアはそっと、昨日届いた無署名の手紙を引き出しから取り出した。


 誰かが自分を見つけつつある。


 その事実は、まだ怖い。


 けれど同時に、胸の奥がどうしようもなく熱くなるのを止められなかった。

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