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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第5話 夜会の席で、文字は息をする

 王都の夜会は、いつだって少し息苦しい。


 伯爵家の馬車が石畳を滑り、館の前庭へ入った時点で、アリアはすでに肩の奥が重くなるのを感じていた。灯火に照らされた白い壁、階段を行き交う色鮮やかなドレス、磨き上げられた靴音、香水と花の匂いの入り混じった空気。華やかで、明るくて、そしてどこか薄い。ここにある言葉の多くは、最初から本音ではない。


 隣に座るセレナは、今夜もよく似合う薄桃色のドレスに身を包んでいた。髪には銀の飾りが挿され、首元には母が大事にしていた真珠の首飾りが揺れている。


「やっぱり、この色にしてよかったですわ」


 馬車の窓に映る自分を見ながら、セレナが嬉しそうに微笑む。


「そうね。とても似合っているわ」


 アリアが言うと、母マルグリットも満足そうに頷いた。


「ええ、本当に。こういう場では、やはり華のある子が目を引くものね」


 その言葉に、父ベルナールは「当然だ」とでも言いたげに鼻を鳴らした。


 アリアは何も言わなかった。


 今夜の自分のドレスは、深い青灰色だった。前回よりは少しだけ装飾が多いが、それでもセレナに比べればずっと静かな色合いだ。母は最初、もう少し明るい色を着せようとしたが、結局「どうせ何を着ても印象は変わらないでしょう」と言って諦めた。


 ひどい言葉のはずなのに、今はそれほど刺さらない。


 変わらないのは、たぶん母の目に映る印象だけだ。


 館へ入ると、すぐに楽団の音が耳に流れ込んできた。緩やかな弦の旋律の上を、笑い声と談笑がふわりと重なる。王都でも指折りの大きな館らしく、天井は高く、壁一面に飾られた鏡が灯りを反射して空間を広く見せていた。


 伯爵家の名前が告げられ、一家は順に会場へ足を踏み入れる。


 周囲の視線はまずセレナへ向かった。華やかな若い令嬢は、それだけで人目を引く。続いて父母へ。そして最後にアリアへ視線が滑るが、そこに止まる者は多くない。


 それでいい、と今の彼女は思う。


 目立たないことは、必ずしも悪いことではない。少なくとも、見せるべきものが別にあるなら。


「アリア」


 入場して間もなく、背後から低い声がした。振り向けば、カイルがいた。今夜も完璧な装いで、周囲から見れば絵のように整った侯爵令息だ。


「こんばんは、カイル様」


「今夜は余計なことをしないように」


 挨拶代わりのように言われた一言に、アリアは一瞬だけ瞬きをした。


 だがすぐに、心は驚くほど静かだった。


「心得ております」


 そう返すと、カイルは少しだけ眉を寄せた。おそらく、前ならもっと萎縮した反応を見せていたはずだとでも思っているのだろう。彼はわずかな違和感を覚えたらしかったが、それを掘り下げることはしなかった。


「後ほど、北方の使節も来るらしい。君は控えていればいい」


「分かりました」


 カイルはそれで満足したように頷き、すぐにセレナの方へ視線を向けた。


 妹はすでに若い貴族令嬢たちに囲まれ、笑顔の輪の中心にいた。見れば分かる。彼がこの場で見ているのは、自分ではなく、そういう光景のほうだ。


 アリアは静かに一礼し、その場を離れた。


 会場の端、壁際に置かれた小卓の近くへ行く。そこなら視界は開けているが、人の流れの中心からは外れる。観察するには都合がよかった。


 観察、と自分の胸中に浮かんだ言葉に、少し苦笑する。


 昔からそうだった。華やかな場へ放り込まれるたび、彼女はそこへ馴染むより先に、構造を見てしまう。誰が誰と話し、誰の名前がどの場で重く扱われ、どの笑顔が本心でどの沈黙が牽制なのか。社交の空気を楽しむことは得意でなくても、読むことはそれなりにできた。


 今夜も同じだ。


 東側には軍部寄りの若い貴族が集まっている。西の一角には商会と関係の深い文官の家が多い。主催家の当主は南方貿易に強く、だからこそ北方の使節を招いているのだろう。今の王国は南北双方の物資流通を安定させたい。そのための顔合わせの意味もある夜会だ。


 そこまで見えてくると、昼間に子爵夫人がこぼした「北方羊毛の入りが不安定」という言葉が、ただの雑談ではないと分かる。いま王都では、もう実務上のきしみが起き始めているのだ。


 その時、控えめなざわめきが広がった。


 会場の入口付近に視線が集まる。


 北方の使節団が到着したらしい。重ね着した濃色の衣、王都の貴族たちより実用を優先した厚手の外套、そして胸元に留められた古い意匠の金具。王国式とは少し異なる礼の仕方。周囲にいる何人かの貴族が、それを興味深げに眺めている。


 アリアの目は、自然とその胸元の記章へ向かった。


 前回の夜会で見たのと似ている。いや、同系統の文様だ。北方諸侯連盟のうち、山越え交易を担う一族が使う印章に近い。ただし前回よりも古い型で、周囲の縁取りに略式の綴りが混ざっている。


「……やっぱり」


 小さく呟く。


 文字は、どこにでも息をしている。


 紙の上だけではない。衣服の留め具、旗章、杯の縁取り、楽譜の書式、そうしたところにも時代と人の癖が残る。彼女にはそれが読めた。


 だが今夜は口を出さないと、そう決めている。


 そう、決めていたのに。


 北方使節の一人が主催家当主へ何かを差し出した。細長い巻紙のようだった。祝いの言葉か、持参した交易証書の一部か。受け取った当主はその場で広げ、傍らにいた王城付きの文官へ見せる。


 文官は一度目を通し、曖昧な表情になった。


 主催家当主が「どういう意味だ」と小声で問う。文官は即答できない。周囲にはまだ広く聞こえていないが、近くにいた数人の貴族が気づき始めていた。


 その巻紙には、古い北方語と王国語が混ざっている。


 しかも王国語部分は、直訳しすぎると意味を取り違える類の文だ。たぶん「友誼」と「交易上の義務」が一文の中で重なっている。形式的な祝辞のようでいて、実際にはかなり重い含みがある。


 場の空気が、ほんのわずかに停滞する。


 こういうとき、王都の社交は脆い。話が通じない沈黙は、たとえ数十秒でも場の格を損ねる。


 アリアは目を伏せた。


 余計なことはしない。


 控えていればいい。


 そう言われたばかりだ。


 けれど、見えてしまうものを見なかったことにするのは、いつだって苦しかった。書庫の中でだけではない。目の前で文字が誤解されそうになる時、そのまま飲み込むのは思った以上につらい。


 躊躇いは、短かった。


 アリアは静かに歩み寄り、主催家当主の少し後ろで足を止めた。


「失礼いたします」


 声をかけると、当主と文官が驚いたように振り返る。周囲の視線も寄ってくる。遠くにいた母が、明らかにぎくりとした顔をしたのが見えた。


「伯爵令嬢……?」


 主催家当主は彼女の名前をすぐには思い出せなかったらしい。けれどアリアは気にしなかった。


「もし差し支えなければ、その一文は祝辞というより、旧誼に基づく継続的な信義を確かめる表現だと思われます」


「なに?」


「王国語へ訳すなら『この縁が今夜限りの歓待ではなく、今後も変わらぬ道筋となることを願う』に近いかと。直訳すると、少し命令的に響いてしまいます」


 場がしんと静まった。


 文官が巻紙を見下ろし、次にアリアを見た。主催家当主は一瞬だけ口を開け、それから北方使節の方へ向き直る。


 使節は驚いたように目を見開いていたが、次の瞬間には大きく頷いた。


「その通りだ」


 王国語はやや硬かったが、意味は明瞭だった。


「我らは祝辞のみを持ってきたのではない。友誼を続ける意思を確かめたかった。若き令嬢はよく読まれた」


 その一言に、周囲にざわめきが広がる。


 主催家当主は明らかに安堵し、すぐに笑顔を作った。


「なるほど。ならば我々も、その意に沿う返礼をせねばなりませんな」


 文官は咳払いをし、体裁を整えるように巻紙を受け取った。面白くなさそうではあったが、今さら異を唱えられる空気でもない。


 アリアは深く礼をして、一歩下がった。


 必要なことは言った。もうそれ以上は関わらないつもりだった。だがその時、使節の背後に控えていたひときわ背の高い男が、静かに彼女を見ていることに気づいた。


 濃い色の外套に身を包み、無駄な装飾をほとんどつけていない。北方使節団の一員に見えるが、他の者たちとは纏う空気が違った。部下らしき男が一歩後ろに控え、周囲の動きを自然に遮っている。身分の高い者だ。


 その男は言葉を発しなかった。


 ただ、アリアの顔ではなく、今しがた彼女が見た巻紙と、その視線の動きを見ていた。


 観察する者の目だ、とアリアは思った。


 それは少しだけ、書庫で紙を追う自分と似ている。


「アリア!」


 鋭い声が飛び、我に返る。


 母だった。


 マルグリットは笑顔を崩してはいなかったが、その目は明らかに怒っていた。カイルも近くまで来ており、表情を冷ややかに引き締めている。


 アリアは一礼し、その場を下がった。


 背中にいくつもの視線を感じる。感心、好奇、苛立ち、計算。だがその中で一番静かで重かったのは、先ほどの高い男の視線だった。


 壁際まで戻ったところで、母が早足で寄ってきた。


「何を考えているの」


 抑えた声。だが怒りは隠せない。


「申し訳ありません。ただ、誤訳が場に残るのはよくないかと」


「よくないかと、ではありません。令嬢が文官のように口を挟むものではないわ。しかもあんな大勢の前で」


 カイルも間に入るように立った。


「私は余計なことをするなと言ったはずだ」


「はい」


「たまたま今夜も外してはいなかった。それだけのことだ。だが君の軽率さは変わらない」


 その言葉に、アリアは初めてほんの少しだけ、カイルの目をまっすぐ見た。


「軽率でしたら、申し訳ありません」


 静かな返答だった。


 だが自分でも分かった。今の自分は、以前のように完全に折れてはいない。


 場を救ったことは事実だ。誰が何と言おうと、それは消えない。文字の意味を正したことも、使節がそれを認めたことも、ここにいた人間の記憶に残る。


 母はそれ以上この場で騒ぐことを避けたらしく、低い声で「今夜はもう目立たないように」とだけ言い残して去っていった。カイルも苦々しい表情のまま離れる。彼はすぐにセレナの方へ向かい、妹へ何か囁いた。セレナは困ったように微笑みながらも、アリアの方を見て、一瞬だけ複雑な目をした。


 夜会はそのまま続いた。


 だが空気は少し変わっていた。


 さきほどまで彼女をほとんど視界に入れていなかった年配の貴族たちが、すれ違いざまに二度見をする。若い令嬢たちは「古い北方語ですって」と小声で囁き合い、文官の一人は不機嫌そうに視線を逸らした。主催家当主は遠くから一度だけ礼のように杯を上げて見せた。


 派手な賞賛はない。


 それでもアリアには十分だった。


 なぜならそれは、母の望むような「華やかな目立ち方」ではなく、自分のしてきたことが確かに誰かの役に立った結果としての視線だったからだ。


 会場の空気が少し落ち着いた頃、給仕の少年が近づいてきた。


「伯爵令嬢様へ、と」


 差し出されたのは小さな銀盆で、その上に折り畳まれた紙片が乗っている。


 アリアは一瞬ためらったが、受け取るしかない。


 開いてみると、そこに書かれていたのはごく短い文だった。


 ――先ほどの語釈、見事でした。北方語の読みについて、後日お尋ねしたいことがあります。


 署名はない。


 だが紙質と筆致に見覚えがあった。


 王城から返ってきたあの短い紙片と、どこか似ている。整いすぎず、けれど急いでいても乱れない字。簡潔で、必要以上の感情を乗せない文。


 胸が、少しだけ速く打った。


 同じ相手だろうか。


 それとも、似た種類の人間が複数いるのか。


 顔を上げると、少し離れた位置で先ほどの高い男がこちらを見ていた。北方使節団の一員に見えた男だ。彼自身が紙を送ったのか、それとも別の誰かの使いなのかは分からない。


 ただ、彼の目には軽い好奇だけではないものがあった。


 値踏みでも、賞玩でもない。


 確かめる目。


 アリアはその視線を受け止め、ほんのわずかに会釈した。男は表情を変えず、けれどごく小さく頷き返した。


 それだけだった。


 だがその一往復だけで、彼女の中に新しい感覚が生まれる。


 自分が見てきた文字や記録や言葉の意味が、屋敷の外で誰かとつながる。それはもう、紙の上だけの話ではなくなり始めていた。


 夜会の終わり近く、帰りの馬車の中で母はずっと不機嫌だった。


「本当に、ひやひやさせることばかり」


 父も口を開く。


「役に立ったのは確かだが、場の分をわきまえろ。おまえは文官ではない」


 カイルは何も言わなかったが、その沈黙は賛同と同じだった。セレナだけが少し落ち着かない様子で、時折アリアの方を見ては何か言いかけてやめていた。


 けれどアリアは、今夜に限って不思議と俯かなかった。


「申し訳ありません」


 礼としてはきちんとそう言う。だが胸の奥では別の声が、初めてはっきり形になっていた。


 ――それでも、私は間違っていなかった。


 母にも父にもカイルにも、その言葉は届かないだろう。


 けれど、紙片を寄越した誰かには届くかもしれない。


 あるいは、あの視線の主には。


 屋敷へ戻り、自室へ入ったアリアは、ドレスのまましばらく椅子に座っていた。灯りを一つだけ残し、夜会で受け取った紙片を机の上へ置く。


 短い文。


 けれどそこには、これまで自分が知らなかった世界への小さな扉のようなものがあった。


「後日、お尋ねしたいことがある……」


 小さく読み上げる。


 誰かが、また次を求めている。


 しかも今度は、北方語の読みそのものについて。


 アリアは指先で紙片の端を撫でた。


 家の中では、まだ何も変わらないだろう。役立たず令嬢、華のない婚約者、妹の引き立て役。明日になればまた、同じような朝が来る。


 それでも今夜、確かに一つ変わったことがある。


 彼女の文字は、会場の灯りの下で息をし、誰かに届いた。


 その事実だけは、誰にも取り消せない。

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