第37話 婚約を続ける理由は、もう誰の中にも残っていなかった
ローデン侯爵家から正式な面談申し入れが届いたと聞いた時、アリアは驚くより先に、やはり、と思った。
古書庫の机に広げていた控え帳の上へ、午後の光が細く落ちている。窓の外では風が枝を揺らし、乾いた葉擦れの音がかすかに聞こえていた。どこまでも静かな部屋だ。けれど、その静けさの中へ入ってきた「婚約関係の今後について、当人同席のうえで話し合いたい」という言葉は、まるで細い刃のように真っ直ぐだった。
ついに、そこへ来たのだ。
隣国行きを止める。
王城の判断を押し戻す。
婚約を盾にして時間を稼ぐ。
そうしたやり方が、もう十分には通じないと分かったからこそ、侯爵家は婚約そのものの話へ移ってきたのだろう。
「いつですか」
アリアが尋ねると、ローベルトは手元の紙へ目を落とした。
「明日、午後。場所はローデン侯爵家本邸でございます」
伯爵家へ来るのではなく、向こうの本邸で。
その一点だけでも、侯爵家がこの面談を“主導権を握る場”として扱いたいのだと分かる。婚約をどうするかという話を、あくまで侯爵家の土俵で進めたいのだ。
けれど今のアリアは、そのこと自体にはあまり動じなかった。
以前なら、あの家へ行くと思うだけで胸が重くなっただろう。
華やかで整いすぎた玄関。磨き上げられた廊下。侯爵家の人々の、何気ない所作の一つひとつに滲む「こちらが上だ」という空気。
そこへ婚約者として入るたび、自分だけが場違いな気がして、呼吸の仕方まで忘れそうになった。
でも今は違う。
あの家へ行くとしても、ただ婚約者として頭を下げに行くのではない。
自分の婚約がどう扱われるかについて、当人として席につくために行くのだ。
「お父様には」
「すでに」
ローベルトが静かに答える。
「旦那様は今、奥様とお話し中です。お嬢様にも、少しあとで執務室へ来てほしいとのことでした」
「分かりました」
ローベルトが去ったあと、アリアはしばらく席を立てなかった。
ついに、婚約を続けるかどうかの話になる。
しかも、侯爵家本邸で。
そこへ自分も同席する。
怖くないわけがなかった。
だが、それでも以前とは違う。
前の自分なら、「もし破談になったら」と考えることそのものが恐ろしくて、婚約が続くなら多少のことは飲み込もうとしただろう。
婚約を失うことは、自分の価値が完全に否定されることと、ほとんど同じに思えていたから。
けれど今は、その図式が崩れている。
王城が必要と言った。
隣国が待つと言った。
伯爵家も、もう以前のままではいられないと認めた。
そして何より、自分自身が、婚約より先に大切にしたいものを知ってしまった。
「……婚約がなくなったら、終わりではないのね」
そう呟くと、胸の奥に静かな実感が広がった。
むしろ逆かもしれない。
婚約が当然の前提ではなくなったからこそ、ようやく自分の人生が自分のものとして見え始めている。
執務室へ向かうと、父ベルナールと母マルグリットは、いつもの机を挟んでではなく、応接用の長椅子の側に座っていた。紙は何枚か広げられていたが、今は仕事の机の顔ではない。家の話をするための顔だ。
「座りなさい」
ベルナールに言われ、アリアは向かいへ腰を下ろす。
短い沈黙のあと、父が切り出した。
「明日の面談についてだが」
「はい」
「伯爵家としては、おまえを同席させる」
すでにローベルトから聞いていたことではある。
それでも、父の口から正式に言われると重みが違う。
「ありがとうございます」
「礼を言う話ではない」
そう言いつつ、ベルナールはわずかに視線を逸らした。
昔の彼なら、本当にそう思っていただろう。
だが今は少なくとも、「当人を外して決めるのが当然ではない」と分かり始めている。
マルグリットが静かに言う。
「向こうはおそらく二つの線で来るわ」
「二つ?」
「一つは、婚約の維持を前提にしつつ、条件をつける線。もう一つは……」
そこで母は少し言葉を区切った。
「婚約を見直す線」
その一言は、やはり胸へ重く落ちた。
見直す。
破棄、とまだはっきり言わないところが、いかにも侯爵家らしい。
だが意味は十分に明らかだ。
「お父様は、どうお考えですか」
アリアが問うと、ベルナールはゆっくりと答えた。
「侯爵家が婚約維持に条件をつけてくるなら、その条件次第だ」
「どういう条件であれば」
「おまえの隣国行きを実質的に止めるものなら、受けられん」
アリアは思わず父を見た。
そこまで明確に言うとは思っていなかった。
ベルナールは娘の視線を受け止め、低く続ける。
「今の状況でおまえを無理に留めれば、王城とも隣国とも齟齬が出る。それだけではない」
「それだけでは、ない?」
父はほんのわずかに息を吐いた。
「おまえ自身が納得せんだろう」
その言葉に、アリアはしばらく返事ができなかった。
納得しない。
父が今、自分の気持ちをそういうものとして扱っている。
都合でも感情の揺れでもなく、判断の前提の一つとして。
「……はい」
ようやくそれだけ言うと、マルグリットが娘を見た。
「あなたは、どうしたいの」
その問いは何度目だろう。
けれど以前と違うのは、今のアリアがもうその答えを濁さないことだった。
「もし婚約を続けるなら」
ゆっくりと口を開く。
「それは、私がこの先も自分の意思で動けることが前提です」
ベルナールもマルグリットも黙って聞いている。
「隣国へ行くことも、今後読むべきものを読むことも、王城とのやり取りに関わることも。そういうものを全部のみ込んで、“婚約者らしく静かにしてほしい”と言われるなら、続ける意味がありません」
口にした瞬間、自分でもはっきりした。
そうだ。
婚約を続けることそのものが問題なのではない。
婚約を理由に、自分の足を止め、自分の望みを小さくすることが問題なのだ。
「では逆に」
ベルナールが問う。
「侯爵家が、それを認めると言ったら?」
アリアは少しだけ考えた。
あり得るだろうか。
侯爵家が本当に、今後の自分の動きを認めたうえで婚約を続けると。
カイルが、本気でそこまで変われるだろうか。
想像すると、胸の奥に小さな違和感が走る。
「……分かりません」
正直に答える。
「まだ、そこまで信じられないのです」
マルグリットがそっと目を伏せる。
その言葉が、どれほど長い時間の積み重ねから出ているか、母にも分かったのだろう。
「侯爵家が今さら条件を変えても」
アリアは続ける。
「昔のまま、何かの拍子でまた私を“静かな婚約者”へ戻そうとするのではないかと、思ってしまう」
言ってから、部屋がしんと静まる。
それは責めではない。
だが、カイルと侯爵家に対する今の自分の信頼の薄さを、あまりにも正確に言い表していた。
ベルナールが低く頷いた。
「それも当然だろうな」
その一言に、アリアは少しだけ肩の力が抜けた。
父は、否定しない。
気にしすぎだとも、もう少し信じてやれとも言わない。
それだけで十分だった。
「つまり」
ベルナールは整理するように言う。
「明日の面談では、侯爵家がどこまで現実を受け入れられるかを見ることになる」
「はい」
「そして、おまえがその条件で本当に納得できるかどうかも」
「はい」
返事を重ねるごとに、明日の場の輪郭が少しずつ見えてくる。
侯爵家は婚約を守りたい。
だが守るためには、今のアリアを認めなければならない。
一方でアリアは、今さら取り繕った理解だけでは納得できない。
その溝が、どこまで埋まるのか。
面談はきっと、穏やかには終わらないだろう。
夜、自室へ戻ったあとも、アリアはすぐには眠れなかった。
机の上には、今までのやり取りの控えが並んでいる。
それを一つずつ見ていくと、婚約を続ける理由が、どんどん薄れていくように思えた。
昔なら、理由は一つで十分だった。
侯爵家との婚約は良縁で、家格も申し分なく、自分のような地味な娘にとっては過ぎた話だと。
それだけで、自分を納得させられた。
だが今は違う。
婚約を続ける理由を考えるたびに、それは「家にとって」「侯爵家にとって」「体面上」「噂の上で」という言葉ばかりになる。
そして、自分自身にとっての理由が、ほとんど見つからない。
もちろん、完全に消えたわけではない。
カイルを憎んでいるわけでもない。
彼と過ごした時間が全部嘘だったとも思わない。
けれど、それでも。
「……もう、誰の中にも残っていないのかもしれない」
静かにそう呟く。
婚約を、今の形のままで続ける理由が。
少なくとも、少し前まで当然だった理由は、もう崩れてしまっている。
翌朝、空はよく晴れていた。
雲は薄く、風はまだ冷たいが、光そのものは明るい。
侯爵家本邸へ向かう支度をしながら、アリアは鏡の中の自分を見た。
緊張している。
それは間違いない。
けれど同時に、少しだけ冷静でもあった。
今日の面談が婚約の行方を決定づけるかもしれない。
それでも、自分が何を譲れないかは、もうはっきりしている。
古書庫へ寄ると、ローベルトがすでに待っていた。
「お嬢様」
「なに?」
「本日の面談、もし先方が婚約維持を強く押してこられたとしても」
老執事は静かに言う。
「どうか、“失うのが怖いから”だけではお決めになりませんよう」
その言葉が、まっすぐ胸に入った。
失うのが怖いから。
昔の自分なら、まさにそれで決めていただろう。
でも今は。
「ええ」
アリアはしっかり頷く。
「もう、それだけでは決めないわ」
ローベルトが穏やかに目を細める。
「それでよろしゅうございます」
侯爵家本邸へ向かう馬車の中で、アリアは窓の外を眺めていた。
王都の街並みが流れていく。
整った石畳、磨かれた店先、行き交う人々。
どれも以前と同じなのに、自分だけがもう違う場所へ向かっているような気がした。
隣国行きの是非から始まったはずの話が、今や婚約そのものの形を問い直すところまで来ている。
しかも、その中心にいるのは自分だ。
馬車が侯爵家本邸の門をくぐった時、アリアは静かに思った。
今日の面談で、たとえ何が起きても。
もう婚約を“脅し”や“当たり前”の形で使わせてはいけない。
そう決めて、彼女は馬車を降りた。




