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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第36話 婚約の見直しは、彼女を脅しに使えなくなった

 王城の会議室を出たあと、アリアはすぐには馬車へ向かわなかった。


 廊下に出て、ひとつ角を曲がったところで、ようやく深く息を吐く。石造りの壁は昼間でも少し冷たく、窓から入る光は白く細い。王城の中は人の気配が多いのに、通り過ぎる足音の一つひとつが妙に遠く聞こえた。


 会議が終わった。

 婚約は、隣国行きを止める絶対の理由にはならないと整理された。

 しかも、その婚約そのものが見直しの対象になり、そこに自分も当事者として入ることが確認された。


 ほんの数日前まで、自分の婚約がどう転ぶかなど、最後に父母から告げられるだけの話だった。


 それが今は違う。


 自分の名で話が進み、自分の意思が議事に残り、自分の足でそこへ座っていた。


「……終わったわけじゃないのに」


 小さく呟く。


 終わったわけではない。

 むしろ、ようやく始まったのだろう。

 それなのに、胸の奥には奇妙な静けさがあった。


 誰かの顔色だけで流れが決まる場では、もうなくなり始めている。

 その事実が、何より大きかった。


「アリア様」


 声をかけられて振り向くと、そこにはフェリクス・ドーレンがいた。書類を抱えたまま、だが今は急ぎ足ではない。会議室の中で見せていた実務一色の顔つきより、少しだけ人間らしい柔らかさが戻っていた。


「フェリクス様」


「少しだけ」


 彼はそう前置きしてから、控えめに微笑んだ。


「お疲れさまでした」


 その一言に、アリアはなぜだか少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとうございます」


「かなり緊張されたでしょう」


「ええ」


 正直にそう答えると、フェリクスは頷く。


「ですが、あの場でご自身の言葉をきちんと通されたのは大きかったと思います」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


 自分の言葉。

 それが通ったと外から言われると、ようやく実感がついてくる。


「私、少し前まで、ああいう場で話すこと自体がないと思っていました」


「でしょうね」


 フェリクスは意外なほどあっさりそう言った。


「王城も、伯爵家も、侯爵家も、最初はそう扱っていましたから」


 その率直さに、アリアは思わず顔を上げた。


 彼は続ける。


「ですが今は違います。少なくとも王城では、違う扱いをし始めています」


 慰めではない声音だった。

 だからこそ、信じられた。


「……ありがとうございます」


「礼を言われることではありません」


 フェリクスは少しだけ苦笑する。


「むしろ、我々がもっと早く気づくべきだったのかもしれません」


 その言葉に、アリアは返事をしなかった。

 責めたいわけではない。

 ただ、遅かったという事実だけは、どうしても胸のどこかに残る。


 フェリクスもそこを無理には埋めようとしなかった。


「このあと伯爵家へ戻られるのですよね」


「はい」


「侯爵家も、今日の整理を受けてすぐに動くでしょう」


「そう思います」


「婚約の見直し協議は、早ければ明日にも打診が来るかと」


 やはり早い。


 けれどアリアは、その予測にもう驚かなかった。

 侯爵家にとって今日の会議は、引き下がるだけで終えられるものではなかったはずだ。

 婚約を盾として使えないと分かった以上、今度は婚約そのものをどう再定義するかへ移るしかない。


「怖いですか」


 不意にフェリクスが尋ねた。


 アリアは少しだけ考える。


「……はい」


「正直ですね」


「今は、そうしていた方が楽なのです」


 そう答えると、フェリクスは静かに頷いた。


「それでよいと思います」


 短い会話だった。

 けれど別れ際、彼はひとつだけ付け加えた。


「今日の議事録には、あなたの発言がきちんと残ります」


 アリアの指先がわずかに動く。


「記録として、ということですか」


「はい」


「……そうですか」


 記録に残る。

 それは怖いことでもある。

 でも同時に、もう誰にも“なかったこと”にはできないという意味でもあった。


 フェリクスと別れ、伯爵家の馬車へ向かう途中、アリアは王城の中庭を横切った。白い砂利道、整えられた低木、淡い春の花。見慣れないはずの景色なのに、なぜだか今日は少しだけ輪郭が鮮やかに見える。


 この場所で、自分の言葉が記録された。

 それだけで世界の色が少し変わるのかと思うと、我ながら単純で可笑しい。


 馬車の前には、ベルナールとマルグリットがすでに立っていた。


 母は少し疲れているようだったが、顔色は崩していない。父はいつも以上に無口だ。

 ただし、アリアが近づくと当然のように先に乗るよう目で促した。


 そういう小さな動きの一つひとつが、もう以前とは違っている。


 馬車が動き出してしばらく、三人とも何も言わなかった。


 揺れに合わせて窓の外の景色が流れる。王都の石畳、店先の布、遠くの塔、行き交う人々。どれもいつもと同じはずなのに、今日のアリアにはほんの少しだけ違って見えた。


 やがて、ベルナールが低く口を開く。


「侯爵家は、今日の結論をそのままは飲み込まんだろう」


「はい」


 アリアは短く答える。


「だが少なくとも」


 父は窓の外を見たまま続ける。


「婚約を脅しのように使うことは、もうできなくなった」


 その一言に、アリアの胸の奥が静かに震えた。


 脅し。

 父がそんな言い方をするとは思わなかった。


 だが、たしかにそうだったのかもしれない。


 婚約者なのだから。

 家の体面があるのだから。

 それを理由に、ずっと自分は“止まる側”へ押し込められてきた。

 表向きは穏やかで、整っていて、正当なように見えて。

 でも実際には、それを盾にして何も望ませないようにしていたのだ。


 今、父はそれをちゃんと見たのだろう。


「お父様」


「なんだ」


「そう言ってくださるとは、思いませんでした」


 ベルナールはわずかに眉を動かしたが、すぐにはこちらを見なかった。


「私も少し前までは、そこまで考えていなかった」


 正直な言葉だった。


 マルグリットも静かに付け加える。


「侯爵家は、自分たちが“守っている”つもりだったのでしょうね」


「守っている?」


 アリアが反復すると、母は苦く笑った。


「ええ。体面も、婚約も、将来も。全部、自分たちが整えてやっていると思っていたのよ」


 その言い方に、アリアは妙に納得してしまう。


 そうかもしれない。

 カイルも侯爵も、本気でそういう感覚だったのだろう。

 だからこそ、アリア自身が「行きたい」と言い出した時、あれほど動揺したのだ。

 守る側だと思っていた者に、当人が自分の意志を持ってしまったのだから。


「でも今は」


 マルグリットが小さく息を吐く。


「守る、では済まないわね」


 その通りだと思う。


 守るという言葉の中に、勝手に囲う意味が混じっていたことが、もう見えてしまったから。


 屋敷へ戻ると、前庭にはまだ午後の明るさが残っていた。

 だが空の色は少しずつ変わり始めていて、風も朝より冷たい。


 玄関へ入るなり、セレナが待ち構えていた。


「どうだった?」


 やはり最初にそこだ。


「王城では、婚約だけを理由に止められないって整理されたわ」


 アリアがそう答えると、妹は大きく目を見開いた。


「本当に?」


「ええ」


「じゃあ……」


「でも、婚約そのものの話はこれからよ」


 セレナは唇を結び、それから少しだけ不安そうに尋ねる。


「カイル様は?」


 アリアは一瞬考えた。


 何と言えば正確なのか。

 焦っている。

 傷ついている。

 でも、ようやく自分が当然だと思っていたものを失うかもしれないと知り始めてもいる。


「たぶん今、初めて本気で考え始めているのだと思う」


「何を?」


「婚約が、私を止めるための言葉としては、もう使えなくなったってことを」


 その答えに、セレナはゆっくり頷いた。


 以前の彼女なら、ここまでの意味は分からなかっただろう。

 でも今は違う。

 妹もまた、この家の空気の変わり方を、自分なりに読み始めている。


「お姉様」


「なに?」


「ちょっとだけ、安心した」


「どうして?」


「だって、婚約があるからって、お姉様が何でも諦めなきゃいけないわけじゃないって、ちゃんと皆の前で決まったんでしょう?」


 その言葉に、アリアはゆっくり息を吸った。


 そうだ。

 それは本当に大きい。


 今までは、誰かがそう言ってくれれば嬉しいと思っていた。

 でも今日は違う。

 それがちゃんと場で整理され、記録に残る形になった。


「ええ」


 静かに頷く。


「そうなったわ」


 それだけで十分だった。


 古書庫へ戻ったあと、アリアはしばらく机に向かったまま何も書かなかった。


 会議での言葉。

 父の“脅しのように使うことはできなくなった”。

 母の“守る、では済まない”。

 セレナの“諦めなくていい”。


 いろんな言葉が頭の中を巡る。


 そのどれもが、少し前の自分には届かなかった種類のものだ。

 世界が急に優しくなったわけではない。

 でも、少なくとも“当然のように押さえつけられる”時代は終わり始めている。


 それだけで、胸の奥の景色が少し変わった。


 窓の外では、夕方の光が棚の端を細く照らしていた。

 古書庫の中はいつも通り静かで、紙の匂いも何一つ変わらない。

 でも、机に向かう自分だけが、もう前とは違う。


 婚約は、彼女の足を止める理由にならなかった。

 では次に問われるのは、婚約そのものをどうするのか、ということだ。


 そこまで思った時、扉の外でまたノックがした。


 ローベルトだ。


「お嬢様」


「どうしたの?」


「ローデン侯爵家より、正式な面談申し入れが届きました」


 アリアはゆっくり顔を上げる。


「今度は何のための」


 老執事は一瞬だけ言葉を選び、それからはっきり言った。


「婚約関係の今後について、当人同席のうえで話し合いたいとのことです」


 ついに来たのだ。


 婚約の見直しが、次の場の主題になる。

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