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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第40話 白紙の報せと、新しい出発の音

 婚約白紙の方向でまとまった翌朝、伯爵家の空気は妙に整いすぎていた。


 嵐の翌日に、無理やり部屋を片づけたような静けさだった。

 使用人たちはいつも通りに動いている。廊下は磨かれ、窓は開け放たれ、食堂には湯気の立つ紅茶と焼きたてのパンが並ぶ。けれど、そのどれもが少しだけ慎重で、少しだけ音を抑えている。


 皆、知っているのだ。


 まだ正式な文面は整っていない。

 社交界へも発表されていない。

 けれど、伯爵家の長女とローデン侯爵家嫡子の婚約が、実質的に終わろうとしていることを。


 そしてそれが、ただの破談ではなく、アリアという存在が前へ出た結果として起きたことなのだということも。


 アリアはその朝、珍しく目覚めがすっきりしていた。


 深く眠れたわけではない。むしろ夜の途中で何度か目が覚めた。婚約のこと、昨日の客間のこと、カイルの最後の言葉、父母の沈黙、いろんなものが夢の縁を掠めていった気がする。


 それでも起きた時、胸の奥には奇妙な静けさがあった。


 終わるものは終わる。

 そして終わったあとにも、自分はちゃんとここにいる。

 その当たり前が、今朝は以前よりずっとはっきりしていた。


 鏡台の前で髪を整えていると、マリーが控えめに言った。


「お嬢様、旦那様より、朝食後すぐ執務室へとのことです」


「ええ」


「それから……ローデン侯爵家より、正式な文案が届いているそうです」


 ついに来たのだ。


 婚約白紙の文案。

 昨日の場でほぼ合意したとはいえ、それが紙になった時、初めて本当に現実になる。


「分かったわ」


 深い青のドレスを選びながら、アリアはほんの少しだけ指先を止めた。


 この色を選ぶことが、今の自分には自然になっている。

 侯爵家の好む、柔らかく愛らしい色ではない。

 けれど、自分が一番落ち着いて呼吸できる色だ。


 昔の自分なら、こういう場ほど「少しでも婚約者らしく見えるように」と別の色を選んだかもしれない。

 今はもう、そうしない。


 朝食の席は静かだった。


 ベルナールはいつもより新聞を読む手が遅く、マルグリットは茶器の持ち方に気を配りすぎているように見えた。セレナは明らかに何か言いたげだったが、場の空気を読んで黙っている。


 アリアが席につくと、父が短く言った。


「食後、すぐに来なさい」


「はい」


 母が一度だけ娘を見た。

 その視線には、昨日までの戸惑いだけではなく、少しの痛ましさもあった。

 おそらく彼女も、婚約が本当に白紙へ向かうことを、今朝になって改めて実感しているのだろう。


 セレナだけが、パンをちぎる手を止めて小さく頷いてみせた。

 その仕草が妙に心強い。


 食後、執務室へ入ると、机の上には二通の文書が並んでいた。


 一つはローデン侯爵家からの正式文案。

 もう一つは伯爵家側で整えた確認文案らしい。


 ベルナールとマルグリットはすでに着席している。

 そして、空いている椅子が一つ。


 アリアは何も言われる前にその席へ向かい、静かに腰を下ろした。

 その自然さに、自分でも少し驚く。

 もう“座ってよいか”を確かめなくていいのだ。


「読め」


 ベルナールが侯爵家からの文案を差し出した。


 アリアは両手で受け取り、目を通す。


 文面は整っていた。いかにも侯爵家らしく、余計な感情を排し、家格を損ねないよう慎重に組み立てられている。


 ――ローデン侯爵家とウェルグラン伯爵家の間で交わされていた婚約について、双方協議の結果、現時点では将来の形を定めぬまま白紙に戻すことが適切であると判断した。

 ――本件は不和や不祥事によるものではなく、両家子女それぞれの今後の立場と活動の広がりを踏まえ、従前の約定を一旦解くことを双方が認めたものである。


 そして最後に、こうあった。


 ――アリア・ウェルグラン嬢の今後の公的・実務的活動について、ローデン侯爵家は妨げる意図を有しない。


 その一文に、アリアの視線が止まった。


 妨げる意図を有しない。


 少し硬い。

 いかにも侯爵家らしい。

 けれどその文言が入っていること自体は、大きな意味を持っていた。


 婚約白紙は単なる解消ではない。

 今後の自分の動きに対して、侯爵家が少なくとも表向きには口を差し挟まないと明記することでもある。


「どうだ」


 ベルナールが問う。


 アリアは少し考えた。


「大筋では問題ありません」


「大筋では?」


「最後の一文が少しだけ気になります」


 父の眉が動く。


「どこが」


「“妨げる意図を有しない”だと、今後侯爵家が何らかの懸念や異議を示す余地を残しすぎています」


 マルグリットが静かに息をつく。


「やはり、そこを見るのね」


「見ます」


 アリアは素直に答える。


「今の私にとって、そこは一番大事な部分ですから」


 ベルナールは文案を受け取り、該当箇所を読み返した。


「なら、どう直す」


 その問いには、もう迷いがなかった。

 父は今、本気で自分の意見を聞いている。


「“尊重する”の方がいいと思います」


「尊重する?」


「はい。妨げない、では消極的です。今後の活動について、侯爵家が少なくとも一人の当事者として認め、口実に使わないと分かる形にした方がよいです」


 マルグリットがゆっくり頷く。


「たしかに、その違いは大きいわね」


「侯爵家が受けるかは分からんぞ」


 ベルナールが言う。


「ええ。でも、ここで曖昧にしておくと、今後また“婚約は白紙にしたが”という別の形で揺さぶられる可能性があります」


 自分でも、驚くほど静かな声だった。


 破談の場にいるというのに、悲しさや悔しさに飲み込まれていない。

 むしろ今は、その先をどう整えるかの方へ意識が向いている。


 それこそが、今回の婚約白紙が「喪失」よりも「解放」に近く届いている証なのかもしれなかった。


 ベルナールは少し考え、それから頷いた。


「分かった。そこは修正を入れる」


 羽ペンを取り、文案の余白へ赤線を引く。

 その動きを見ながら、アリアは改めて実感する。


 婚約を続けるかどうかを、父が自分と一緒に文面で詰めている。

 昔ならありえないことだ。


「それから」


 アリアは少し迷ったが、もう一つ口にした。


「もし可能なら、“本人の意思を踏まえ”という一文も入れたいです」


 マルグリットが顔を上げる。


「そこまで?」


「はい」


「どうして」


 その問いに、アリアは少しだけ目を伏せた。


「今までの私は、婚約の話で当人であっても当人ではありませんでした。だから最後に、これは両家だけでなく、私自身の意思も踏まえた整理だと、ちゃんと残したいのです」


 言い終えると、しばらく誰も言葉を挟まなかった。


 やがてベルナールが、低くしかしはっきりと言った。


「入れよう」


 その一言だけで、胸の奥がじんと熱くなる。


 父は今、婚約白紙の文書に「本人の意思」を残すと認めた。

 昔の伯爵家では考えられないことだった。


 修正文案を詰め終えたところで、ローベルトが新しい封筒を持って入ってきた。


「旦那様、隣国側より短い使い文が」


 ベルナールが受け取り、目を通す。

 そして一瞬だけ目を細め、アリアへ差し出した。


「読め」


 短い文だった。


 ――正式な決着を急がせる意図はありません。

 ――ただ、あなたが不要な足止めを受けないよう、こちらでも受け入れ準備を整えておきます。

 ――必要であれば、訪問時期の前倒しも可能です。


 レオンハルトからだろう。

 署名は控えめだが、言葉の選び方で分かる。


 不要な足止めを受けないように。

 その一文を読んだ瞬間、アリアの胸の奥が静かに揺れた。


 彼はやはり、分かっているのだ。

 婚約白紙という整理が、ただの社交上の手続きではなく、自分の足を止めないために必要なことでもあると。


「……急がせるつもりはないのね」


 マルグリットが呟く。


「ええ」


 アリアは小さく頷く。


「でも、待つだけでもない」


 ベルナールが短く息を吐く。


「厄介なくらい、筋が通っておる」


 その言い方に、アリアは思わず少しだけ笑ってしまった。


 たしかにその通りだ。


 急かされない。

 けれど流れも止められない。

 そのやり方は、優しいようでいて、こちらに曖昧さを許さない。


 午後のうちにローデン侯爵家との文言調整はまとまり、夕刻には正式な文書交換が済んだ。


 婚約白紙。

 双方合意。

 本人の意思を踏まえた整理。

 今後の活動を尊重すること。


 文面として見れば、驚くほど淡々としている。

 けれどその一行一行の裏に、ここ数日の揺れと、遅すぎる理解と、ようやく言葉にされた意思が積み重なっていた。


 夕方、古書庫へ戻ったアリアは、窓際の机にひとり座った。


 外の光は少しずつ傾き、棚の影が長くなっている。

 机の上には婚約白紙の控えが置かれていた。


 それを見つめながら、彼女は自分の中を確かめる。


 泣きたいわけではない。

 怒っているわけでもない。

 むしろ、奇妙なくらい澄んでいる。


 失った。

 それは事実だ。

 でも同時に、取り戻したものもある。


 自分の席。

 自分の名。

 自分の意思。

 そして、自分の足で進むための余白。


「お嬢様」


 ローベルトが温かい茶を置く。


「一区切り、でございますな」


「ええ」


 アリアは微笑んだ。


「一区切り」


「お辛うはございませんか」


 その問いに、彼女は少しだけ考えた。


「辛くないわけではないわ」


 正直に答える。


「でも、それ以上に、軽いの」


「軽い、でございますか」


「ええ。前はずっと、婚約という形に守られていると思い込もうとしていたの。でも本当は、あれに自分を合わせ続ける方が、ずっと重かったのかもしれない」


 ローベルトは静かに頷いた。


「左様でございましたか」


「今はまだ、全部を言い切れるほど整理できていないけれど……」


 アリアは婚約白紙の文書へ視線を落とす。


「喪失というより、解放に近い気がするの」


 それが、今の自分に一番近い言葉だった。

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