第46話 街道の先で、彼女は自分の名前を持っていた
伯爵家の門を出てしばらく、アリアは窓の外から目を離せなかった。
見慣れたはずの王都の朝が、今までとはまるで違って見える。石畳の道、まだ店を開けきっていない商家の戸口、早朝の荷を運ぶ人々、遠くで鐘の準備をする塔の影。どれもこれまで何度も目にしてきた景色なのに、今日だけはすべてが少しだけ遠く、少しだけ鮮明だった。
馬車は一定の速度で揺れながら進む。
車輪が石を踏むたびに、膝の上の記録帳が微かに震えた。
その感触が、今の自分の立場を何よりよく伝えていた。
遊びではない。
見物でもない。
王都を離れて、原本を見に行く。
自分の目と、自分の言葉を持って。
「お嬢様、お寒くはありませんか」
向かいに座るマリーが、控えめに尋ねる。
今回は完全な一人旅ではない。伯爵家からは最低限の侍女と護衛が同行している。王城との取り決めもあり、国境手前までは伯爵家側の手配で進み、その先で隣国側の迎えと合流する段取りだ。
「大丈夫よ」
そう答えながら、アリアは窓の外を見たまま小さく笑った。
「ただ、少し落ち着かないだけ」
マリーは柔らかく頷いた。
「それは当然でございます」
「そうかしら」
「はい。だってお嬢様、いま本当に出発されたのですもの」
その言い方が妙に可笑しくて、アリアはようやく窓から目を離した。
「たしかに」
「屋敷で準備をしていた時は、どこかまだ夢のようでしたけれど」
「ええ」
「今はもう、本当です」
その通りだった。
準備の時間も、紙を選ぶ時間も、持参品を整える時間も、十分に現実的だった。
けれどあれらはまだ、屋敷の中の現実だったのだ。
今は違う。
馬車はもう門を出て、王都の通りを進んでいる。
引き返すことを前提にした時間ではなく、前へ向かうための時間が始まっている。
しばらくすると、王都の賑わいは少しずつ薄れた。高い建物が減り、道幅が広がり、朝靄の残る街道が前方へ真っ直ぐ伸びていく。遠くには春の浅い緑がまだらに広がり、その向こうに低い丘が見えた。
アリアはようやく記録帳を開く。
最初の頁には、昨夜のうちに小さく日付だけを書いておいた。そこへ、旅立って最初の一行を入れる。
――伯爵家の門を、朝まだきに出る。
――見慣れた王都が、今朝は少し遠く見えた。
たったそれだけなのに、書き終えた瞬間、胸の中が少し落ち着いた。
書けばいいのだ。
見たことを。感じたことを。
それがこの旅で自分に許された、もっとも自然な呼吸の仕方なのかもしれない。
「もう書かれるのですね」
マリーが少し感心したように言う。
「ええ。あとで書こうとすると、最初の空気が逃げてしまう気がして」
「お嬢様らしいです」
その言い方に、アリアは微笑んだ。
お嬢様らしい。
昔はその言葉が、どこか窮屈に聞こえることがあった。
伯爵家の娘らしく、静かに、控えめに、余計なことを言わず。
そういう文脈の中で使われることが多かったからだ。
でも今のマリーの言葉は違う。
読むこと、書くこと、それをすぐ形にすること。
そういう“自分らしさ”を、そのまま肯定する響きだった。
昼前、王城が手配した中継地点へ着くと、そこで短い休憩が入った。
街道沿いの小さな宿場町のはずれにある屋敷で、王城の交通管理局の者が待っていた。出発確認と、国境手前までの道程再確認のためだという。
応接用の部屋へ通されると、そこにいたのはルスラン・ヘイム本人だった。
「アリア様、お疲れはありませんか」
「今のところは」
「それはよかった」
彼は以前よりも少しだけ柔らかい顔をしていた。王城の中で会う時のような張りつめた実務の顔ではなく、段取りがここまで進んだことへの安堵が少し混じっているように見える。
「こちらから先の街道ですが」
ルスランは地図を広げた。
「本日の宿までは順調です。明日、国境手前の受け渡し地点に着く予定で、隣国側の迎えは正午前後と聞いています」
正午前後。
思った以上に早い。
明日にはもう、向こう側の人間と合流するのだ。
「王城から追加の文はありますか」
アリアが尋ねると、ルスランは小さく頷いた。
「一点だけ」
彼が差し出したのは短い覚え書きだった。
――隣国側原本群のうち、補助協定第一次草案および融雪期注記付き束を最優先確認対象とすること。
――可能であれば現場修繕覚え書きとの照合順を先に確定すること。
アリアは目を通しながら、自然と頭の中で優先順位を組み始めていた。
第一次草案。
融雪期注記付き束。
現場修繕覚え書き。
順番が見える。
そうなると、向こうで最初に何をどう見ればよいかも、かなりはっきりする。
「……分かりました」
「王城としても、今回の照合で得られるものは大きいと見ています」
ルスランは低く続ける。
「正直に申し上げれば、ここまで短期間で話が進むとは思っていませんでした」
「私もです」
アリアがそう返すと、ルスランは少しだけ苦笑した。
「ですが、いま王城の内部では、皆ひとつだけはっきり理解しています」
「何を、ですか」
「あなたを、もう“家の中の補助”として扱ってはならないということです」
その言葉は、思いがけず胸の深いところへ落ちた。
家の中の補助。
たしかに、ずっとそうだったのだ。
父の机に置かれる紙を読む人。
必要な時だけ呼ばれる人。
役に立つ時だけ名前もなく使われる人。
でも今、王城がその扱いをやめると言っている。
「……そうですか」
それしか返せなかった。
ルスランは過剰に励ますこともなく、ただ真面目に頷いた。
「はい」
短い休憩のあと、再び馬車は動き出した。
昼を過ぎると空は少し高く晴れ、街道の先へやわらかな春の光が広がった。王都から離れるにつれ、道沿いの景色はのどかになっていく。畑を耕す人影、小川の光、低い石橋、遠くの森。
アリアはその景色を時折眺めながら、記録帳へ断片的に書きつけていった。
――王都を離れるほど、息がしやすくなる。
――だがこれは逃避ではなく、目的へ近づいている感覚。
――紙の続きを見に行く道のりは、思ったより静かだ。
書きながら、自分でも少し可笑しくなる。
まるで旅日記だ。
でもそれでいいのだろうと思う。
この旅は実務であり、同時に、自分の人生の転換点でもあるのだから。
夕方、最初の宿へ着く頃には、身体にも少し疲れが出ていた。
慣れない長時間の移動。
緊張。
出発そのものの高揚。
与えられた部屋でひと息つくと、ようやく「本当に遠くへ来たのだ」という実感がゆっくり降りてきた。
夕食のあと、アリアは一人で部屋の机に向かった。
窓の外はもう薄暗く、宿場の明かりがぽつぽつと見える。遠くで馬のいななきと、街道を行く荷車の音が小さく混じっていた。
記録帳を開き、今日一日の終わりを書く。
――伯爵家の門を出た。
――王城の中継点で、向こう側の準備が現実であることを再確認する。
――自分の名前で動くとは、こういうことなのだと、少しずつ身体が理解し始めている。
そこまで書いて、ペンが止まる。
自分の名前で動く。
それはたぶん、思っていたよりもずっと孤独なことでもあり、同時にずっと自由なことでもある。
婚約は白紙になった。
誰かの横に置かれる未来は、一度ほどけた。
そのあとで初めて、自分は自分の名で街道を進んでいる。
少しだけ寂しい。
でも、それ以上に、心は前を向いていた。
机の端へ置いてあった銀の栞を手に取り、今日書いた頁へそっと挟む。
母が「本当に大事な頁に」と言った、あの栞だ。
今日がその最初の頁なのだろうと、アリアは静かに思った。
窓の外では、夜の風が木々を鳴らしている。
明日になれば国境へ近づき、隣国側の迎えと合流する。
その先に、まだ見ぬ原本と草案群が待っている。
寝台へ入る前、アリアは最後に一つだけ小さく呟いた。
「もう、本当に戻らないのね」
それは後悔ではなく、確かめるための言葉だった。




