第9話 今さら気づいても、遅い人たち
翌朝、伯爵家の空気は妙に静かだった。
昨日の夕食で交わされた言葉の余韻が、屋敷の壁や廊下の角にまで残っているようだった。使用人たちはいつも通り動いている。銀器は磨かれ、窓は開け放たれ、朝食の支度も整っている。けれど皆どこか、少しだけ慎重だった。
主人たちの機嫌を測っているのだ。
こういう朝を、アリアは知っている。
家の中で誰かが感情をぶつけた翌日。大きな騒ぎにはならずとも、見えないひびが一本入った翌日。表面は整っていても、その整い方が普段よりわずかに硬い。
自室で髪を整えながら、アリアは昨夜のことを思い返していた。
カイルに言った言葉。
――あなたは私を見ていないのだと。
あれは勢いで出たわけではない。ずっと胸の内に沈んでいたものが、ようやく言葉の形を取っただけだ。
後悔はなかった。
ただ、自分が本当にあんなことを口にしたのだという実感だけが、朝の冷たい光の中でじわじわと広がっていく。
「お嬢様」
マリーが控えめに声をかける。
「朝食のお時間でございます」
「すぐに行くわ」
立ち上がりかけて、アリアは机の引き出しへ視線を落とした。
そこには無署名の手紙がしまってある。昨夜は読み返さなかった。代わりに、控え帳の端へ一文だけ書いた。
――偶然ではない。これは、私が積み重ねてきたもの。
たった一行のその文字が、今朝もまだ胸の中で静かに熱を持っていた。
食堂へ入ると、父ベルナールはすでに席についていた。母マルグリットはいつもより口数が少なく、セレナは妙におとなしい。カイルの姿はない。ローデン侯爵は昨夜のうちに帰ったらしい。
「おはようございます」
アリアが頭を下げると、父が短く「おはよう」と返した。
母は頷くだけで、セレナだけが小さく「おはよう、お姉様」と言う。
その声はどこか探るようだった。
席につき、パンへ手を伸ばす。しばらくは銀器の触れ合う音と茶器の気配だけが続いた。
この沈黙を先に破るのは誰だろうと、アリアは半ば客観的に考えていた。父か、母か。それともセレナか。
結局、最初に口を開いたのは父だった。
「ローデン侯爵は、昨夜のことを面白がっていたようだ」
思っていたより率直な言い方だった。
アリアは視線を上げる。
「そうですか」
「そうですか、ではない」
父はナイフを置いた。
「侯爵家が興味を持ったということは、今後あちらもおまえを見る目を変えるかもしれん」
見る目を変える。
その言い方に、アリアは一瞬だけ胸の奥で苦く笑った。
変わるならもっと早く変わっていればよかったのに、と。
だがそれを口にはしない。
「それは伯爵家にとって良いことなのでしょうか」
代わりに、少しだけ距離を置いた問いを返した。
父はわずかに眉を動かした。まるで娘の口からそんな問いが出るとは思っていなかったように。
「家にとって不利益でないなら良いことだ」
「では、私にとっては?」
母が息を呑む。
セレナもはっとして顔を上げた。
食卓で、しかも父に向かってそんなふうに問うたことは、これまで一度もなかったのだろう。アリア自身も、言ってからその事実を少し遅れて理解した。
だがもう、言葉は戻らない。
父はしばらく黙り、それからやや硬い声音で答えた。
「おまえは伯爵家の娘だ。家にとって良いことは、おまえにとっても良いことだ」
見事なまでに、個人の答えにはなっていなかった。
アリアはそれを聞いて、逆に落ち着いた。
ああ、やはりそうなのだと。
この人はどこまでいっても、家の話しかできないのだと。
「そうですか」
それだけ言って、彼女は紅茶に口をつけた。
母は居心地悪そうに指先でカップの持ち手をなぞっている。セレナは何か言いたげだったが、言葉を見つけられずにいる。父はもう会話を終わらせたつもりらしく、新聞へ視線を戻した。
結局、この家ではそういうことなのだ。
昨日の夕食で少しばかり空気が動いても、本質は変わらない。
アリアの才能も努力も、まず家の得失の中へ回収される。
娘として大切に思われるより先に、使える札として数えられる。
その事実に今朝は傷つかなかった。
代わりに、静かな確信だけが残った。
朝食の終わり近く、使用人が父のもとへ一通の封書を運んできた。伯爵家の紋章も王城の印もない、淡い灰色の封筒だった。
父はそれを開き、中を読んだ途端、表情を変えた。
「……アリア」
名を呼ばれ、彼女は顔を上げる。
「今朝のうちに準備しろ。昼前に客が来る」
「また王城の方ですか」
「いや。隣国の使節団だ」
食堂の空気が一気に変わった。
母が明らかに狼狽え、セレナが目を見開く。アリアの胸も小さく跳ねた。隣国。しかも使節団。
父は続けた。
「昨夜の件で、おまえに直接礼を伝えたいらしい。それと、いくつか古い語の解釈について相談したいとも書いてある」
礼。
その言葉に、母の表情がさらに複雑になる。
「待ってくださいな、あなた」
マルグリットが口を開いた。
「使節団がわざわざうちへ? そんなこと、本来なら伯爵家の主人に話を通すべきであって、娘一人に会いたいなど――」
「だから私にも話は通っている」
父はやや苛立った声で返した。
「断る理由はない。むしろ、断れば余計な憶測を呼ぶ」
母は唇を閉ざした。
アリアは何も言わなかったが、手元のナプキンを握る指が少しだけ強くなる。
隣国の使節団。
昨夜の夜会で巻紙を読んだことが、もうそこまで繋がっている。
自分のしたことの波紋が、思っていたよりずっと速く外へ広がっているのだと、今さらのように実感した。
朝食後、アリアは古書庫へ向かった。
誰も何も言わなかったが、母の視線だけが背中に刺さるようだった。華やかさも愛嬌もない長女が、社交の花ではなく別の形で外から求められ始めている。その事実を、母はうまく呑み込めないのだろう。
古書庫の扉を閉めた途端、ようやく息がつけた。
「……隣国の使節団」
小さく呟くと、ローベルトが棚の向こうから現れた。
「私も伺いました」
「早いのね」
「屋敷の中は、その話でもちきりでございます」
それもそうだろう。伯爵家に隣国使節が私的に立ち寄るなど、そうあることではない。しかも目的が社交でも縁談でもなく、アリアへの礼と語釈の相談だというのだから、使用人たちが落ち着かなくなるのも無理はない。
「どう思う、ローベルト」
老執事は少し考えてから答えた。
「少なくとも、昨夜のことを使節団が軽く見ていない証でございましょう」
「ええ」
「そして、お嬢様を『たまたま読めた令嬢』ではなく、『話を聞く価値のある相手』と見ている」
その言葉に、胸の奥が静かに震える。
話を聞く価値のある相手。
婚約者としても娘としても、ろくに話を聞かれなかった自分に向かって、その表現はあまりにまっすぐだった。
アリアは文机へ向かい、控え帳を開いた。
「なら、準備をしないと」
「ご準備、でございますか」
「昨日までに整理した北方語の語例と、交易記録の抜き書きよ。もし本当に相談する気なら、手ぶらで会うよりましでしょう」
そう言いながら、自分でも少し驚く。
前ならきっと、礼を言われるだけだと思っていた。
あるいは、父の後ろに立って黙って会釈するだけで終わるかもしれないと。
けれど今は違う。向こうは自分に聞きたいことがあるのだ。ならば答えられるように準備したい。準備できる自分がいる。
その感覚は、少しだけ誇らしかった。
ローベルトが机の上へいくつかの帳簿を運んでくる。
「昨夜の夜会で見た記章についても、整理なさいますか」
「そうね。あれは山越え交易を担う一族の型だと思うけれど、少し古い。もしかしたら、今の使節団の中にかなり高い立場の方が混じっているかもしれない」
「お嬢様は、あの場でそこまでお分かりに?」
「全部ではないわ。けれど、分かることはある」
さらりとそう言ってから、アリアは一瞬だけ手を止めた。
分かることはある。
以前なら、こんなふうには言わなかっただろう。
「たまたま目についただけ」とか、「勘違いかもしれない」とか、必ず一歩引いた言い回しをしていた。
今は違う。
分かることは分かると、少しずつ言えるようになっている。
紙の束を並べ、必要な箇所へ細紐を挟み、簡単な一覧を作る。北方語の祝辞に使われる語句、その裏に含まれる政治的含意、古い交易協定に見られる用例の違い。相談を受けた時、すぐに示せるように。
書きながら、アリアの心は少しずつ落ち着いていった。
やはり、自分はこうして整理するのが一番落ち着く。
感情は乱れても、文字は順番を要求する。
何が分かっていて、何がまだ分からないのか。
それを紙に置いていけば、心の方も少しずつ道筋を取り戻す。
昼前になると、マリーがやって来た。
「お嬢様、奥様が、お召し替えをと」
やはり来たか、とアリアは思う。
使節団に会う以上、母が見た目を整えようとするのは当然だ。たぶん華やかな色を着せ、少しでも「伯爵家の娘らしい」姿に見せたいのだろう。
「分かったわ」
自室へ戻ると、案の定、母はすでに数着のドレスを並べさせていた。桃色、淡黄、柔らかな若草色。どれもセレナに似合いそうな色ばかりで、アリアにはどこか落ち着かない。
「これにしなさい」
母が選んだのは淡い象牙色のドレスだった。確かに上品ではあるが、アリア自身の好みではない。
「お母様」
「何かしら」
アリアは並べられた中ではなく、自分の持っている別の一着へ目を向けた。深い青を基調にした、装飾の少ないドレスだ。派手ではないが、線が美しく、机に向かう自分の姿勢にも合う。
「こちらではいけませんか」
母が怪訝そうに眉を寄せる。
「またその地味な色を? 使節団相手なのよ」
「だからです」
「何ですって」
アリアは静かに言った。
「今日、私に会いに来る方たちは、華やかな色を見に来るのではないと思います」
言葉を選びながら、しかし目は逸らさなかった。
母はしばらく娘を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「……変わったわね、あなた」
「そうかもしれません」
「昔なら、そんな言い方はしなかった」
「昔は、必要ありませんでしたから」
母はそれ以上何も言わなかった。
不満はあるのだろう。けれど今のやり取りで、自分が強く押せる状況ではないと悟ったらしい。結局、アリアは深い青のドレスを選んだ。
髪を整え終え、控えめな真珠の耳飾りだけをつける。鏡に映る自分は相変わらず地味だ。けれど今日は、それを不満には思わなかった。
この姿でいい。
少なくとも、自分が自分でいられる姿だ。
応接室へ向かう途中、廊下の角でセレナが待っていた。
「お姉様」
「どうしたの」
妹は少しためらってから、小さく言う。
「……頑張って」
思いがけない言葉だった。
アリアは一瞬だけ目を見張り、それからわずかに笑った。
「ええ」
「それと、そのお色、似合っているわ」
「ありがとう」
セレナはほっとしたように笑った。
まだぎこちない。
けれどそのぎこちなさが、むしろ本音なのだと分かる。
応接室の前に着くと、中から低い話し声が聞こえた。父の声音はやや緊張している。もう使節団は来ているのだろう。
アリアは一度だけ呼吸を整えた。
胸の鼓動は速い。
でも、逃げたいとは思わなかった。
見つけられてしまったのだ。
そして今、その先へ進む扉が、目の前にある。
マリーが扉を開く。
「アリア様をお連れしました」
応接室の中には三人の男がいた。
一人は昨日の王城文官フェリクス・ドーレン。
もう一人は昨夜の夜会で高い位置から全てを見ていた、あの静かな男。
そして最後に、さらに年長の男が一人。隣国使節団の正式な代表なのだろう、年季の入った落ち着きを纏っている。
だがアリアの視線は、自然と真ん中の男に引かれた。
彼もまたこちらを見ていた。
昨夜より近い距離で、その目の色がはっきり分かる。冷たいわけではない。むしろ驚くほど静かで、必要以上の感情を見せない目だ。
その男が、立ち上がった。
「お時間をいただき、感謝します」
低い声が応接室に落ちる。
「昨夜の非礼を改めて詫びるとともに、礼を申し上げたい」
父が何か言うより先に、その男はアリアへ向かって一礼した。
伯爵令嬢への礼としては、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも丁寧だった。
アリアの心臓がひときわ大きく鳴る。
次の瞬間、その男は静かに名乗った。
「私はレオンハルト・エーヴァルド。隣国にて公爵位を預かる者です」
公爵。
その場の空気が、一瞬で変わる。
父が息を呑み、母が扉の外で小さく音を立てた気配がした。セレナは遠く離れた廊下から様子を窺っているのかもしれない。
そしてアリアだけが、胸の内で別の意味で息を止めていた。
夜会の使節団の後ろにいた静かな男。
王城の文官よりも強い重心を持っていたあの人。
その正体が、公爵。
しかも隣国で公爵位を預かる者。
アリアは礼を返しながら、自分の中の世界がまた一つ、大きくずれる音を聞いた気がした。




