第44話 出発前夜、彼女はもう後ろを向かなかった
出発前夜の伯爵家は、昼間までの慌ただしさが嘘のように静かだった。
準備そのものはほとんど終わっている。
持参資料は封印箱へ収められ、王城提出用の控えも分けられ、旅装も衣装部屋から自室へ運び込まれた。護衛の手配も済み、出発時刻も確定している。明朝、伯爵家の馬車はまだ空の薄暗いうちに門を出る。
だからこそ、今さら大きく動くものはない。
ただ、静けさだけが残っている。
アリアは自室の机に向かい、最後の確認をしていた。
右に王城側へ渡す控えの写し。
左に自分用の旅先記録帳。
中央に、公爵から届いた短い返書が一枚。
――来るなら、こちらは迎える。
何度も読み返したその一文を、彼女は今夜もまた目でなぞった。
甘い言葉ではない。
情緒的な誘いでもない。
それでも、その短さの中には妙な力があった。
迎える。
つまり、来るかどうかは最後までこちらに委ねながら、その一歩の先には確かな受け皿があると言っているのだ。
それが、今のアリアにはひどくありがたい。
「お嬢様」
控えめなノックのあと、マリーが入ってくる。
「お母様が、お休みになる前に少しだけと」
「分かったわ」
机上の手紙をそっと畳み、引き出しへ戻す。
昔なら、母に呼ばれる時間は少しだけ気が重かった。何を言われるのか、どこを注意されるのか、どんな「伯爵家の娘らしさ」を求められるのかと、先に身構えていたからだ。
けれど今は違う。
もちろん緊張は残っている。
でも少なくとも、今夜の母が「昔へ戻せ」と言い出すことはないだろうと分かっていた。
マルグリットの私室へ入ると、母は窓辺の長椅子に座っていた。灯りは控えめで、部屋の中は夜のやわらかい影に包まれている。昼間のようなきちんとした装いではなく、くつろいだ室内着だ。それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
「来てくれてありがとう」
「いいえ」
促されて向かいへ腰を下ろす。
母はすぐには話し始めなかった。視線を窓の外へ向けたまま、何かを整えるように息を吐く。
「明日、行くのね」
「はい」
「そう」
短い言葉なのに、その中にはいくつもの感情が混じっていた。
寂しさ。
心配。
戸惑い。
そして、もう止めないと決めた人間の諦めにも似た覚悟。
「昔ね」
マルグリットがぽつりと口を開く。
「あなたがこんなふうに家を出る日が来るなら、それはきっと侯爵家へ嫁ぐ日だと思っていたわ」
アリアは黙って聞いた。
「だから、私はずっと……あなたを“誰かの家へ綺麗に渡すため”の形でしか見られなかったのかもしれない」
その告白は、遅い。
遅いけれど、嘘ではない。
「でも今は違うのね」
母はようやく娘を見る。
「あなたは明日、誰かの妻になるためではなく、自分が見たいものを見に行くために家を出る」
その言葉に、アリアの胸の奥が静かに揺れた。
そうだ。
たしかにこれは、嫁入りではない。
婚約の延長でもない。
自分の足で、自分の望むものの方へ向かう出発なのだ。
「はい」
小さく、しかしはっきりと答える。
マルグリットはしばらく娘を見つめ、それから手元の小箱を開いた。
「これを持っていきなさい」
差し出されたのは、小さな銀の栞だった。
繊細な蔓草模様が彫られていて、飾りすぎず、けれど持つ人の手元を静かに整えるような品だ。
「これは……」
「私の母から譲られたものよ」
アリアは目を瞬いた。
そんな話を母から聞くのは、ほとんど初めてだった。
「若い頃、私は本なんてほとんど読まなかったけれど、それでもこれは“いつかきちんと文字を読む時が来たら使いなさい”と言われて渡されたの」
母は少しだけ苦笑する。
「結局、私よりあなたの方がずっと似合うものになってしまったわね」
その言い方がやわらかくて、アリアは何と言っていいか分からなくなる。
「お母様……」
「旅先で、今のあなたが本当に大事だと思う頁に挟みなさい」
その一言で、もう十分だった。
これはたぶん、母なりの餞別なのだ。
見栄えのためでも、伯爵家の威厳のためでもない。
読む人間である娘に向けた、初めての贈り物。
「ありがとうございます」
そう言うと、マルグリットは少しだけ目を伏せた。
「無事に帰ってきて。それから、その先も……もう隠れなくていいわ」
アリアは栞をそっと握りしめた。
もう隠れなくていい。
その言葉は、前にも別の形で聞いた。
カイルからも、父からも。
けれど母の口から出ると、また少し違う重みを持って届く。
「はい」
その夜、自室へ戻る途中で、今度はベルナールに呼び止められた。
書斎の前で立っていた父は、昼間と違って少しだけ疲れて見えた。ここ数日、王城とのやり取りも、侯爵家との整理も、伯爵家内の決断も、すべてを一気に引き受けていたのだから当然だろう。
「少しだけいいか」
「はい」
書斎の中はいつも通り整っていた。
机の上には今日最後に目を通していたらしい紙が残っている。
ベルナールはそれを脇へよけると、アリアへ向かってひとつの封筒を差し出した。
「これは?」
「紹介状だ」
開いてみると、隣国側での身分と滞在趣旨について、伯爵家当主として確認した内容がしたためられていた。簡潔だが、娘が“勝手に出歩く令嬢”ではなく、“伯爵家の了解のもとで臨時協力に赴く者”であると、はっきり書かれている。
「向こうで余計な説明をせずに済むようにしておいた」
ベルナールはぶっきらぼうに言う。
「お父様が」
「ああ」
アリアは封筒を両手で持ったまま、しばらく言葉を失った。
父はずっと、家の中だけで自分を使ってきた。
けれど今は、その家の外で自分が立てるように、こうして文を整えている。
その変化を前にすると、簡単な言葉しか出てこない。
「ありがとうございます」
ベルナールは目を逸らし、低く言う。
「向こうで何を見るかはおまえ次第だ。だが伯爵家の娘として行く以上、変に縮こまるな」
「はい」
「それから」
父は一度言葉を切る。
「帰ってきたら、見たものを全部聞かせろ」
その一言に、アリアは少しだけ笑った。
それはたぶん、父なりの「待っている」の言い方なのだろう。
「はい。全部、話します」
自室へ戻ると、机の上の旅先記録帳へ、母からもらった銀の栞をそっと挟んだ。革表紙の帳面に、その銀色は驚くほどよく似合った。
しばらくそれを見つめてから、アリアは控え帳を開き、今夜のことを書き留める。
――母より銀の栞を受け取る。
――父より紹介状を受け取る。
――いよいよ明朝、出発。
そこまで書いて、手が止まる。
明朝、出発。
本当にここまで来たのだ。
婚約が白紙になり、王城が動き、隣国が待ち、伯爵家が送り出す。
ほんの少し前まで、すべて想像の外側にあったことが、今は自分の明日になっている。
寝台へ入っても、なかなか眠気は来なかった。
緊張しているのだろう。
けれどそれは、何かを失う前の緊張ではない。
何かが始まる前の緊張だ。
窓の外では、夜の風が静かに木々を鳴らしている。
アリアは目を閉じながら、明日の道のりを思った。
伯爵家の門。
王都を出る石畳。
国境へ向かう街道。
そしてその先に待つ、まだ見ぬ原本の束。
怖い。
でも、後ろは向かなかった。




