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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第47話 国境の手前で、彼女はもう引き返せないと知った

 翌朝、アリアはまだ空が白み始める前に目を覚ました。


 宿場の部屋は伯爵家の自室よりずっと簡素で、壁も床も飾り気がない。けれど不思議と、昨夜はよく眠れた気がした。慣れない旅の途中なのに、目覚めた瞬間の胸の内は思った以上に落ち着いている。


 昨夜までの自分は、伯爵家の門を出たことの余韻の中にいた。

 今朝の自分はもう、その一歩先にいる。


 今日は国境手前まで進み、隣国側の迎えと合流する日だ。


 そう思った瞬間、胸の奥が小さく鳴る。

 いよいよ、という実感が身体の中を静かに巡っていく。


 身支度を整え、窓を少しだけ開ける。外の空気は冷たいが、刺すような冷えではない。春の朝特有の、湿り気を含んだやわらかな冷たさだ。遠くで馬の鼻を鳴らす音がして、街道の方からは荷車の車輪がきしむ響きがかすかに届く。


 世界はいつも通り朝になっている。

 でもその朝の中で、自分だけが今までと違う場所へ向かっている。


 そのことが、まだ少しだけ不思議だった。


 朝食は簡素だった。温かなスープと黒パン、薄く切った燻製肉。マリーはいつも以上に静かで、だがよくこちらを見ている。緊張しているのは彼女も同じなのだろう。


「お嬢様、お顔色はよろしいですね」


「そうかしら」


「はい。昨日より落ち着いて見えます」


 その言葉に、アリアは少し考えた。


「たぶん、今日はやることがはっきりしているからだと思うの」


「やること、でございますか」


「ええ。昨日までは“本当に行くのだろうか”という気持ちがどこかにあったけれど、今日はもう違うでしょう?」


 マリーは小さく微笑んだ。


「たしかに、その通りでございます」


 もう違う。


 その一言が、ひどくしっくりきた。


 伯爵家を出たことも、婚約が白紙になったことも、王城が動き出したことも、隣国が待っていることも、全部もう現実だ。今日の道の先には、迎えが来る。そこで初めて本当に、こちら側の世界から向こう側の世界へ渡るのだ。


 馬車が動き出すと、昨日より道はさらに開けていた。王都近くの街道より人影が少なく、その分だけ遠くの景色がよく見える。浅い緑の丘、低い林、小川を渡る木橋、まだ朝靄の残る畑。


 アリアは窓の外を見ながら、膝の上の記録帳をそっと開いた。


 ――宿場を発つ朝。

 ――昨日よりも、今日の方が自分の位置がはっきりしている。

 ――不安が消えたのではなく、進む方向が迷いより濃くなった。


 そこまで書いて、指先を止める。


 進む方向が迷いより濃くなった。

 自分で書いたその一文が、今の心にいちばん近かった。


 怖いものはまだある。

 隣国で何を見るのか。

 向こうの人々が自分をどう扱うのか。

 期待に応えられるのか。

 原本の束を前にして、本当に必要なものを拾いきれるのか。


 それでも、引き返したいとは思わない。

 そこが昔とは決定的に違っていた。


 昼前に、小さな石造りの休憩所で馬を替える間、護衛の一人が地図を持ってきた。


「お嬢様、もうまもなくです」


 彼が示した先には、街道の途中に小さな印がついている。


「ここが受け渡し地点?」


「はい。国境そのものではございませんが、王城側と隣国側で合流するのはこの丘の下です」


 地図を覗き込みながら、アリアは小さく頷いた。

 国境という言葉を頭の中で反芻すると、思っていた以上に胸が高鳴る。


 境目。

 こちらと向こうの区切り。

 そして、その先へ進むと決めた自分。


 少し前までの人生では、越えることなど考えもしなかった線だ。


 再び馬車へ乗り込んでしばらくすると、道の空気がわずかに変わった。人の往来がさらに少なくなり、代わりに見張り小屋や簡素な標識が目につくようになる。街道自体は整っているのに、その整い方が「王都から伸びる道」ではなく、「境へ続く道」に見えてきた。


 アリアは窓に映る自分の顔をふと見た。


 少し緊張している。

 けれど目は逸れていない。

 前を向いている顔だ。


 やがて馬車が緩やかに速度を落とした。


「お嬢様、見えてまいりました」


 マリーの声に窓の外を見ると、街道脇の開けた場所に数頭の馬と二台の馬車が停まっていた。王城側の印のある護衛と、見慣れない色合いの外套をまとった一団。あれが隣国側なのだろう。


 胸の奥が、今度ははっきりと鳴った。


 来た。

 本当に来たのだ。


 馬車が止まり、護衛が扉を開ける。


 外の空気は少しだけ強く冷たかった。だが、その冷たさの中に張りつめた嫌な気配はない。むしろ、世界が一段広がった場所の風のように感じられた。


 先に降りた伯爵家側の護衛が王城の担当者へ挨拶し、手短に言葉を交わしている。その向こうで、隣国側の一団の中央に立つ男が、こちらを見て一歩進み出た。


 見覚えがある。


 グレゴール・ヴァルツだった。


「アリア嬢」


 彼は王都で見た時と同じように無駄のない所作で一礼した。


「ここから先、隣国側の案内を務めます」


「よろしくお願いいたします」


 アリアが礼を返すと、グレゴールは目を細めるでもなく、ただ静かに頷いた。


「長旅の初日としては良い顔色です」


 その言い方が、やけに実務的で少しだけ安心する。

 感傷も仰々しさもない。

 必要な人間を必要な場所へ迎えに来た、という態度だ。


「ありがとうございます」


「公爵閣下は一日先の館でお待ちです。本来ならここまでお出迎えしたい意向もありましたが、準備を優先されました」


 その一言に、アリアの胸がまた静かに揺れる。


 準備を優先した。

 つまり今この時も向こうでは、原本や草案群が整えられているのだろう。

 自分が到着してすぐ見られるように。


 それが、なによりも雄弁な歓迎に思えた。


 受け渡しは驚くほど簡潔だった。


 王城側の確認文。

 伯爵家からの紹介状。

 封印箱の目録照合。

 護衛人数の引き継ぎ。

 すべてが手際よく進み、余計な言葉はほとんどなかった。


 だがその中で一つだけ、王城の交通管理局の男がアリアへ向かって言った。


「ここから先は隣国側の手配となりますが、王城としての記録上、あなたは引き続き臨時協力者として扱われます」


 その確認は、ひどく大事なものに聞こえた。


 伯爵家の娘でも、婚約者でもなく。

 臨時協力者として。

 ここでもまた、自分の位置が言葉にされる。


「承知しました」


 短く答えると、男はそれで十分だと言うように頷いた。


 すべての照合が終わったあと、グレゴールが隣国側の馬車を示した。


「こちらへ」


 アリアは一瞬だけ、後ろを振り返った。


 王城側の人間。

 伯爵家側の護衛。

 そして、ここまで自分を運んできた馬車。


 こちら側の段取りは、ここで終わるのだ。


 胸の奥に、小さな区切りのようなものが落ちる。


 もう引き返せない。

 いや、引き返したくないのだ。

 そのことを、こんな場所ではっきり知るとは思わなかった。


「お嬢様?」


 マリーが小さく呼ぶ。


 アリアは前を向き直り、微笑んだ。


「大丈夫」


 そして、隣国側の馬車へ足を向ける。


 その一歩は、思っていたより軽かった。


 乗り込んだ車内は伯爵家の馬車よりやや広く、だが飾り気は少ない。実務のために用意されたものだとすぐに分かった。向かいにグレゴールが座り、資料箱の位置を確認する。


「揺れは少ない道を選びますが、午後は少し山沿いに入ります」


「分かりました」


「到着は日没前後です」


 それだけの短いやり取り。


 だがアリアはそれだけで十分だった。

 余計な気遣いや気取りがなく、最初から“仕事をしに来る人間”として扱われている。


 馬車がゆっくりと動き出す。


 窓の外で、こちら側の人間たちが少しずつ遠ざかる。

 王城の係も、伯爵家の護衛も、見送るというより確認を終えた顔でそこに立っている。


 その光景を見ながら、アリアははっきりと思った。


 自分はもう、戻ることを前提にした娘ではない。

 帰る場所はある。

 待つ人もいる。

 でも今この瞬間の自分は、はっきりとこちら側から向こう側へ渡った人間なのだ。


 記録帳を開き、彼女は新しい頁へ書きつける。


 ――国境手前で、王城側と隣国側の受け渡しが済む。

 ――その瞬間、引き返せないのではなく、引き返したくないのだと分かった。

 ――自分の名前は、もう家の中だけに置かれていない。


 最後の一文を書き終えた時、馬車は緩やかな坂道へ差しかかっていた。


 窓の外に見える景色が、少しずつ変わっていく。

 道沿いの標識の形も、石垣の積み方も、木立の間に見える家々の屋根の角度も。


 まだ大きく違うわけではない。

 けれど、たしかに向こう側の空気が始まりつつある。


 アリアはペンを置き、静かに窓の外を見つめた。


 次に目にするのは、まだ見ぬ原本の束。

 その前に自分は、もうひとつの境を越えたのだと知っていた。

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