表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/96

第33話 全員が揃う席で、彼女はもう黙らない

 王城からの急ぎの伝言を聞いた瞬間、アリアは寝台の端に座ったまましばらく動けなかった。


 朝の光はまだやわらかく、窓の外には白く薄い靄がかかっている。遠くで鳥が一度だけ鳴き、屋敷の中ではまだ本格的なざわめきが始まる前の、静かな時間だった。


 けれどその静けさの中に落ちたマリーの一言は、明らかにこれまでと重さが違った。


 王城、侯爵家、隣国側の代表、そして伯爵家。

 その全員が同じ席につく正式な会合。


 それはもう、誰かの廊下話でも、父の執務室の中だけで処理される相談でもない。

 この件が、本当に表へ出たのだ。


「……今日、なの?」


 アリアが尋ねると、マリーは少し緊張したように頷いた。


「はい。詳細は旦那様が直接お話しになるとのことですが、王城側は本日中を望んでおられるようです」


「そんなに急いでいるのね」


「そのようでございます」


 マリーは一瞬だけ言い淀み、それから小さく付け加えた。


「屋敷中、少し騒がしくなっております」


 それはそうだろう。


 伯爵家の長女の婚約と、隣国公爵からの招きと、王城の実務判断と、侯爵家の異議申し立て。

 その全部が一つの席へ持ち込まれるのだ。


 しかも今や、その中心にいるのは間違いなくアリア自身だった。


「分かったわ。すぐに支度する」


 マリーが下がると、アリアはゆっくりと立ち上がった。


 鏡の前へ向かい、自分の顔を見る。

 まだ寝起きの静かな顔。

 派手ではない。華やかでもない。

 けれど、少なくとも前のように「最初から一歩引いている顔」ではなかった。


 今日、自分は席につく。

 王城も侯爵家も隣国もいる場で、自分のことを、自分抜きでは決めさせない席に。


 緊張しないはずがない。

 でも、その緊張の奥に、確かな芯のようなものが通っているのも分かった。


 それはたぶん、自分が何を望んでいるのかを、もう知っているからだ。


 着替えを済ませる時、アリアは迷わず深い青のドレスを選んだ。


 ここしばらく、何度も選んできた色だ。

 侯爵家の好む“愛らしい婚約者”には見えないかもしれない。

 だが今の自分が最も落ち着いて呼吸できる色だった。


 食堂へ入ると、父ベルナールも母マルグリットもすでに席についていた。セレナもまた、いつもよりかなり早く来ている。


 誰もが、今日が特別な日だと知っている顔だった。


「おはようございます」


 挨拶すると、ベルナールが珍しく新聞を脇へ置いて言った。


「おはよう。食事のあと、すぐ執務室へ来なさい」


「はい」


 マルグリットはアリアの顔を見て、ほんの少しだけ視線を和らげた。


「よく眠れた?」


「少しだけ」


「そう」


 それだけの短い会話なのに、以前なら考えられないほど自然だった。


 セレナは黙っていたが、アリアが席につく時に小さく頷いてみせる。

 その仕草だけで、今日もまた妹がこちら側を見ていようとしているのが分かった。


 食事はあっという間だった。


 味がしなかったわけではない。

 むしろパンの温かさも紅茶の香りもきちんと分かる。

 それでも意識の多くは、食後の会合へ向かっていた。


 執務室へ入ると、ベルナールはすでに数枚の紙を広げていた。

 王城からの正式な会合要請文。

 侯爵家からの出席承諾。

 隣国側代表の確認文。

 そして伯爵家側の出席者一覧。


 一覧の最後に、自分の名があるのを見て、アリアの胸が少しだけ熱くなる。


 アリア・ウェルグラン。


 つい数日前まで、こうした文の中に彼女の名前が載ることはなかった。

 家の中で動いている本人であるにもかかわらず、誰かの陰に隠されたままだった。


 今は違う。


「王城が場を設ける」


 ベルナールが端的に言う。


「場所は王城内の中会議室。伯爵家、侯爵家、王城政務調整局、そして隣国公爵家の代表が出る」


「代表、ということは」


 アリアが問うと、ベルナールは一瞬だけ間を置いた。


「隣国側は、グレゴール・ヴァルツ殿と……レオンハルト公爵閣下ご本人だ」


 その一言で、アリアの呼吸がほんの少しだけ止まる。


 本人が出るのだ。


 もちろん、あり得るとは思っていた。

 むしろこの件の始まりからして、彼が自分で動いていることは分かっていた。

 それでも、こうして正式な会合に公爵本人が出ると聞くと、その重みはやはり違う。


「侯爵家は、ローデン侯爵様とカイル様」


 マルグリットが補足する。


 そうなるだろうとも思っていた。

 侯爵家もまた、もうこれを家令任せにはできない。


「そして伯爵家からは」


 ベルナールが言いながら、アリアを見た。


「私と母上、そしておまえだ」


 その言葉はもう、少しも“ついで”ではない。

 最初から、アリアが出席者の一人として数えられている。


「王城側の要請にも、アリア嬢本人の出席を求めるとあります」


 マルグリットが文を指で押さえた。


「“北方越境路旧協定の現行整理に関して、現時点で最も継続的に資料読解と論点整理を行ってきた当人であるため”――だそうよ」


 アリアはゆっくりとその言葉を受け止める。


 当人。

 継続的に。

 資料読解と論点整理。


 王城が、自分をそういう言葉で記す日が来るとは思わなかった。


「……分かりました」


 ようやくそう答えると、ベルナールが頷く。


「今日の会合では、おそらく三つが争点になる」


「三つ?」


「一つ目は、隣国行きの実務的必要性。二つ目は、婚約との両立。三つ目は、アリア本人の意思をどこまで優先するかだ」


 最後の一つに、アリアの胸が小さく揺れる。


 本人の意思。

 昔なら、そうしたものは会合の最後に形だけ問われるものだった。

 今は違う。

 争点の一つとして最初から数えられている。


「おそらく侯爵家は二つ目を強く押してくる」


 ベルナールの声は低い。


「婚約中の身であること、社交界への見え方、安全面、そして体面」


 そこまでは容易に想像できる。


「隣国側は一つ目と三つ目を押すでしょうね」


 マルグリットが静かに言う。


「実務的必要性と、アリアの意思」


 まっすぐな整理だった。


 少し前までなら、母が自分の意思を“争点の一つ”として当然のように数えるなど、考えられなかった。


 ベルナールがアリアを見る。


「おまえは、今日の場で何を言うべきだと思う」


 問いかけだった。

 しかも、答えを知っていて試すような調子ではない。

 純粋に、本人に考えを聞いている声音。


 アリアは少し考えた。


 言いたいことは多い。

 侯爵家の提案がなぜ足りないのか。

 原本と草案を現地で見る必要。

 今まで切り落とされてきたものの重さ。

 婚約を盾にして望みを押し込められたくないこと。


 けれど全部をそのままぶつけても、言葉は散るだろう。


「三つ、です」


 やがてアリアは言った。


「まず、写しや複写だけでは足りない理由を、できるだけ具体的に話します」


 ベルナールとマルグリットが黙って聞く。


「次に、今回の訪問が“誰かに会いたいから”ではなく、あくまで現場運用と原本照合のためだということを」


「うむ」


「そして最後に……」


 アリアは少しだけ息を整えた。


「私が行きたい理由は、家の都合に逆らいたいからでも、婚約に反発したいからでもなく、自分の目で確かめたいからだと、はっきり言います」


 言い終えると、執務室には短い沈黙が落ちた。


 やがてベルナールが低く頷く。


「それでよいだろう」


 マルグリットも静かに言う。


「ええ。たぶん、それがいちばん伝わるわ」


 その時、扉が叩かれた。

 ローベルトだ。


「旦那様、馬車の用意が整いました。王城側からは、予定を早めてほしいとの使いが」


 やはり向こうも急いでいる。


 ベルナールが立ち上がる。


「行くぞ」


 それだけで、部屋の空気が一段変わる。


 マルグリットもゆっくり立ち上がった。

 アリアもそれに続く。


 扉のところで、ベルナールがふと足を止めた。


「アリア」


「はい」


「今日の席では、もう誰もおまえを“ついで”には扱わんだろう」


 その言葉に、アリアは一瞬だけ胸が詰まった。


 昨日のセレナの言葉。

 ついでじゃない。

 それを父もまた、別の形で認めたのだ。


「はい」


 静かにそう答えると、ベルナールは短く頷き、先に歩き出した。


 前庭には、伯爵家の馬車が二台用意されていた。

 春の空は高く、薄い雲が流れている。

 その下で、使用人たちが無駄なく動いている気配だけが妙に鮮明だった。


 セレナが玄関口まで見送りに出てきていた。


「お姉様」


「なに?」


「……いってらっしゃい」


 その言葉に、アリアはほんの少しだけ笑う。


「ええ。行ってくる」


 馬車へ乗り込む瞬間、ふと思う。


 昔の自分なら、こんな言葉は似合わないと思っただろう。

 “いってらっしゃい”と送り出されるような、自分のための外出なんてなかったから。


 でも今は違う。


 王城へ向かうこの道の先にあるのは、家の用事に付き添う娘の席ではない。

 アリア・ウェルグラン本人として、自分の意思を持って座る席だ。


 馬車がゆっくりと動き出す。


 石畳の振動が伝わるたび、胸の奥が少しずつ研ぎ澄まされていく。

 不安はある。

 緊張もある。

 それでも、引き返したいとは思わない。


 むしろ、ようやくここまで来たのだという感覚の方が強かった。


 王城に着けば、侯爵家も隣国側も、すでにそこにいるのだろう。

 王城は何を優先するのか。

 侯爵家はどこまで食い下がるのか。

 そしてレオンハルトは、この場でどんな顔をして自分を見るのか。


 馬車の揺れの中、アリアはそっと指先を重ねる。


 大丈夫。

 少なくとも、自分が何を言うべきかは、もう分かっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ