第31話 夕刻の来訪者は、婚約者ではなく“遅れてきた男”だった
夕刻が近づくにつれ、伯爵家の屋敷はまた別の緊張に包まれていった。
朝とは違う種類の張りつめ方だった。
王城からの使いが来る時は、どこか公的な緊張が走る。使用人たちは言葉少なに動き、父ベルナールも家格と体面を前へ出した顔になる。
だが侯爵家が、しかもカイル本人が来るとなると、空気はもっと私的にざわつく。
婚約者同士。
伯爵家と侯爵家。
将来決まっていると思われていた関係。
その均衡が崩れかけていることを、屋敷の誰もがもう知っているからだ。
アリアは夕刻まで古書庫にいた。
文机の上には、これまでのやり取りの控えが静かに並んでいる。
公爵からの最初の礼。
軽んじないと記された手紙。
隣国への招き。
王城の暫定判断。
伯爵家の返答案。
そして今朝届いた返書。
順に並べて眺めると、この数日でどれほど多くの線が、自分へ向かって集まり始めたのかがよく分かる。
以前なら、紙は外からやって来て、父の机を経て、必要な時だけ彼女の手元へ落ちてきた。
今は違う。
紙の中に、アリア・ウェルグランという名があり、本人の意思があり、彼女自身へ向けた言葉がある。
その違いが、心を静かに支えていた。
「お嬢様」
ローベルトが控えめに声をかける。
「そろそろお時間です」
「ええ」
アリアは頷き、机上の紙を整えた。
必要なら持っていけるよう、北方越境路の整理控えと公爵からの返書だけは薄い革挟みに入れておく。
「お持ちになりますか」
「ええ。今日は言葉だけの話では終わらない気がするもの」
ローベルトは静かに頷いた。
「侯爵家は、もう“婚約者同士の感情のもつれ”としては扱えぬでしょうな」
「そうね」
アリアは立ち上がる。
「でも、まだそういう形へ引き戻したいのだと思う」
カイルが来る。
侯爵ではなく、まず彼が来るということ自体がそうだ。
家と家の話に見せかけながら、最終的には婚約者本人の情や躊躇いへ訴えたいのだろう。
けれど今のアリアは、そこへ簡単には戻らない。
応接室へ向かう途中、廊下の窓から前庭が見えた。
侯爵家の馬車は一台だけ。
華美ではないが、明らかに格の高い黒塗りだ。
そこから降りる人影を見て、アリアは足を止めそうになった。
カイルだけではない。
ローデン侯爵も来ている。
「……そういうこと」
小さく呟く。
侯爵家は今日の話を、本気で決めに来たのだ。
昨日のような様子見ではない。
父子そろって来るということは、婚約者同士の私的な会話へ矮小化せず、正式な場として押さえにきている。
だが、それでいいとも思った。
どうせもう、隠れたところで済む話ではないのだから。
応接室へ入ると、伯爵家側はすでに父ベルナールと母マルグリットが席についていた。
セレナは今日は壁際の少し後ろに控えている。完全な同席ではないが、「知らないまま外される側」にもなっていない。その中途半端さが、今の伯爵家の変化をよく表していた。
そして向かいにはローデン侯爵とカイル。
昨日よりも空気はさらに固い。
「アリア、座りなさい」
ベルナールの声に促され、アリアは自分の席へ着く。
最初から、そこに席がある。
それだけで少しだけ呼吸がしやすくなる。
ローデン侯爵が先に口を開いた。
「本日は改めて時間をいただき、感謝します」
前置きは礼儀正しい。
だが本題へ入る速さに、余裕のなさが見えた。
「昨夜、伯爵家からの返答案と、王城の暫定判断を拝見しました」
やはりもう届いているのだ。
「その上で、侯爵家としても立場を明確にせねばならないと判断しました」
アリアは黙って聞く。
ローデン侯爵はわずかに身を乗り出した。
「率直に申し上げます。侯爵家は、アリア嬢の才を軽んじるつもりはありません」
その一言に、アリアの心は動かなかった。
もうその言葉だけでは足りないのだと、自分でもよく分かっている。
軽んじない。必要だ。惜しい。
そうした言葉は今や、彼女を引き留める側からも発せられる。
「むしろ今は、以前よりも重く見ています」
侯爵は続ける。
「だからこそ、婚約という形を崩さぬまま、あなたがその才を発揮できる道を、改めて提案したい」
来るべきものが来た、とアリアは思う。
侯爵家はもう「やめろ」とは言えない。
だから「婚約を維持したまま、別の形で満たす」と言い始める。
「どのような道でしょう」
ベルナールが問うと、ローデン侯爵は答えた。
「婚約を前提としたうえで、侯爵家として王城と連携し、アリア嬢に対し正式な学究的支援を行う」
学究的支援。
耳慣れのよい、しかし曖昧な言い回しだった。
「具体的には?」
今度はアリアが尋ねる。
侯爵は一瞬だけこちらを見たが、すぐに答えた。
「王都の侯爵家別邸内に閲覧室を設け、王城および隣国から取り寄せた写本・複写・必要に応じた現物を集める。必要な書記や補助もこちらで用意する。つまり――」
そこで口元に作った笑みは、いかにも“よく考えた提案”の顔をしていた。
「アリア嬢がわざわざ隣国へ出向かずとも、同等の仕事環境を整える、ということです」
応接室が静まる。
侯爵家なりに本気なのだろう。
昨日の代替案より一段進めてきた。
“侯爵家別邸内の閲覧室”“正式な学究的支援”“書記と補助”――どれも聞こえはいい。
少し前のアリアなら、心が揺れたかもしれない。
認められることに飢えていた頃なら、これでも十分すぎる譲歩に思えただろう。
だが今は違う。
「それは、誰のための支援ですか」
静かな問いだった。
ローデン侯爵がわずかに目を細める。
「もちろん、アリア嬢のためでもあり、侯爵家と伯爵家、ひいては王城と隣国双方のためでもあります」
やはり曖昧だ。
アリアはゆっくりと問いを重ねる。
「私のためというなら、どうして“隣国へ行く”という私の望みが先に消えるのでしょう」
侯爵の笑みが少しだけ薄くなる。
「それは現実的な危うさを避けるためです」
「危うさ、ですか」
「ええ。婚約中の令嬢が隣国公爵の招きで数日滞在する。その見え方は、あなたが思う以上に複雑です」
それはそうだろう。
アリアも、それをまったく理解していないわけではない。
だが問題はそこだけではない。
「私は、危うさがない場所にだけいたいわけではありません」
アリアの声は、思った以上にまっすぐ出た。
マルグリットがわずかに息を呑む。
ベルナールは黙って娘を見ている。
セレナは後ろで両手をぎゅっと握っていた。
「私は、自分の足で見に行きたいのです。運ばれてきたものだけを読むのではなく、原本がどこに置かれ、どう綴じられ、どう重ねられてきたのかまで、自分の目で確かめたい」
ローデン侯爵が低く言う。
「それがそこまで重要か」
「重要です」
即答だった。
「写しや複写では抜け落ちるものがあります。今、北方越境路で起きている混乱そのものが、それを証明しています」
侯爵は返す言葉を探すように指を組む。
そこへ、初めてカイルが口を開いた。
「君は、どうしてそこまで外へ出たがる」
その問いは、昨日のそれとは少し違っていた。
責めるというより、理解できないまま、それでも聞かずにいられない声音。
アリアは彼を見る。
整った顔立ち。けれど今はその整い方が、かえって彼の追い詰められ方を際立たせていた。
「外へ出たいのではなく、見たいの」
「同じことだろう」
「違うわ」
アリアは首を振る。
「昔の私は、ここで読めるものだけ読んでいればいいと思っていた。でも今は違う。ここに運ばれてくる前に切り落とされたものがあると知ってしまったの」
カイルは黙る。
「それを知ってしまった以上、もう“与えられた範囲で満足する”ところには戻れないの」
その言葉は、応接室の空気を確実に変えた。
ローデン侯爵も、ベルナールも、マルグリットも。
今の一言が単なるわがままではなく、もっと深い種類の決意から出ていることを感じ取ったのだろう。
ローデン侯爵が長く息を吐いた。
「アリア嬢。あなたは今、侯爵家の提案を“囲い込み”として見ているのですな」
その率直さに、アリアは少しだけ驚いた。
「……はい」
正直に答える。
侯爵は苦く笑った。
「まったく、手厳しい」
「違いますか」
侯爵はすぐには答えなかった。
やがて、ゆっくりと言う。
「半分は違わぬ」
その場の全員が息を止めたように感じた。
侯爵家の当主が、そこまで認めるとは思わなかったからだ。
「我々は今、あなたを失いたくないと思っている」
ローデン侯爵の声は低かった。
「それは婚約の体面だけではない。あなたの才が予想以上に重く、そして今後さらに大きくなる可能性が見えてしまったからだ」
そこまで言われても、アリアの胸はもう大きくは揺れなかった。
やはりそうか、と思うだけだ。
「ですが」
侯爵はそこで娘をまっすぐ見た。
「あなた自身は、そこで留まる気がもうないのですな」
アリアはしばらく沈黙し、それからはっきり頷いた。
「はい」
たった一文字の返答だった。
でもそれで十分だった。
もう戻れない。
もう、侯爵家が整えた綺麗な部屋の中で「学究的支援」を受けながら、実際には見える範囲だけで満足する娘には戻れない。
それを、今ここで完全に認めたのだ。
カイルがかすれた声で言う。
「君は、それほどまでに……」
その先の言葉が続かない。
アリアは静かに答える。
「ええ。思っているより、ずっと」
ベルナールがそのやり取りを見届けてから、低く言った。
「侯爵家の提案は理解した。だが、伯爵家としては現時点でそれを受けるつもりはない」
ローデン侯爵が視線を向ける。
「理由は」
「本人の意思と合っておらん」
短い、しかし明確な言葉だった。
アリアの胸が微かに震える。
父が今、侯爵家の提案を、本人の意思と合っていないという理由で退けたのだ。
家格でも、王城でも、体面でもなく。
本人の意思。
それだけで十分だった。
ローデン侯爵はしばらく黙っていたが、やがて深く頷いた。
「……承知した」
諦めたわけではないだろう。
だが今日ここで押し切れないことは分かったのだ。
彼は立ち上がり、ベルナールへ一礼し、それからアリアにも向き直った。
「アリア嬢。侯爵家としてはなお、あなたの婚約を軽々しく扱うつもりはありません」
アリアは黙って聞く。
「ただし」
侯爵の目がわずかに細められる。
「我々もまた、これから考え直さねばならぬようです」
その一言は、重かった。
考え直す。
つまり侯爵家も、もう今まで通りの婚約の形を前提にはできなくなっているということだ。
カイルは最後まで何も言えなかった。
ただ去り際に一度だけアリアを見たその目には、焦りとも悔しさとも違う、もっと空白に近いものがあった。
彼もまた、自分が当然だと思っていたものが、どれほど揺らいでいるかをようやく実感し始めているのだろう。
侯爵家が去ったあと、応接室には長い静寂が残った。
最初にそれを破ったのはセレナだった。
控えめに、けれどはっきりと。
「……お姉様、すごかった」
マルグリットが娘をたしなめるでもなく、ただ静かに目を伏せている。
ベルナールも何も言わない。
そのこと自体が、今の状況をよく表していた。
アリアは少しだけ苦く笑う。
「すごい、のかしら」
「うん」
セレナは真剣に頷く。
「だって今の侯爵様、初めてお姉様とちゃんと話していたもの。前はずっと、決めたことを伝えるだけだったのに」
その言葉に、アリアはふと気づく。
たしかにそうだ。
今日のローデン侯爵は、初めて彼女を真正面から説得しようとした。
それはつまり、今のアリアを「伝えるだけで従う相手」ではなく、「向き合わなければ動かない相手」と認識したということでもある。
嬉しいわけではない。
けれど意味はある。
もう誰も、自分を都合よく静かなままで置いてはおけないのだ。




