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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第45話 門を出る時、彼女はもう“家の中の人”ではなかった

 出発の朝は、夜明けより少し早く始まった。


 まだ空は濃い藍色で、東の端がわずかに白みかけているだけだった。伯爵家の屋敷も普段なら眠りの底にある時間だが、今朝だけは違う。廊下には静かな足音が行き交い、玄関先では馬具の金具が小さく鳴り、厨房の方からは早く起きた使用人たちの気配がかすかに伝わってくる。


 大きな音はない。

 だが、屋敷そのものが少し早く目を覚まして、ひとりの娘を送り出すために静かに整っている。

 そんな朝だった。


 アリアはすでに身支度を終えていた。


 旅用の深い青の上着に、動きやすさを優先した落ち着いた色のドレス。派手さはないが、鏡の中の自分は不思議なくらいしっくりきて見えた。胸元には必要最低限の飾りだけ。髪もいつもよりきちんとまとめられているが、過剰ではない。


 “伯爵家の娘らしく”見せるためではなく、

 “自分が向こうでちゃんと立つため”の姿。


 その違いを、今のアリアははっきり分かっていた。


 机の上には、最後に確認した封印箱と旅先記録帳が置かれている。

 革表紙の帳面には、昨夜母からもらった銀の栞。

 その隣には、父から受け取った紹介状。


 そして一番上に、レオンハルトの短い返書。


 ――来るなら、こちらは迎える。


 アリアはその一文へもう一度だけ視線を落とし、そっと紙を畳んだ。


「お嬢様」


 ノックのあと、マリーが入ってくる。


「馬車の準備が整いました」


「ええ」


「旦那様方も玄関へ」


「ありがとう」


 深く息を吸う。


 ついにその時が来たのだ。

 何日も何日も、紙の上で準備をしてきた“出発”が、ついに現実の朝になった。


 緊張はある。

 けれど、足は不思議と前へ出た。


 玄関へ向かう廊下は、まだ薄暗かった。

 燭台の火と、外から差し込み始めた朝の光が混ざり合って、石床に淡い影を落としている。


 その途中で、古書庫の前を通った。


 アリアは思わず足を止める。


 扉は閉じている。

 中はまだ静かなままなのだろう。

 けれどその向こうに、自分が長いあいだ隠れるようにして過ごしてきた時間が詰まっていることを、今さらながら強く感じた。


 ここで読んだ。

 ここで拾った。

 ここで何度も「たまたまです」と言いかけて、ようやくそれをやめた。


 古書庫は、隠れる場所でもあり、育った場所でもあったのだ。


「……行ってくるわ」


 小さくそう呟き、アリアは再び歩き出した。


 玄関ホールには、すでに父ベルナールと母マルグリット、そしてセレナがいた。ローベルトとマリーをはじめ、屋敷の主要な使用人たちも控えている。


 その光景を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 見送りではなく、送り出し。


 今までは誰かが出ていく時、こちらは“家の中に残る側”だった。

 でも今日は違う。

 自分が門を出る側なのだ。


 セレナが真っ先に駆け寄ってきた。


「お姉様」


「なに?」


 妹は何か言おうとして、それから少しだけ目を潤ませて笑った。


「……やっぱり、ちゃんと似合ってる」


 その一言に、アリアは思わず笑ってしまう。


「ありがとう」


「向こうでいっぱい見てきて」


「ええ」


「それで帰ってきたら、全部聞かせて」


 セレナの言葉は、昔のような無邪気な好奇心だけではなかった。

 ちゃんと知りたい、聞きたい、共有したい。

 そういう温度があった。


「全部は長くなるわよ」


「それでも」


 妹は真剣に頷く。


「今度はちゃんと聞くから」


 その言葉が、どれほど嬉しいか。


 アリアはそっと妹の手を握った。


「分かったわ」


 マルグリットは少し離れた場所から娘を見ていた。

 やがてゆっくり近づいてくる。


「体を冷やさないように」


 開口一番、それだった。


 伯爵家の威厳でも、立ち居振る舞いでもなく、まずそこから来るのかと、アリアは少し驚く。


「はい」


「向こうで困ったことがあれば、我慢しすぎないこと」


「はい」


「紙ばかり見て、食事を忘れたりしないこと」


 その注意に、セレナが思わず吹き出しそうになり、アリアも少しだけ苦笑した。


「気をつけます」


 マルグリットはそれ以上大げさなことは言わなかった。

 ただ、出発前夜に渡してくれた銀の栞をちらりと見て、ほんの少しだけ満足そうに頷く。


 それで十分だった。


 最後にベルナールが前へ出る。


 父はいつも通り、感情を表へ大きくは出さない。

 だが今朝の彼の目は、以前とは違っていた。


「紹介状と封印箱は持ったな」


「はい」


「記録帳も」


「持っています」


「よし」


 短い確認のあと、ベルナールはしばらく黙った。

 周囲も誰も口を挟まない。

 父が何を言うのかを、皆が待っている。


「おまえは今回、伯爵家の名を背負って行く」


「はい」


「だが、それだけではない」


 アリアはまっすぐ父を見る。


「王城に必要とされ、隣国に招かれ、自分の意思でそこへ向かう。ならば向こうで見たものは、おまえ自身の名でも持ち帰れ」


 その言葉は、送り出しの言葉としてはずいぶん不器用だった。

 けれど今のアリアには、その不器用さの方がありがたかった。


 父が今、家だけでなく、自分自身の名でも持ち帰れと言っている。

 それがどれほど大きいことか、よく分かる。


「はい」


 深く頷く。


「必ず」


 ベルナールは短く息を吐き、最後にこう言った。


「行ってこい」


 それだけだった。


 でも、その四文字の中に、これまでの全部が詰まっていた。


 止める側だった父が。

 家に残す前提で見ていた父が。

 今、自分へ向かってはっきりと“行ってこい”と言う。


 アリアは深く頭を下げた。


「行ってきます」


 玄関の扉が開く。


 朝の空気は冷たく、まだ湿り気を帯びていた。

 前庭には伯爵家の馬車が待っている。荷はすでに積み込まれ、護衛の準備も整っていた。


 石段を降りる一歩一歩が、妙に鮮明に感じられる。


 後ろを振り返ると、父と母、セレナ、ローベルト、マリー、そして使用人たちが、みな静かに立っていた。


 見送られている。

 そう実感した瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。


 自分はもう、“家の中に残る人”ではない。

 少なくとも今この瞬間は、はっきりと送り出される側なのだ。


 馬車へ乗り込む直前、セレナがもう一度だけ声を上げた。


「お姉様!」


 アリアは振り返る。


「紙の続きを、ちゃんと見てきて!」


 その一言に、思わず笑みがこぼれた。


「ええ」


 はっきりと答える。


「ちゃんと見てくる」


 馬車へ乗り込み、扉が閉まる。

 窓越しに屋敷の人々が見える。

 父は腕を組み、母はまっすぐ立ち、セレナは最後まで手を振っていた。


 車輪がゆっくりと動き出す。


 門へ向かう短い距離なのに、その振動はこれまでのどの移動より重く、そして軽かった。


 門扉が開かれる。


 伯爵家の敷地の外へ、馬車が滑り出る。


 その瞬間、アリアははっきりと分かった。


 自分はもう、家の中の人ではない。

 少なくともこの旅の間、自分は自分の名で外へ出ていく。


 石畳を進む馬車の中で、彼女は膝の上の記録帳へそっと手を置いた。


 これは出発だ。

 喪失の続きではなく、ようやく始まる方の。

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