第43話 見送りではなく、送り出される側になった日
出発まで、あと三日。
そう数字にすると短い。
けれど伯爵家の中では、その三日がひどく濃く流れていた。
昨日まで静かだった古書庫には、今やはっきりと「準備の場所」という空気がある。机の上には持参資料の束が整理され、目録札がつけられ、封蝋待ちの紙が脇に積まれている。王城からの確認文、隣国側との受け渡し書式、北方越境路の現場帳簿の抜き書き、自分で作った注記一覧。どれも今までは伯爵家の中で静かに読まれるだけのものだったのに、今はそれが外へ運ばれていく前提で整えられていた。
アリアは文机に向かいながら、何度もその不思議さを噛みしめていた。
自分は本当に行くのだ。
まだ見ぬ原本のある場所へ。
紙の続きを見に。
「お嬢様」
ローベルトが、新しく用意した小ぶりの木箱を机へ置いた。
「これは?」
「封印箱でございます。王城側からお預かりする控えと、お嬢様ご自身の記録を分けて入れられるように」
蓋を開けると、中は仕切りで三つに分かれていた。片方は公文用、片方は私的記録用、中央は予備。見た目は質素だが、細かいところまでよくできている。
「こんなものまで……」
「旅先で紙が混ざりますと厄介ですので」
ローベルトの説明は実務的だったが、その実務性自体が今のアリアには嬉しかった。
これはもう遊びでも、思いつきでもない。
きちんと仕事として整えられている。
箱の内側へ指を滑らせながら、アリアはふと思う。
少し前まで、自分の持ち物といえば控え帳と古い写本くらいだった。
それが今は、封印箱と旅先用記録帳を持って外へ出る。
人はこんな短い時間で、立っている場所が変わるものなのだろうか。
「まだ不思議でございますか」
ローベルトが問う。
「ええ」
「何が」
アリアは箱をそっと閉じる。
「皆が、私が本当に行く前提で話していること」
老執事は穏やかに目を細めた。
「少し前までは、行かぬ前提で話しておりましたからな」
「そうなのよね」
思わず苦笑する。
行くかどうかではなく、どう止めるか。
どう留めるか。
どう今まで通りに整えるか。
ずっとそういう空気だった。
今は違う。
持っていく紙の量も、護衛の手配も、王城への出発時刻も、全部が「行く」前提で組まれている。
その変化を自分の人生の中で本当に経験するとは、いまだに少し信じがたい。
そこへ、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。
扉が開き、セレナが顔を出す。
「お姉様!」
「どうしたの」
「お母様が、少し来てほしいって」
「今?」
「うん。衣装部屋の方に」
衣装部屋。
アリアは少しだけ首を傾げた。
「なぜ?」
「たぶん……旅の服のことだと思う」
なるほど、とすぐに察しがついた。
資料や日程や文言ばかりに意識が向いていたが、当然、旅支度というものには服もいる。アリアにとっては紙の方が大事でも、母にとってはそこを整えずに済ませるわけにはいかないのだろう。
「分かったわ」
古書庫を出て衣装部屋へ向かう途中、セレナがやけに嬉しそうに言った。
「お母様、朝からずっと布を見てるの」
「布?」
「向こうでお姉様が困らないように、って」
その一言に、アリアは少しだけ息を詰めた。
困らないように。
昔の母なら、「見栄えが悪くないように」や「伯爵家の娘らしく」から始まっただろう。
それが今は、困らないように、なのだ。
衣装部屋へ入ると、マルグリットはすでに数着のドレスと外套、それに旅用の簡素な服を広げていた。普段の夜会用とは違い、華やかさよりも動きやすさと品のよさを両立させたものばかりだ。
「来たわね」
「はい」
母は一着の濃紺の上着を取り上げた。
「隣国でどの程度まで外へ出るのか、まだはっきりしないでしょう? 原本を見るだけで終わるかもしれないし、現場の覚え書きまで見るなら、もう少し動きやすいものもいるわ」
その言い方に、アリアは目を瞬いた。
母はもう、自分が本当に向こうで“仕事をする”前提で服を選んでいるのだ。
「お母様」
「なに」
「ずいぶん現実的ですね」
マルグリットは手元の布を整えながら、少しだけ苦笑した。
「今さら夢見がちなことを言っても仕方ないでしょう」
その返しが少し可笑しくて、アリアは小さく笑う。
「そうですね」
「それに」
母はそこで、ふと娘をまっすぐ見た。
「あなたが行くのなら、中途半端な姿では行かせたくないの」
その言葉に、アリアは何も返せなかった。
中途半端な姿では行かせたくない。
それは体面だけの言葉ではない。
少なくとも今の母は、向こうで萎縮せず、侮られず、しかし過剰にもならず、アリアが自分らしく立てる形を探している。
「これと、これ」
マルグリットは深い青の上着と、落ち着いた灰青色のドレスを並べる。
「普段のあなたらしさを損なわず、それでいて旅先でも扱いやすいものにするわ。向こうで紙に向かう時も、王城や公爵様の前に出る時も、同じ一人の人間として見える方がいい」
アリアはその言葉を胸の中でゆっくりと繰り返した。
同じ一人の人間として。
服を選ぶ文脈の中で、母がそう言う日が来るとは思わなかった。
セレナが横から布に触れながら言う。
「お姉様、絶対こっちの方がいいわ。青が似合うもの」
「あなたは何でも青を勧めるわね」
「だって、本当にそうなんだもの」
妹の遠慮のない言い方に、場の空気が少しだけ和らぐ。
数着を選び終えたあと、マルグリットは侍女たちへ簡単な指示を出し、布を片づけさせた。以前のように「可愛らしく見えるもの」や「嫁ぎ先で恥をかかないもの」を中心に選ぶのではなく、「今のアリアが向こうで困らないもの」を最初に置いているのが、はっきり分かった。
衣装部屋を出る前、母が小さく言った。
「アリア」
「はい」
「私、まだ全部は慣れないわ」
「ええ」
「あなたが婚約者ではなくなることも、隣国へ行くことも、王城の方々と同じ言葉で話していることも」
その告白は、少し痛々しくもあった。
母の中で世界が変わり始めているのだろう。
「でも」
マルグリットは娘の肩へ視線を置く。
「慣れないからといって、もう昔のあなたへ戻ってほしいとは思わない」
アリアはゆっくり息を吸った。
昔の自分へ戻ってほしいとは思わない。
その一言は、遅すぎるけれど確かな肯定だった。
「ありがとうございます」
それしか言えなかった。
午後になると、王城から確認の使いが来た。
出発前日に最終面談を行うこと、持参資料の封印方法を再確認すること、隣国側との引き渡しは国境手前で行うこと。細かな実務が、次々と具体化していく。
そのたびにアリアは、今までの控え帳を見返しながら必要な紙を選び、抜き書きを足し、向こうで最初に確認したい論点をまとめていった。
その作業に没頭していると、時間が滑るように過ぎていく。
好きなのだ。
やはり、自分はこういうことが好きなのだと改めて思う。
何が必要かを見極め、順番を整え、向こうへ持っていくべきものを選び抜く。
これはもう、伯爵家の長女としてではなく、ひとりの読む者としての準備だった。
夕方近く、ベルナールが古書庫へやって来た。
父がこの部屋へ来ること自体、今ではもう珍しくなくなっている。
それが少し不思議で、少し嬉しい。
「進んでいるか」
「はい。王城側へ渡す控えは大体まとまりました」
アリアが目録を差し出すと、ベルナールはざっと目を通し、低く唸った。
「……本当に、服より紙の方が多いな」
「言いましたでしょう?」
思わずそう返すと、父はほんの少しだけ口元を緩めた。
そして、机の端に置かれた革表紙の記録帳へ目を留める。
「それは」
「旅先用です」
「そうか」
ベルナールはしばらく帳面を見つめ、それから静かに言った。
「埋めてこい」
アリアは顔を上げる。
「お父様」
「中途半端なまま戻るな。おまえが見に行くと決めたなら、向こうで見つけたものを全部持ち帰れ」
それは父なりの送り出し方だったのだろう。
愛情深い言葉ではない。
でも、今の自分には十分すぎるほどまっすぐ届いた。
「はい」
深く頷く。
窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄れていく。
古書庫の中には紙の匂いと、整えられた資料と、これから埋まっていくはずの記録帳がある。
出発準備は、確かに忙しい。
けれどその忙しさの一つひとつが、ただ外へ出るだけではなく、自分が本当に選ばれたのではなく、自分で選んだ道の上に立っている証のように思えた。




