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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第42話 出発準備は、彼女が本当に選ばれた証になる

 伯爵家で「行きなさい」という言葉が出てから、屋敷の空気は目に見えて変わった。


 それまでの数日は、すべてが揺れていた。

 婚約はどうなるのか。

 王城はどこまで関与するのか。

 隣国の招きは本気なのか。

 侯爵家は何を止めようとしているのか。

 誰もが半歩ずつ踏み込みながら、しかし最後の一歩は出せずにいた。


 けれど今は違う。


 まだ日程は最終確定していない。

 王城との細かな文言調整も残っている。

 隣国側との受け渡し書式、滞在中の名目、護衛の人数、持参資料の目録――決めるべきことは山ほどある。


 それでも屋敷の中では、もう「行くかどうか」ではなく、「どう行くか」の話になっていた。


 その違いは大きかった。


 朝の古書庫で、アリアは机いっぱいに広げられた紙を見下ろしていた。


 右側には北方越境路関係の控え帳。

 中央には旧協定の写しと、自分が抜き出した注記一覧。

 左側には伯爵家で保管されていた関連目録と、王城側から届いた確認項目。


 さらにその奥に、ローベルトが用意した新しい革表紙の帳面が一冊置かれている。


「それは?」


 アリアが尋ねると、老執事は穏やかに答えた。


「旅先用の記録帳でございます」


「旅先用」


「はい。向こうでご覧になったこと、お感じになったこと、原本と写しの差異、現場の覚え書き、すべてをその場でお書き留めになれるように」


 その一言が、思った以上に胸へ沁みた。


 旅先用。

 つまり本当に、自分は行くのだ。

 家の中の机に向かって待つのではなく、外へ出て、自分の目で見て、自分の手で書く。


 革表紙の帳面へ指先を置く。

 まだ何も書かれていない。

 真新しく、少しだけ硬い感触。


「ありがとうございます」


「お嬢様ご自身で埋めていかれるのがよろしいかと」


 アリアは小さく笑った。


「責任重大ね」


「左様でございます」


 ローベルトは少しも冗談めかさなかった。


 その通りなのだろう。

 これはもう、誰かの添え物ではない。

 自分の名で呼ばれ、自分の意思で行く以上、その先の記録もまた自分の責任で持ち帰ることになる。


 その重さが、今のアリアには不思議と心地よかった。


 古書庫の扉が控えめに叩かれ、セレナが顔を覗かせた。


「入ってもいい?」


「ええ」


 妹は中へ入るなり、机の上の紙の量に目を丸くする。


「すごい……本当に全部持っていくの?」


「全部ではないわ。必要なものだけ選ぶの」


「それでも多い」


 セレナは文机の端に並んだ控え帳を覗き込み、少しためらいがちに言った。


「ねえ、お姉様。わたくし、前は“旅の準備”って、服とか靴とか、そういうものを思い浮かべていたの」


「普通はそうでしょうね」


「でもお姉様の場合、紙なのね」


 その言い方が可笑しくて、アリアは少し笑った。


「ええ。たぶん一番大事なのは、そこ」


 セレナは机の上の帳面を眺めながら、どこか感心したように呟く。


「なんだか、ようやく分かる気がする」


「何が?」


「お姉様が行くのって、どこかへ遊びに行くとか、偉い人に会いに行くとか、そういうのじゃないんだってこと」


 アリアは妹を見る。


「うん」


「紙の続きを、見に行くのね」


 その一言に、胸の奥がやわらかくなった。


 紙の続きを見に行く。

 たぶん、それがいちばん正確だ。


 隣国へ行くのは、遠い世界へ飛び込むためではない。

 今まで読んできた文の続き、途中で切られてしまった意味の先を、自分の目で確かめに行くのだ。


「……そうね」


 静かに頷く。


「紙の続きを見に行くの」


 セレナは嬉しそうに笑った。

 その笑顔には、以前のような無邪気なだけの明るさとは違う、少しだけ理解を得た人間の温度があった。


 昼前になると、執務室へ呼ばれた。


 今度はベルナールだけでなく、マルグリットも最初から席についている。机の上には王城からの書式案、隣国側の受け入れ確認、そして伯爵家内の準備一覧。


 もう完全に、出発準備の机だ。


「座りなさい」


 言われるまま座ると、ベルナールが紙を一枚差し出した。


「日程案だ」


 アリアは目を通す。


 出発は四日後。

 王城での最終確認を挟み、翌朝伯爵家を発ち、途中一泊を経て隣国側の迎えと合流。

 滞在は五日間を基本とし、必要に応じて一日延長可。


 思っていたよりも、ずっと具体的だった。


「そんなに早いのですね」


「王城と隣国側がこれ以上引き延ばしたくないらしい」


 ベルナールの声音は実務一色だが、その奥にはわずかな緊張が残っていた。


「侯爵家からは、もう異議は」


「表向きは取り下げた」


 父の返答に、アリアは小さく息をついた。


 もちろん、内心で納得しているとは限らない。

 けれど少なくとも、もう婚約を理由に足を止める動きはしない、ということだ。


 マルグリットが別の紙を示した。


「滞在中の肩書きの件だけれど」


 そこには、王城側が提案した名目が並んでいた。


 北方越境路旧協定整理に伴う臨時協力者。

 やはり少し硬い。

 けれど今の状況にはよく合っている。


「あなた自身は、この呼び方でいいの?」


 母に問われ、アリアは少し考えた。


 令嬢、でもなく。

 婚約者、でもなく。

 “臨時協力者”。


 聞こえは事務的だ。

 でも今の自分には、それがむしろしっくりくる気がした。


「はい」


 頷く。


「今はそれで十分です」


 ベルナールもマルグリットも、小さく頷いた。


 そして次に渡されたのは、持参品目録だった。

 衣類、旅装、常備薬、護衛用の手配、王城提出用の封印ケース。

 そして別枠で、資料類と記録帳。


 ここまで来ると、さすがに現実感が増してくる。


 自分は本当に、屋敷の外へ出て、伯爵家の長女としてではなく、自分の仕事を持つ者として隣国へ向かうのだ。


「……お父様」


「なんだ」


「ここまで具体的になると、少しだけ怖いです」


 思わず本音が漏れる。


 ベルナールは意外にもすぐには否定しなかった。


「当然だろう」


 低い声。


「怖くない方がおかしい」


 その返事に、アリアは少しだけ肩の力が抜ける。


 強がる必要はないのだ。

 怖いままでも、進める。


「でも」


 マルグリットが静かに言葉を継ぐ。


「怖いと言いながらも、あなたのお顔は前へ向いているわ」


 その指摘に、アリアは少し照れたような気持ちになる。


「そう見えますか」


「ええ」


 母は穏やかに答える。


「昔なら、怖い時ほど先に“やめてもいいですか”と聞く顔をしていたもの」


 その言い方があまりに正確で、アリアは苦笑した。


 たしかにそうだった。

 怖い時ほど、自分の望みを引っ込める方へ逃げていた。

 でも今は違う。

 怖くても、行きたい気持ちの方がちゃんと残る。


「それにしても」


 ベルナールが持参資料の目録を見ながら言う。


「これだけの紙を持っていく娘を見送ることになるとはな」


 その一言に、三人とも少しだけ笑ってしまった。


 重たい話が続いていたからこそ、そのわずかな笑いがやけに温かかった。


「服より紙の方が多いかもしれません」


 アリアが言うと、マルグリットが呆れたように、でもどこか誇らしげにため息をつく。


「本当に、昔から変わらないのね」


「変わらない?」


「ええ。あなたは昔から、飾り箱より帳面の方を大事そうに抱えていたわ」


 その言葉に、アリアはふと微笑んだ。


 変わらないのだ。

 急に別人になったわけではない。

 昔からそこにあったものが、ようやく表へ出る形になっただけ。


 夕方、古書庫へ戻ると、文机の上に新しい封筒が置かれていた。


 レオンハルトからだった。


 開くと、今回も短い。


 ――出発日程の案を確認しました。

 ――あなたが来る日に合わせ、最初に見るべき束から順番に整えておきます。

 ――道中で不安が生じたなら、そのまま持って来てください。隠さずに。


 最後の一文に、アリアの胸が静かに揺れた。


 不安を隠さずに。

 以前のカイルなら言わなかった言葉だ。

 侯爵家も伯爵家も、ずっと「平気なふり」を自然に求めてきた。

 でもこの人は、そこまで含めて持って来いと言う。


 それが嬉しくて、少しだけ困る。


「……本当に、待っているのね」


 小さく呟く。


 待っている。

 でも迎えに来るわけではない。

 最後の一歩は、あくまでこちらが踏み出すべきものだと分かっている。


 その距離感が、今のアリアには何よりありがたかった。


 帳面を開き、彼女は今日の分の準備を書き留める。


 ――出発日程案、四日後。

 ――肩書きは臨時協力者。

 ――持参資料の整理開始。

 ――もう未来の話をしてもよい。


 最後の一文を書いたところで、アリアはふと手を止めた。


 未来の話。

 それは少し前まで、自分には縁のないものだった。

 けれど今は違う。

 婚約の先に用意されていた形ではなく、自分が選んで歩く形として、ようやく話せる。


 古書庫の窓の外では、夕暮れの光がゆっくりと薄れていく。

 その静けさの中で、アリアははっきり思った。


 出発準備がこんなにも落ち着いて進むのは、自分が本当に選ばれたからではない。

 自分で選んだ道に、ようやく周りが追いついてきたからなのだと。

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