第38話 侯爵家の客間で、終わりかけた約束が形を変える
ローデン侯爵家本邸の客間は、相変わらず整いすぎていた。
壁に掛けられた絵も、磨き込まれた調度も、窓辺に置かれた花も、すべてが「侯爵家らしさ」という一つの答えへ向かって整えられている。昔のアリアなら、ここへ通されただけで少しだけ息が苦しくなっただろう。自分はこの場所に似合わない、と何も言われないうちから決めつけてしまっていたからだ。
けれど今は違う。
今日は婚約者として呼ばれたのではない。
自分の婚約がどう扱われるべきか、その当人として席につくために来たのだ。
その違いが、アリアの背筋をまっすぐにしていた。
客間にはすでにローデン侯爵とカイルがいた。
向かいにはベルナールとマルグリット。
そしてアリアの席は、父母の後ろではなく、きちんと横に用意されている。
そのことだけで、心の奥に静かな力が灯る。
「お忙しいところお越しいただき、感謝いたします」
ローデン侯爵が最初に口を開いた。
王城で見せたような余裕は、今日は少し薄い。
代わりに、覚悟を決めた人間の整い方があった。
「本日は、婚約の今後について、率直にお話ししたい」
やはり、まっすぐそこから始めるのかとアリアは思う。
回り道はしない。
もうできないのだろう。
ベルナールが短く頷く。
「伯爵家も同じ考えです」
ローデン侯爵は一度だけカイルを見たが、今回は息子に先を譲らなかった。
「まず、侯爵家の認識を申し上げます。現時点で、アリア嬢を以前と同じ婚約者像の中へ置いておくことはできないと判断しています」
その一言に、アリアの胸は少しだけ強く打った。
できない。
ついに侯爵家の口から、それが明確に出た。
「それは、彼女の才が外へ開き始めたからか」
ベルナールの問いに、侯爵は頷く。
「ええ。王城が必要とし、隣国が待ち、伯爵家も本人の意思を前へ出す。そこまで来てなお、侯爵家の婚約者として静かに収められると考える方が不自然でしょう」
驚くほど率直だった。
少し前までの侯爵なら、ここまで言わなかったはずだ。
だが今は、取り繕う言葉では足りないと分かっているのだろう。
「では」
アリアは静かに尋ねた。
「侯爵家は、この婚約をどうしたいのですか」
部屋が少しだけ静まる。
その問いを、彼女が自分の口で発する。
その事実そのものが、昔とは決定的に違っていた。
ローデン侯爵はしばらく沈黙してから答えた。
「侯爵家としては、二つの可能性を考えています」
「二つ」
「一つは、婚約を維持したまま、アリア嬢の今後の活動を認める形へ条件を組み替えること」
そこまでは予想通りだ。
「もう一つは」
侯爵はそこで一度だけ息を吐いた。
「婚約そのものを白紙に戻すことです」
マルグリットの指先がわずかに震えた。
ベルナールの表情も硬くなる。
そしてカイルだけが、目を伏せたまま動かなかった。
ついにそこまで来たのだ。
見直しではなく、白紙。
アリアは驚くほど冷静だった。
怖くないわけではない。
でももう、この言葉を聞くだけで崩れるような自分ではない。
「理由を伺っても?」
そう問うと、侯爵は頷いた。
「維持する場合、侯爵家はこれまでの婚約者像を捨てねばならない。アリア嬢が王城や隣国との実務に関わり、場合によっては今後も外へ出る可能性を前提にした関係へ変える必要がある」
アリアは黙って聞く。
「だが正直に言えば、侯爵家がそこまで急に変われるかどうか、私自身まだ確信が持てません」
その言葉は重かった。
少なくともローデン侯爵は、綺麗事だけで「もちろん変わります」とは言わなかった。
それは誠実でもあり、遅すぎる告白でもあった。
「白紙に戻す場合は?」
アリアの問いに、今度は侯爵ではなくカイルが答えた。
「君を……」
声が少し掠れている。
「君を、今さら侯爵家の枠へ無理に押し込める方が、もっと歪むと分かったからだ」
アリアはゆっくりと彼を見た。
王城の会議室でも、昨日の古書庫でも、ここ数日の彼はずっと焦りの中にいた。
だが今の声には、焦りだけではない別のものが混じっていた。
諦めに近い、遅すぎる理解。
「君はもう、前のままではいられない」
カイルは絞るように続ける。
「そしてたぶん、私も前のままの婚約者ではいられない」
それは自分の敗北を認めるような言葉だった。
昔の彼なら絶対に口にしなかっただろう。
けれど、だからといってアリアの胸に甘さが生まれるわけではなかった。
ただ、ようやくここまで来たのだと思うだけだ。
「私は一つ、確認したいです」
アリアは静かに言った。
全員の視線が集まる。
「もし婚約を維持するとして、その理由は何ですか」
侯爵家にとっての体面でも、伯爵家との繋がりでもなく。
自分のための答えを、今度こそ聞きたかった。
ローデン侯爵はすぐには答えられなかった。
ベルナールもマルグリットも黙っている。
会議室より小さなこの客間の沈黙は、むしろ王城より重かった。
やがて、カイルが低く言った。
「……分からない」
アリアは瞬きをした。
侯爵ではなく、カイルが。
そして、分からないと。
「前なら答えられた」
彼は視線を落としたまま続ける。
「家にとって良い縁だから。伯爵家と侯爵家の繋がりとして申し分ないから。君は静かで、余計な波を立てず、私の横に置くには都合が良かったから」
マルグリットが小さく目を伏せる。
ベルナールの眉もわずかに寄った。
けれど誰も止めない。
止めるには遅すぎる本音なのだろう。
「でも今は」
カイルはゆっくり顔を上げ、初めて真正面からアリアを見た。
「今の君を前提にした時、その婚約を続けたい理由が、自分の中でまだ言葉にならない」
アリアはその視線を受け止めた。
昔なら、そんな言葉に深く傷ついたかもしれない。
自分は選ばれないのだと、改めて突きつけられたように感じただろう。
でも今は違う。
むしろ、その率直さの方が救いに近かった。
今さら取り繕って「好きだから」「大切だから」と言われるより、ずっと。
「……そうですか」
アリアの返答は穏やかだった。
その穏やかさに、カイルの方が少しだけ苦い顔をする。
「怒らないのか」
「怒る理由がありません」
「傷つかないのか」
その問いに、アリアは少しだけ考えた。
「昔の私なら、傷ついたと思います」
正直にそう言う。
「でも今は、私も同じだからです」
部屋が静まり返る。
「同じ?」
ローデン侯爵が問う。
「はい」
アリアははっきり頷いた。
「私も今、婚約を続けたい理由を、自分の中に見つけられません」
その言葉は、刃というより静かな終止符のように落ちた。
ベルナールが深く息を吐き、マルグリットは両手を膝の上で重ね直す。
カイルは一瞬だけ目を閉じた。
たぶん彼も、どこかでそれを予感していたのだろう。
だからこそ、今さら足掻いても届かないことが分かってしまっている。
「侯爵様」
アリアはローデン侯爵へ向き直った。
「私は、婚約を壊したいわけではありませんでした」
それは本心だった。
「ただ、婚約を理由に自分の望みを閉じ込めたくなかったのです」
侯爵は黙って聞いている。
「でも今、こうして話してみて分かりました。婚約を維持する理由を、私も、カイル様も、そしてたぶん侯爵家も、もう前の形では持てないのだと」
ローデン侯爵は長く、静かに息を吐いた。
「……ええ。そのようです」
その認め方に、アリアは少しだけ胸が詰まった。
勝った負けたではない。
ただ、一つの約束が役目を終えようとしているのだと分かるからだ。
ベルナールが低く言う。
「ならば伯爵家としては、婚約白紙の方向で整理するのが自然だろう」
マルグリットがわずかに目を閉じた。
だが反対はしない。
ローデン侯爵も、しばらく沈黙してから頷いた。
「侯爵家としても、異存はありません」
ついに、その言葉が出た。
婚約白紙。
まだ正式な文書にはなっていない。
だが、この場で両家の意向は一致したのだ。
アリアは膝の上で指をそっと握った。
震えていない。
怖さはある。
けれど、自分で驚くほど静かだった。
これで本当に終わる。
長いあいだ、自分を縛りもし、守りもしたはずの約束が。
カイルが最後に、低く言った。
「アリア」
名を呼ばれて顔を上げる。
「君が行くなら」
少しだけ言葉を探し、それから続けた。
「今度は、ちゃんと見てくるといい」
その一言は、あまりにも遅い。
でも、たぶん今の彼に言える精いっぱいだったのだろう。
アリアは小さく頷いた。
「ええ」
それだけで十分だった。
婚約を続ける理由は、もう誰の中にも残っていなかった。
ならば、終わるのは自然なことなのだ。




