第32話 彼女の席は、もう“ついで”ではない
侯爵家が去ったあとの伯爵家は、奇妙なくらい静かだった。
応接室の扉が閉まった瞬間、張りつめていた空気が一度だけ緩んだはずなのに、誰もすぐには立ち上がらなかった。まるで、たった今交わされた言葉の余韻が、まだ室内のどこかに残っているようだった。
ローデン侯爵は考え直すと言った。
それは敗北宣言ではない。
むしろ、これまで当然としてきた婚約の形が、もう当然ではなくなったと認めたに等しい。
アリアは膝の上で指を重ねたまま、ゆっくりと息を吐いた。
疲れていた。
けれど、心の底に沈むような疲れではない。
長いあいだ止めていた呼吸を、ようやく深く吸い直した後のような、重くても澄んだ疲れだった。
「今日は、ここまでにしよう」
最初にそう言ったのはベルナールだった。
低い声。
だがその声音には、先ほどまでの張りつめた硬さが少しだけほどけていた。
「お父様」
アリアが呼ぶと、父はゆっくり視線を向けた。
「なんだ」
「先ほどの……侯爵様への返答」
「ああ」
「ありがとうございました」
ベルナールは一瞬、表情を動かした。
ありがとう。
娘からそう言われることを、どこかで予想していなかったのかもしれない。
「礼を言われるようなことではない」
いつものような言い方。
けれどその裏に、完全な拒絶はない。
「それでもです」
アリアは静かに続けた。
「“本人の意思と合っていない”と、お父様が言ってくださったから」
その一言に、マルグリットがわずかに目を伏せた。
セレナも息をひそめる。
ベルナールは数拍黙り、それから短く息を吐いた。
「……事実を言っただけだ」
それは照れ隠しにも似ていた。
だが同時に、父なりの精いっぱいの率直さでもあるのだろう。
今までなら、家の都合、侯爵家との均衡、社交界での見え方。そうした言葉が必ず先に立った。
今日、彼はそこではなく「本人の意思」を前に置いた。
アリアにとって、それは十分に大きな変化だった。
マルグリットが、静かな声で言う。
「あなたがあそこまできっぱり言うとは思わなかったのよ」
それが父に向けた言葉なのか、アリアに向けた言葉なのか、少し曖昧だった。
だからベルナールもアリアも、すぐには返事をしなかった。
「……私もです」
やがてアリアが小さく答える。
「でも、あの時は、そう言わなければ戻される気がしたの」
マルグリットがゆっくり顔を上げる。
「戻される?」
「はい」
アリアは自分の中の感覚を確かめるように言葉を選ぶ。
「侯爵家の提案は、一見とても整っていました。閲覧室を作って、資料を集めて、支援をすると言ってくださって……」
「ええ」
「少し前の私なら、あれで十分だと思っていたかもしれません」
その言葉に、セレナがはっとした顔をした。
たぶん本当にそうなのだ。
昔のアリアなら、認めてもらえることだけで満足しようとしただろう。
必要だと言われ、環境を整えると言われれば、それで十分すぎる譲歩だと思ったはずだ。
「でも今は違ったのね」
マルグリットの問いに、アリアは頷く。
「ええ。あれでは結局、また“ここで待っているだけの私”に戻ってしまう気がしたのです」
待っているだけの私。
その言葉を聞いた瞬間、ベルナールの視線がわずかに揺れた。
それがどれほど正確な指摘か、父にも分かっているのだろう。
伯爵家で待ち、侯爵家で待ち、運ばれてきたものだけを読み、与えられた範囲だけで役に立つ。
それは確かに今までのアリアのあり方だった。
そして、家の側もまた、その形に甘えてきた。
「……そうか」
ベルナールは低く呟いた。
それ以上の言葉はなかったが、その短い一言だけで十分だった。
父が今、やっとその構図の本質を見ているのだと分かったからだ。
しばらくして、マルグリットが立ち上がる。
「今日はもう休みましょう。これ以上は、皆疲れているわ」
珍しく、誰も異論を挟まなかった。
応接室を出ると、廊下の空気は少しだけ冷たかった。
夜は深まり、壁の燭台の火だけが長く影を落としている。
セレナが小走りで追いついてくる。
「お姉様」
「なに?」
「少しだけ、一緒に歩いていい?」
「ええ」
二人で並んで歩くのは、考えてみればあまりなかった。
同じ家に住み、同じ食卓につき、同じ行事へ出ることはあっても、こうして何もない廊下を並んで歩くことはほとんどなかったのだ。
「……今日の侯爵様、怖かった」
セレナがぽつりと言う。
「ええ」
「でも、お姉様は全然引かなかったわね」
「引かなかったというより、もう戻れないって分かっていたから」
正直にそう言うと、セレナは少しだけ肩をすくめた。
「やっぱり、お姉様は変わったわ」
アリアは苦笑する。
「またそれ?」
「だって、本当だもの」
セレナは少し考えてから続ける。
「でも、前に言ったのは少し違ったかもしれない。やっと出てきたんだと思うって」
「うん」
「今日はそれだけじゃなくて……なんて言うのかしら」
妹は言葉を探し、やがて小さく笑った。
「お姉様、自分の席に座っている感じがしたの」
その言葉に、アリアは足を少しだけ緩めた。
自分の席。
なるほど、と胸の中で繰り返す。
今日の侯爵家との話し合いで、自分はただ参加させられたのではなかった。
そこにいてもよい人間として、しかも“ついで”ではなく、最初から必要な席を与えられていた。
それは、以前の自分にはありえなかったことだ。
「……そうかもしれない」
静かにそう答えると、セレナが嬉しそうに頷いた。
「お姉様が何か言うたびに、みんなちゃんと聞いていたわ」
その一言が、やけに温かい。
聞いていた。
ちゃんと。
途中で遮られず、勝手にまとめられず、都合よく解釈されず。
そんな当たり前が、ようやく自分にも与えられ始めているのだ。
別れ際、セレナは少しためらってから言った。
「もし明日、また王城とか侯爵家とか来ても……お姉様、きっと大丈夫よ」
「どうして?」
「もう“ついで”じゃないもの」
その言葉を残して、妹は自室の方へ駆けていった。
アリアは一人、廊下に立ち尽くす。
ついでじゃない。
その表現が、胸の奥へすとんと落ちた。
そうだ。
今までずっと、自分は何かの“ついで”だったのかもしれない。
伯爵家の長女のついで。
婚約者のついで。
社交では目立たない娘のついで。
家の中で使えるなら便利、くらいの位置。
けれど今日、侯爵家との応接の席で、王城の文言と隣国の招きの狭間で、初めて明確に違った。
アリア・ウェルグラン本人の意思。
それが文書にも、会話にも、席の配置にさえ刻まれていた。
自室へ戻ってからも、セレナの言葉はしばらく胸の中に残った。
ついでじゃない。
机に座り、今日の出来事を控え帳へ書き留める。
侯爵家来訪。
別邸閲覧室提案。
本人の意思と合わないため、伯爵家は受けず。
王城の暫定判断と返答案により、訪問調整は継続。
こうして文字にしてみると、驚くほど事態が進んでいる。
ほんの少し前まで、古書庫の奥で細い注記を拾い、誰にも知られず返答を書いていた自分が、今は王城と隣国と侯爵家の間で、自分の名と意思を明記された文書の中心にいる。
「……変なの」
思わず笑みが漏れる。
変だ。
でも嫌ではない。
むしろ、この違和感の方が本物に近い気さえする。
これまでが、自分を小さくしすぎていたのだろう。
寝台へ入ったあとも、なかなか眠れなかった。
父の「本人の意思と合っておらん」。
母の「止めるだけでは済まない」。
ローデン侯爵の「あなたを失いたくない」。
そしてセレナの「ついでじゃない」。
いろんな言葉が頭の中で交互に浮かぶ。
だがその中でも一番深く残ったのは、結局、自分の中から出た言葉だった。
行きたい。
見たい。
戻りたくない。
それだけは、誰が何を言っても揺らがない。
翌朝、アリアは珍しく少し早く目を覚ました。
まだ空は薄い青で、庭には朝靄がかかっている。
起き上がり、水をひと口飲んだところで、扉の外に人の気配がした。
ノックの音は控えめだったが、少し急いでいる。
「お嬢様、起きておられますか」
ローベルトではない。
マリーだ。
「ええ」
「失礼いたします」
侍女は部屋へ入るなり、少しだけ頬を紅潮させて言った。
「王城から急ぎの使いが」
やはり、と思う。
「今度は何かしら」
「その……政務調整局より、正式な会合を設けたいと。伯爵家、侯爵家、王城、それに隣国側の代表も含めた場を」
アリアは目を瞬いた。
王城、侯爵家、隣国。
その三者に、伯爵家。
つまり、ついにすべてが一つの席につくのだ。
そしてその席に、自分も呼ばれるのだろう。
マリーは続ける。
「旦那様が、お嬢様にもすぐお伝えするようにと」
胸の奥で、静かに、しかし確かな音がした。
もう本当に、誰も“ついで”では済ませられないところまで来たのだと。




