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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第41話 白紙になったあとで、ようやく未来の話ができた

 婚約白紙の文書交換が済んだ翌日、伯爵家の朝は不思議なほど穏やかだった。


 嵐が去ったあとの静けさ、とは少し違う。

 何かが壊れて散らばったあとの静寂ではなく、長いあいだ閉じたままだった扉がようやく開き、その向こうから新しい空気が流れ込み始めた朝のようだった。


 アリアは目を覚ました瞬間、自分の胸の内側が昨日よりも軽いことに気づいた。


 もちろん、すべてが解決したわけではない。

 隣国訪問の日程はまだ確定していない。

 王城との調整も残っている。

 社交界への説明も、伯爵家としての立ち回りも、侯爵家との今後の距離も、全部がこれからだ。


 それでも、たしかに一つ終わったのだ。


 婚約者だから。

 侯爵家へ入る身だから。

 その一言で、自分の進みたい方向を最初から狭めていた前提が。


 今朝はそのことを、痛みよりも静かな安堵として感じていた。


 支度を終え、自室の扉を開けると、廊下の窓から柔らかな朝の光が差し込んでいた。庭の木々の先にはまだ昨夜の雨粒が残っていて、光に薄くきらめいている。


「お嬢様」


 マリーが待っていた。


「おはようございます」


「おはよう」


「旦那様が、朝食のあと古書庫へ来るようにと」


 古書庫へ。


 それだけでアリアは少しだけ目を瞬かせた。

 執務室ではなく、古書庫。

 父が自分を呼ぶ場所として、その部屋を指定するなど以前なら考えられなかった。


「何かあったの?」


「詳しくは伺っておりません。ただ、王城からの新しい文と、隣国側の使いが朝早くに届いているそうです」


 やはり動きは早い。

 婚約白紙が整った以上、次はもう隣国訪問そのものの具体化だろう。


「分かったわ」


 食堂へ向かう足取りは、自分でも少し驚くほど軽かった。

 無邪気に浮かれているわけではない。

 けれど、これから話されることが“婚約をどう守るか”ではなく、“自分がどう進むか”の話になるのだと思うと、それだけで息がしやすくなる。


 食堂には父ベルナールと母マルグリット、そしてセレナがいた。


 空気は静かだ。

 だが前のような「何か言ってはいけないものがある」沈黙ではない。

 皆が同じ方向を見ながら、まだ言葉にする前の段階で待っているような沈黙だった。


「おはようございます」


 アリアが頭を下げると、ベルナールは新聞を置いて言った。


「おはよう」


 その声には、ここ数日の険しさが少しだけ薄れている。


 マルグリットも穏やかに頷いた。


「昨夜は眠れた?」


「前よりは」


「そう」


 短いやり取り。

 けれど、今はそれだけで十分だった。


 セレナは少しだけ身を乗り出すようにして姉を見た。


「お姉様」


「なに?」


「今日のお顔、昨日よりやわらかい」


 思わずアリアは小さく笑ってしまった。


「そうかしら」


「うん」


 セレナは真剣に頷く。


「前は、大丈夫そうに見えても、どこかずっと固かったもの」


 その言葉が、思ったより深く胸に入る。

 妹は今、本当にこちらを見ているのだ。


 朝食は穏やかに進んだ。

 伯爵家の三人も、今日は婚約の話そのものにはほとんど触れなかった。

 代わりに、ベルナールが最後にだけ言った。


「食後、古書庫へ」


「はい」


 古書庫へ入ると、すでにローベルトが机の上を整えていた。

 文机には三通の紙が並んでいる。


 一つは王城から。

 一つは隣国側から。

 そしてもう一つは、伯爵家内の目録らしい。


 ベルナールとマルグリットもほどなくして入ってきた。

 父が古書庫へ来ること自体、やはりまだ少し不思議だ。

 だが今の彼は、この部屋が“娘の趣味の場所”ではなく、“すでに動いている中心”だと知っている。


「これを読め」


 ベルナールが王城からの文を差し出す。


 アリアは受け取り、目を通した。


 内容は簡潔だった。


 ――婚約整理が整ったことを受け、王城としてはアリア・ウェルグラン嬢の隣国訪問に関する実務調整を次段階へ進める。

 ――訪問目的は北方越境路旧協定原本・草案群照合、ならびに現場覚え書きとの照合作業。

 ――滞在期間は仮に五日から七日を想定。

 ――伯爵家として異議がなければ、日程調整に入る。


 読み終えた瞬間、胸の奥が静かに熱くなる。


 次段階。

 想定滞在期間。

 日程調整。


 もう“行くかどうか”の議論ではない。

 行く前提で、具体的な段取りが書かれている。


「隣国側は?」


 アリアが問うと、ベルナールはもう一通を指した。


 そちらは短い。

 だが、読む前からレオンハルトの文だと分かった。


 ――準備は整えられる。

 ――あなたが読むべきものは、こちらで順を追って見られるよう整理しておく。

 ――急がせるつもりはないが、迷いを引き延ばすために時間を使うつもりもない。

 ――来るなら、こちらは迎える。


 最後の一文で、アリアは思わず唇を引き結んだ。


 迎える。


 それは甘くも熱くもない。

 けれど、ひどく真っ直ぐで、逃げ道を作らない言葉だった。


「……ずいぶん簡潔ですこと」


 マルグリットが呟く。


 ベルナールは苦く笑う。


「だが十分だろう。曖昧さがない」


 たしかに、その通りだった。


 マルグリットが娘を見た。


「アリア」


「はい」


「今、改めて聞くわ」


 母の声は静かで、以前のような上からの硬さがなかった。


「あなたは本当に行きたいのね」


 何度も聞かれてきた問い。

 でも今は、その意味が違う。


 今までは希望の確認だった。

 今はもう、現実の最終確認だ。


「はい」


 アリアは迷わず頷く。


「行きたいです」


 言葉が、以前よりずっと軽く口を出た。

 それは望みが軽くなったからではない。

 もう、自分の中で揺らぐ余地が少なくなったからだ。


 ベルナールが低く問う。


「理由は変わらぬか」


「変わりません」


「原本と草案を見るため」


「はい。それと……」


 アリアは少しだけ言葉を探した。


「今の私は、あの婚約がなくなったことで、ようやく自分が何をしたいのかを、余計な言い訳なしに考えられる気がするのです」


 古書庫が静まり返る。


 マルグリットが微かに目を伏せる。

 ベルナールも何も言わない。


 けれど、その沈黙は否定ではなかった。


 アリアは続ける。


「婚約があった時は、どこかでいつも考えていました。これは侯爵家にどう見えるだろう、婚約者としてどう振る舞うべきだろう、と」


「……そうだろうな」


 ベルナールが低く言う。


「でも今は、そうではなくていい」


 言葉にしながら、自分でその自由の大きさに気づく。


「だから、ようやく未来の話ができます」


 未来の話。

 それは今までのアリアにとって、あまりに遠い言葉だった。


 侯爵家へ嫁ぐ未来。

 静かな妻として置かれる未来。

 そういう“決められた形”ならあった。

 でも、自分が何を読み、何を知り、どこへ行きたいのかを軸にした未来は、これまで一度も話せなかった。


 今は違う。


 マルグリットがそっと息を吐いた。


「それを聞くと……」


 少しだけ笑う。寂しさを含んだ笑みだ。


「婚約が終わったことを悲しむより、やっとそう言えるようになったあなたを見てしまうのよね」


 アリアは何も言えなかった。


 母が自分の未来をそういう言い方で受け止める日が来るとは思わなかったからだ。


 ベルナールが机上の目録を指した。


「こちらは、隣国へ持っていくべき控えの整理だ」


 アリアが目を向けると、そこには伯爵家で積み上げてきた関連資料の一覧が、驚くほど整然とまとめられていた。


「お父様が?」


「いや、ローベルトと私でだ」


 ローベルトが穏やかに目を細める。


「お嬢様が向こうで必要とされそうなものを先に抜き出しておきました」


 その一言で、現実がまた一段具体的になった。


 持っていく資料。

 滞在日数。

 王城との調整。

 公爵側の受け入れ準備。


 もう本当に、出発の準備が始まりつつあるのだ。


「ねえ、お父様」


 アリアが静かに尋ねる。


「なに」


「本当に、行ってもよいのですね」


 それは今さらの問いにも思えた。

 だが、どうしても父の口からもう一度はっきり聞きたかった。


 ベルナールはしばらく娘を見ていた。


 そして、ゆっくりと言った。


「行きなさい」


 たった四文字。


 それだけなのに、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。


「おまえが今まで積み上げたものを、ここで止める理由はもうない」


 アリアは息を止めた。


 父がそう言う。

 家の都合ではなく。

 体面でもなく。

 積み上げたものを止める理由はない、と。


「ただし」


 ベルナールは少しだけ口元を引き締める。


「行った先で、もう誰かに隠れて読むな。おまえの名で呼ばれるなら、その責任も引き受けろ」


「はい」


 アリアは深く頷いた。


 隠れて読むな。

 それはたぶん、父なりの送り出し方なのだろう。


 マルグリットが立ち上がり、娘のそばへ来た。


 少しだけためらってから、彼女はアリアの肩へそっと手を置く。


「無事で帰ってきなさい」


 昔の母なら、もっと別の言い方をしたかもしれない。

 家の名を汚さないように、とか。

 隣国で軽はずみなことをしないように、とか。


 けれど今は違う。


 無事で帰ってきなさい。

 その言葉に、母の不器用な愛情がようやく形を取った気がした。


「はい」


 それしか言えなかった。


 セレナはその後で古書庫へ駆け込んできて、事情を聞くなり声を上げた。


「本当に行くのね!?」


「ええ」


「もう決まったの?」


「日程はこれからだけれど、伯爵家としてはそういうことになるわ」


 妹は一瞬だけ驚きに目を見開き、それから次の瞬間には、なぜか少しだけ誇らしそうに胸を張った。


「じゃあ、見送りは絶対わたくしがする」


 思わずアリアは笑ってしまう。


「前にも言っていたわね」


「今度は本気よ」


 セレナは真剣に言う。


「だってお姉様、もう“どこにも行かない人”じゃないもの」


 その一言が、今の自分のすべてを言い表しているように思えた。


 どこにも行かない人。

 ずっとそうだった。

 家の中にいて、書庫にいて、必要な時だけ呼ばれる人。


 でももう違う。


 アリアは古書庫の窓際へ歩み寄った。

 春の光が棚の端に差し込み、机の上の紙をやわらかく照らしている。


 婚約は白紙になった。

 失ったものもある。

 でもそれ以上に、ようやく未来の話ができる。


 次は、出発の準備だ。

 そしてその先には、まだ見たことのない原本と草案群が待っている。


 心の奥で、新しい出発の音が静かに鳴っていた。

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