第6話 褒められたことのない才能
夜会の翌朝、アリアは珍しく夢を見なかった。
眠ったのかどうかも曖昧なまま朝を迎えた気がする。目を開けた時には、窓の向こうに白い春の光がぼんやりと広がっていて、鳥の声が遠くから聞こえていた。身体は少し重かったが、頭の奥だけが妙に冴えている。
机の上には、昨夜持ち帰った紙片が置かれていた。
――先ほどの語釈、見事でした。北方語の読みについて、後日お尋ねしたいことがあります。
たったそれだけの文なのに、そこに視線を落とすたび胸の奥が静かに揺れる。
見事でした。
その言葉を、アリアはまだうまく受け止めきれないでいた。
役に立った、と言われることはあっても、見事だなどと言われたことはない。ましてや、自分が長年好きで読んできた文字や言葉のことを、そう評されたことなど一度もなかった。
嬉しい。
やはり、そう思う。
ただ、それと同時に落ち着かなさもあった。自分が大事にしてきたものへ外から光が当たると、人はこんなにも居心地が悪くなるのかと、アリアは少し驚いていた。
「お嬢様、失礼いたします」
マリーの声で、彼女は我に返った。
「どうぞ」
侍女は朝の支度のための水と、薄い色のドレスを抱えて入ってくる。いつもと同じ朝のはずなのに、アリアの目にはその所作まで少し違って見えた。自分が変わったからだろうか。あるいは、昨夜の一件がまだ胸のどこかに残っているからか。
「お顔色はいかがですか。昨夜は遅うございましたから」
「平気よ。少し眠りが浅かっただけ」
「夜会は……その、ずいぶん注目を集めておられましたね」
マリーが遠慮がちにそう言った。
アリアは思わず侍女の顔を見る。若い侍女は少しだけ頬を赤くし、慌てたように言葉を継いだ。
「も、申し訳ありません。出過ぎたことを」
「いいえ。……見ていたの?」
「はい。奥様の後ろで控えておりましたから」
そこでマリーは小さく息を吸った。
「とても格好よかったです」
その言葉は、アリアにとって母の叱責よりも、夜会の視線よりも、ずっと深く響いた。
格好いい。
そんなふうに評されたことは、たぶん生まれて初めてだった。
美しいでも、愛らしいでもなく、令嬢らしいでもなく、格好いい。
それは不思議と、アリアの心に真っ直ぐ届いた。
「ありがとう」
ようやくそれだけ言うと、マリーはほっとしたように微笑んだ。
「本当です。皆が止まってしまった時に、お嬢様だけがすらすらとお答えになって……。私、ああいうのを初めて見ました」
「たまたま読めただけよ」
「でも、読める方がそこにいらしたことが、すごいことだと思います」
そのまっすぐな言葉に、アリアは少しだけ目を伏せた。
昨日から何度目だろう。誰かに、自分のしてきたことの価値を、まるで当然のように口にされるのは。王城からの紙片、夜会での使節の言葉、そしてマリーの無垢な賞賛。立て続けにそんなものを受け取ってしまって、心の置きどころが分からない。
これまで誰も、そんなふうには言わなかったのに。
着替えを済ませ、階下へ向かう途中で、アリアは自然と書庫の方角を見た。今日も王城から何か届いているだろうか。いや、さすがに夜会の翌朝すぐということはあるまい。
そう思ったのに、食堂へ入る前の廊下でローベルトと鉢合わせた時、老執事はどこか思案顔をしていた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。どうかしたの?」
「いえ……今朝、王城からではございませんが、一通お手紙が」
アリアの足が止まる。
「私に?」
「はい。差出人の名はございませんが、昨夜の会場から預かったとのことです」
心臓が一度だけ、大きく鳴った。
ローベルトは周囲を確かめるように一瞬視線を走らせてから、小さな封筒を差し出した。昨夜の紙片よりも少し上質な紙で、封の仕方はごく簡素だが、雑ではない。
「今はまだ食堂へ行かれるお時間ですので、お部屋にお届けするべきか迷いましたが……」
「ありがとう。受け取るわ」
封筒は軽かった。中に入っているのは、せいぜい紙一枚だろう。
だが今この場で開くことはできない。父母やセレナの目がある場所で、差出人不明の手紙を眺めるほど不用意ではない。
「後で読むわ」
「かしこまりました」
ローベルトが去ると、アリアは封筒をそっと袖の内側へ滑らせた。
何事もなかった顔で食堂へ入る。
今朝の席は、昨夜の余韻を引きずっていた。
母マルグリットの機嫌はまだ硬く、父ベルナールは新聞を広げながらも、時折アリアへ気になるような視線を送ってくる。セレナだけは、いつもより少し静かだった。
「おはようございます」
いつも通り挨拶すると、母は「おはよう」と返したものの、それ以上は何も言わなかった。代わりに父が喉を鳴らす。
「昨夜のことだが」
やはり来た、とアリアは思う。
「はい」
「結果として場は収まった。主催家からも今朝方、礼状が来ていた」
礼状。
その事実に、アリアは少しだけ驚く。
「ただし」
父は新聞を畳み、眼鏡越しに娘を見た。
「おまえのような振る舞いは、本来なら文官の役目を侵すものだ。主催家が感謝しているからよかったものの、相手によっては不興を買う。そこは忘れるな」
褒めているのでも、認めているのでもない。
だが完全に否定もしていない。
それだけで、この家ではずいぶんな進歩のように思えてしまう自分が、アリアは少し情けなかった。
「心得ます」
「お姉様」
そこでセレナが、小さく口を挟んだ。
視線が集まると、妹は少しだけ迷ったように唇を結び、それから言った。
「……あの時は、すごかったわ」
食堂の空気が、ほんの少し揺れた。
母が驚いたようにセレナを見る。父も一瞬だけ新聞から目を離した。
アリア自身が一番驚いていた。
「セレナ」
母がたしなめるように声を低くする。
だが妹は珍しく引かなかった。
「だって本当にそうだったのですもの。皆が困っていたのに、お姉様だけすぐお分かりになって……。わたくし、少し……少しだけ、羨ましいと思いました」
その言葉は、きれいに整えられた会話ではなかった。少し不器用で、途中で迷い、でも嘘ではない響きがあった。
アリアは妹の顔を見つめた。
セレナは頬をうっすら赤らめ、気まずそうに視線を逸らしている。
たぶん彼女にとっても、こういう言葉は言い慣れないのだ。姉を褒めることも、姉に羨ましいと告げることも。
「ありがとう」
アリアはそれだけ言った。
もっと別の返し方もあったかもしれない。だが今は、それ以上の言葉が出なかった。
セレナは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
朝食を終えると、アリアはできるだけ自然に自室へ戻った。
扉を閉めて、ようやく袖の中の封筒を取り出す。
机の前に座り、少しだけ呼吸を整えてから封を切った。
中には、思った通り紙が一枚だけ入っていた。
文字は端正で、必要以上の飾りがない。昨夜の紙片と同じ筆致だ。そして王城から届いた短い返答とも、やはりどこか共通している。
書かれていた文は、昨夜の一言より少し長かった。
――昨夜の解釈、大変助かりました。北方の意を誤れば、今後の交易の話し合いに不要な溝が生まれるところでした。
――もし差し支えなければ、後日、いくつか古い北方語の語例についてお知恵を借りたく存じます。
――なお、昨夜のような場で不用意に名を出すことは避けたく、文面に署名はいたしません。無礼をお許しください。
最後まで読んで、アリアはしばらく動けなかった。
助かりました。
その言葉が、こんなにもまっすぐに胸へ落ちてくるとは思わなかった。
しかも相手は、自分の名を伏せている理由まで書いている。署名がないのは軽んじているからではなく、むしろアリアの立場を慮ってのことだと分かる。
無礼をお許しください。
そんな丁寧な言葉を、自分に向けてくる相手がいることが、にわかには信じられなかった。
「……誰なの」
小さく呟く。
北方使節の一員なのか。王城に近い立場の誰かなのか。それとも両方に関わる人間なのか。
分からない。
分からないのに、この文の向こうにいる人物は、これまでの父やカイルよりずっとはっきりと、アリアのしてきたことを見ている気がした。
ノックの音がして、慌てて紙を畳む。
「お嬢様、ローベルトでございます」
「どうぞ」
入ってきた老執事は、アリアの顔を見るなり、少しだけ目を細めた。
「良い知らせでございましたかな」
「……そう見える?」
「少なくとも、昨朝よりは」
アリアは思わず苦笑した。
隠せているつもりだったのに、どうやらそうでもないらしい。
「ローベルト。もし、誰かが私に文書のことで会いたいと言ってきたら……どうするべきかしら」
言ってから、自分でも少し驚いた。
こんな相談を口に出すこと自体、これまでの自分ならしなかっただろう。
ローベルトは驚いた様子も見せず、静かに問い返した。
「その方は、お嬢様のお力を必要としておられるのですかな」
「そう……だと思うわ」
「ならば、お会いになってもよろしいのでは」
「でも、家の許しもなく?」
「お嬢様」
老執事は少しだけ声を落とした。
「旦那様は、お嬢様が書いたものを伯爵家の役に立つ限りは止めますまい。奥様は面白く思われなくとも、実際に益があるうちは反対しにくい。問題は、それが“令嬢としてふさわしいかどうか”だけでございます」
「ふさわしくは……ないわね」
「ですが、必要ではある」
必要。
その言葉を聞くたび、アリアはまだ少し戸惑う。
必要なのだろうか、本当に。自分が。
昨夜までは、そんなことを考えるだけで思い上がりのように感じた。けれど今は、少なくともそれを完全に打ち消すこともできない。
ローベルトは続けた。
「必要とされることと、愛されることは、時に別でございます」
その一言が、妙に胸に刺さった。
愛されること。
それはずっと、妹セレナの側にあるものだと思ってきた。母の愛情も、社交界で向けられる好意も、婚約者の目線も、皆そちらへ流れていく。アリアはその外側で、必要でもないものとして静かに置かれているのだと思っていた。
けれど違ったのかもしれない。
愛されなくても、必要とされる場所はある。
そして必要とされた先で、もしかしたら別の形のぬくもりを知ることもあるのかもしれない。
まだそこまでは考えられない。考えるには、あまりにも遠い話だった。
それでも、ローベルトの言葉は心のどこかに静かに沈んでいった。
昼過ぎ、アリアは書庫で昨夜の北方語について、自分なりの整理を書き始めた。
もし返事を書くことになった時のため。あるいは本当に会って問われることがあった時のため。山越え交易を担う北方諸侯の言い回し、祝辞に見せかけた交渉文の型、友誼を表す語と義務を表す語が並ぶ時の含意の違い。そうしたものを手元にまとめておく。
誰かに見せる予定のない下書き。
だが書いているうちに、自然と熱が入っていった。
好きなのだ、と改めて思う。
やはり自分は、文字を読むことが好きだ。古い言葉の癖を追い、その時代の空気や人の思惑まで想像するのが好きなのだ。
今までそれを「地味な取り柄」「たまたまできること」と呼んできた。
けれど、それだけではなかったのかもしれない。
好きで、得意で、しかも役に立つ。
それは本当なら、もっと大切に扱われていいものなのではないか。
その思考に辿り着いた時、アリアはペンを止めた。
自分の中で何かが変わり始めているのが分かる。
まだ小さい。ひどく小さいが、もう無視はできない。
その夕方、王城からまた一通の紙が届いた。
今度は父の執務室を経由した、正式な問い合わせだった。
北方交易の旧規定について、さらに遡って確認したい項目がある。ついては、以前と同様の詳しい精査を願いたい――。
父はその紙を読み、半分ほどしか理解しないまま、当然のようにアリアへ回した。
「おまえなら分かるのだろう。やっておけ」
いつものような命令。
いつものような当然さ。
けれど今のアリアには、それが少しだけ違って見えた。
ああ、この人たちは、本当に私がいなければ困るのだ。
そう思ってしまった自分に、今度はもう「思い上がりだ」とは言えなかった。
その夜、自室へ戻ったアリアは、机の引き出しへ無署名の手紙をそっとしまった。
誰にも見せない場所。
けれど隠したいからではない。大切にしたいからだ。
褒められたことのない才能に、初めて外から手が伸びてきた。
それが誰の手なのかは、まだ分からない。
分からなくてもいいとさえ、今は少し思えた。
大事なのは、そこに確かに「分かる人」がいるということだった。




