表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

44/67

第44話 出発前夜、彼女はもう後ろを向かなかった

 出発前夜の伯爵家は、昼間までの慌ただしさが嘘のように静かだった。


 準備そのものはほとんど終わっている。

 持参資料は封印箱へ収められ、王城提出用の控えも分けられ、旅装も衣装部屋から自室へ運び込まれた。護衛の手配も済み、出発時刻も確定している。明朝、伯爵家の馬車はまだ空の薄暗いうちに門を出る。


 だからこそ、今さら大きく動くものはない。


 ただ、静けさだけが残っている。


 アリアは自室の机に向かい、最後の確認をしていた。


 右に王城側へ渡す控えの写し。

 左に自分用の旅先記録帳。

 中央に、公爵から届いた短い返書が一枚。


 ――来るなら、こちらは迎える。


 何度も読み返したその一文を、彼女は今夜もまた目でなぞった。

 甘い言葉ではない。

 情緒的な誘いでもない。

 それでも、その短さの中には妙な力があった。


 迎える。

 つまり、来るかどうかは最後までこちらに委ねながら、その一歩の先には確かな受け皿があると言っているのだ。


 それが、今のアリアにはひどくありがたい。


「お嬢様」


 控えめなノックのあと、マリーが入ってくる。


「お母様が、お休みになる前に少しだけと」


「分かったわ」


 机上の手紙をそっと畳み、引き出しへ戻す。

 昔なら、母に呼ばれる時間は少しだけ気が重かった。何を言われるのか、どこを注意されるのか、どんな「伯爵家の娘らしさ」を求められるのかと、先に身構えていたからだ。


 けれど今は違う。


 もちろん緊張は残っている。

 でも少なくとも、今夜の母が「昔へ戻せ」と言い出すことはないだろうと分かっていた。


 マルグリットの私室へ入ると、母は窓辺の長椅子に座っていた。灯りは控えめで、部屋の中は夜のやわらかい影に包まれている。昼間のようなきちんとした装いではなく、くつろいだ室内着だ。それでも背筋だけは真っ直ぐだった。


「来てくれてありがとう」


「いいえ」


 促されて向かいへ腰を下ろす。

 母はすぐには話し始めなかった。視線を窓の外へ向けたまま、何かを整えるように息を吐く。


「明日、行くのね」


「はい」


「そう」


 短い言葉なのに、その中にはいくつもの感情が混じっていた。

 寂しさ。

 心配。

 戸惑い。

 そして、もう止めないと決めた人間の諦めにも似た覚悟。


「昔ね」


 マルグリットがぽつりと口を開く。


「あなたがこんなふうに家を出る日が来るなら、それはきっと侯爵家へ嫁ぐ日だと思っていたわ」


 アリアは黙って聞いた。


「だから、私はずっと……あなたを“誰かの家へ綺麗に渡すため”の形でしか見られなかったのかもしれない」


 その告白は、遅い。

 遅いけれど、嘘ではない。


「でも今は違うのね」


 母はようやく娘を見る。


「あなたは明日、誰かの妻になるためではなく、自分が見たいものを見に行くために家を出る」


 その言葉に、アリアの胸の奥が静かに揺れた。


 そうだ。

 たしかにこれは、嫁入りではない。

 婚約の延長でもない。

 自分の足で、自分の望むものの方へ向かう出発なのだ。


「はい」


 小さく、しかしはっきりと答える。


 マルグリットはしばらく娘を見つめ、それから手元の小箱を開いた。


「これを持っていきなさい」


 差し出されたのは、小さな銀の栞だった。

 繊細な蔓草模様が彫られていて、飾りすぎず、けれど持つ人の手元を静かに整えるような品だ。


「これは……」


「私の母から譲られたものよ」


 アリアは目を瞬いた。


 そんな話を母から聞くのは、ほとんど初めてだった。


「若い頃、私は本なんてほとんど読まなかったけれど、それでもこれは“いつかきちんと文字を読む時が来たら使いなさい”と言われて渡されたの」


 母は少しだけ苦笑する。


「結局、私よりあなたの方がずっと似合うものになってしまったわね」


 その言い方がやわらかくて、アリアは何と言っていいか分からなくなる。


「お母様……」


「旅先で、今のあなたが本当に大事だと思う頁に挟みなさい」


 その一言で、もう十分だった。


 これはたぶん、母なりの餞別なのだ。

 見栄えのためでも、伯爵家の威厳のためでもない。

 読む人間である娘に向けた、初めての贈り物。


「ありがとうございます」


 そう言うと、マルグリットは少しだけ目を伏せた。


「無事に帰ってきて。それから、その先も……もう隠れなくていいわ」


 アリアは栞をそっと握りしめた。


 もう隠れなくていい。

 その言葉は、前にも別の形で聞いた。

 カイルからも、父からも。

 けれど母の口から出ると、また少し違う重みを持って届く。


「はい」


 その夜、自室へ戻る途中で、今度はベルナールに呼び止められた。


 書斎の前で立っていた父は、昼間と違って少しだけ疲れて見えた。ここ数日、王城とのやり取りも、侯爵家との整理も、伯爵家内の決断も、すべてを一気に引き受けていたのだから当然だろう。


「少しだけいいか」


「はい」


 書斎の中はいつも通り整っていた。

 机の上には今日最後に目を通していたらしい紙が残っている。

 ベルナールはそれを脇へよけると、アリアへ向かってひとつの封筒を差し出した。


「これは?」


「紹介状だ」


 開いてみると、隣国側での身分と滞在趣旨について、伯爵家当主として確認した内容がしたためられていた。簡潔だが、娘が“勝手に出歩く令嬢”ではなく、“伯爵家の了解のもとで臨時協力に赴く者”であると、はっきり書かれている。


「向こうで余計な説明をせずに済むようにしておいた」


 ベルナールはぶっきらぼうに言う。


「お父様が」


「ああ」


 アリアは封筒を両手で持ったまま、しばらく言葉を失った。


 父はずっと、家の中だけで自分を使ってきた。

 けれど今は、その家の外で自分が立てるように、こうして文を整えている。


 その変化を前にすると、簡単な言葉しか出てこない。


「ありがとうございます」


 ベルナールは目を逸らし、低く言う。


「向こうで何を見るかはおまえ次第だ。だが伯爵家の娘として行く以上、変に縮こまるな」


「はい」


「それから」


 父は一度言葉を切る。


「帰ってきたら、見たものを全部聞かせろ」


 その一言に、アリアは少しだけ笑った。


 それはたぶん、父なりの「待っている」の言い方なのだろう。


「はい。全部、話します」


 自室へ戻ると、机の上の旅先記録帳へ、母からもらった銀の栞をそっと挟んだ。革表紙の帳面に、その銀色は驚くほどよく似合った。


 しばらくそれを見つめてから、アリアは控え帳を開き、今夜のことを書き留める。


 ――母より銀の栞を受け取る。

 ――父より紹介状を受け取る。

 ――いよいよ明朝、出発。


 そこまで書いて、手が止まる。


 明朝、出発。

 本当にここまで来たのだ。


 婚約が白紙になり、王城が動き、隣国が待ち、伯爵家が送り出す。

 ほんの少し前まで、すべて想像の外側にあったことが、今は自分の明日になっている。


 寝台へ入っても、なかなか眠気は来なかった。

 緊張しているのだろう。

 けれどそれは、何かを失う前の緊張ではない。

 何かが始まる前の緊張だ。


 窓の外では、夜の風が静かに木々を鳴らしている。

 アリアは目を閉じながら、明日の道のりを思った。


 伯爵家の門。

 王都を出る石畳。

 国境へ向かう街道。

 そしてその先に待つ、まだ見ぬ原本の束。


 怖い。

 でも、後ろは向かなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ