第48話 迎えられた先で、彼女のための机が用意されていた
隣国側の馬車は、王国のものより揺れが少なかった。
車輪の音も低く、道の継ぎ目を越える時の衝撃がやわらかい。窓の縁や座席の造りも簡素だが、よく考えられているのが分かる。見栄えを競うためではなく、長い道を確実に進むための馬車なのだろう。
そのことが、アリアには妙に心地よかった。
今の自分もまた、飾りとしてではなく、必要だからここにいる。
そういう扱いを受けているのだと、馬車の造りひとつからも感じられる気がした。
窓の外では、景色がゆっくりと変わっていく。
大きく違うわけではない。
春の浅い緑、街道沿いの低木、ところどころに見える畑。
けれど、石垣の積み方や道しるべの形、時折すれ違う荷馬車の幌の色合いが、少しずつ王国のものとは違って見えてくる。
自分は今、本当に向こう側へ入っているのだ。
「気分は悪くありませんか」
向かいに座るグレゴール・ヴァルツが問う。
「大丈夫です」
「それはよかった」
短い会話。
だが、それで十分だった。
彼は無駄に世話を焼かない。
過剰に気を遣ってもこない。
その距離感が、今のアリアにはありがたい。
「公爵閣下は、到着後すぐに閲覧室へ案内できるようにと仰っていました」
グレゴールが静かに続ける。
アリアの胸が小さく鳴る。
「そんなに早く、ですか」
「旅の疲れ次第ではございますが」
「いいえ」
思わず言葉が前に出る。
「もし可能なら、見たいです」
グレゴールはそれを当然のように受け取り、頷いた。
「承知しました」
それだけ。
“令嬢らしくまずはお茶でも”とも、“今日はお休みになった方が”とも言わない。
見たいと言ったら、見られるように整える。
その簡潔さに、アリアは少しだけ笑みをこぼした。
馬車は午後のうちに緩やかな丘陵地へ入った。道の両脇に背の高い木々が増え、時折小さな川を渡る。水面に光が散り、橋の下ではまだ雪解けの冷たさを残した流れが速い。
アリアはその景色を記録帳に少しだけ書き留めた。
――向こう側の道は、見知らぬのに落ち着く。
――整い方が見栄ではなく、続くための形に見える。
――今の自分には、その方がしっくりくる。
書いてから、少しだけ照れた。
ずいぶん感想めいた文だ。
だが今は、それも大事なのだろうと思う。
この旅で自分が何を見て、どう感じたかは、単なる実務以上の意味を持つ気がしていたから。
日が少し傾き始めた頃、馬車はようやく速度を落とした。
「着きます」
グレゴールの一言に、アリアは窓の外を見た。
低い石壁に囲まれた館だった。
城というほど大きくはないが、領主の別邸というには実務的すぎる。余計な装飾を削り、必要な空間だけを積み重ねたような造り。淡い灰色の石でできた建物は、夕方の光を受けて静かに立っている。
門の前に数人の使用人と護衛が待っていた。
その中央にいる人物を見た瞬間、アリアの呼吸がわずかに止まる。
レオンハルトだった。
ここまで来て本当に出迎えるのだ、と一瞬思う。
だが次の瞬間には、それもまた彼らしいと思えた。
必要なら出迎える。
だが見せびらかすためではなく、来た人間をそのまま受け取るために。
馬車が止まり、扉が開く。
外へ降りると、夕方の空気は予想より少し冷たかった。
だがその冷たさの中に、どこか乾いた清潔さがある。
「長旅、お疲れさまでした」
レオンハルトは近づきすぎることなく、一歩分の距離を保って言った。
「ありがとうございます」
アリアが礼を返すと、彼はほんの少しだけ視線を和らげた。
「よく来てくださいました」
その言葉は柔らかかったが、甘くはなかった。
来てくれて嬉しい、という感情と、必要な人をきちんと迎えたという実務的な確かさが、同じ場所にある声音だった。
だからこそ、アリアは変に緊張しすぎずにいられるのかもしれない。
「まずは部屋へ」
レオンハルトが言う。
だがすぐに、ほんのわずかに口元を動かした。
「……と言いたいところですが、あなたはたぶん、先に机の方を見たいのでしょう」
その言い方があまりにも正確で、アリアは思わず目を瞬いた。
「分かるのですか」
「手紙を読んできた方ですから」
短い返答。
それだけで十分だった。
自分が今いちばん何を望んでいるかを、いちいち説明しなくてもよい。
そのこと自体が、もうありがたい。
「もし可能なら」
アリアは静かに言う。
「先に、見たいです」
「承知しました」
レオンハルトはすぐに頷いた。
館の中へ入ると、内装もやはり簡潔だった。磨かれた石床、広すぎない廊下、必要な灯りだけが置かれた壁際。王都の侯爵家のような華美さはない。だがその代わり、空間全体が静かに仕事のために整えられている感じがした。
案内された先は、思っていたより広い部屋だった。
窓は大きく、夕方の残光がまだ差し込んでいる。中央には長い机が二台。その片方には、すでにいくつもの束が順番に並べられていた。厚みの違う文書束、革紐で括られた草案群、端に注記札のついた巻紙、数冊の帳簿。
そしてもう一方の机には、空いたスペースと、真新しい筆記具、それに水差しと小さな灯台。
明らかに、もう一方は誰かのために用意されている。
「……これは」
アリアは机の前で立ち止まった。
胸の奥が、静かに、しかし強く熱くなる。
自分のための机だ。
誰かの横から覗き込むためではない。
使用人のように控えて、必要な時だけ口を挟むためでもない。
最初から、ここに座って読めるように、ひとつの机が用意されている。
「あなた用です」
レオンハルトが簡潔に言う。
「最初に見るべき束から順に並べてあります。こちらが第一次草案、こちらが融雪期注記付き束、奥が現場修繕覚え書き。右側は王国写しとの比較用にこちらで取っておいた控えです」
アリアは声が出なかった。
並べ方まで、もうこちらの必要に合わせて整えられている。
ただ歓迎するために美しく飾った部屋ではない。
読む人間がすぐ仕事に入れるように組まれた部屋だ。
「……本当に」
ようやくそれだけ口にする。
「整えてくださったのですね」
「あなたが来ると決めた時点で、そのつもりでした」
レオンハルトの返答は落ち着いていた。
その落ち着きのせいで、かえって言葉の重みが増す。
自分が“来るかもしれない客”ではなく、“来るなら読む人”として最初から想定されていたのだ。
「ありがとうございます」
その一言を言うのが精いっぱいだった。
レオンハルトは軽く頷き、机の端を示す。
「まずは荷を置き、必要なら少しだけ見てから休まれるといい。長い移動の直後ですから、無理はなさらず」
その気遣いも、過剰ではない。
あくまで読む人間としての体調を案じている。
グレゴールとマリーが荷の確認に下がったあと、部屋にはアリアとレオンハルトだけが残った。
沈黙はあったが、気まずくはなかった。
むしろ、ようやくここへ辿り着いたという実感の方が強い。
「思っていたより」
アリアがぽつりと言う。
「ずっと現実でした」
「現実でなければ困ります」
思わず小さく笑ってしまう。
その返し方が、らしい。
「もっと、夢の続きみたいな気分になるかと思っていました」
「今は?」
レオンハルトの問いに、アリアは机の上の束を見る。
紙の端、紐の締め方、注記札の色分け、自分のために空けられた机。
「今は……」
ゆっくりと言葉を探す。
「やっと、来るべき場所に着いた感じがします」
それは少し大胆な言い方かもしれないと思った。
だが今の自分には、それ以上に近い表現が見つからなかった。
レオンハルトはそれを否定も肯定もせず、ただ静かに受け止めるように頷いた。
「では、そう感じていただけるよう整えた甲斐がありました」
その答えに、アリアの胸はまた少し熱くなる。
来てよかった。
その実感が、ようやく身体全体へ馴染み始めていた。
しばらくしてマリーが戻り、部屋の支度が整ったことを告げる。
レオンハルトは最後に一歩だけ引いて言った。
「今夜は無理をなさらず。ですが、どうしても最初の束だけ開きたいなら止めません」
その言い方があまりに分かっていて、アリアは思わず微笑んだ。
「……少しだけ、見たいです」
「そうだろうと思いました」
彼はそう言って、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まったあと、アリアは一人、用意された机の前に立ち尽くした。
長い旅の終わりではない。
ここから本番なのだ。
そしてその始まりの場所に、自分のための机がある。
それは、どんな歓迎の言葉よりも、彼女には強く響いた。
そっと椅子へ腰を下ろし、最初の束へ手を伸ばす。
第一次草案。
革紐の感触は、王国のものより少しだけ固い。
その瞬間、アリアははっきりと分かった。
自分はもう、伯爵家の長女として運ばれてきた人間ではない。
ここでは、自分の名前を持つ読む者として迎えられているのだと。




