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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第30話 届いた返書は、彼女を待っていた

 ローベルトから返書を受け取った瞬間、アリアはまだ寝台の端に腰掛けたまま、しばらく動けなかった。


 朝の光はやわらかく、窓の外では春先の風が木々の先を揺らしている。ほんの少し前までなら、この時間に届く一通の手紙は、せいぜい家の都合を運んでくるものだった。父の指示、母の意向、王城からの問い合わせ。どれも彼女自身より先に、別の誰かの事情を背負っていた。


 けれど今、手の中にある封書は違う。


 伯爵家の返答案に対する返書。

 しかも差出人は、隣国公爵レオンハルト。


 それはもう、家の中で静かに処理されるだけの紙ではなかった。


「お嬢様」


 ローベルトが控えめに声を落とす。


「先にお目通しなさいますか」


 アリアは小さく頷いた。


「ええ。今、ここで」


 封を切る指先は、少しだけ熱を持っていた。

 緊張しているのだろう。

 けれど嫌な緊張ではない。

 むしろ、自分の返答がちゃんと相手へ届き、その先にまた言葉が返ってきたことへの、静かな高鳴りに近かった。


 便箋は一枚。

 文は短い。

 だが、その短さの中に迷いがなかった。


 ――伯爵家ならびにあなたの返答を受け取りました。

 ――王城の判断も踏まえ、受け入れの準備を進めます。

 ――あなたの意思が、家の文面の中にきちんと記されたことを嬉しく思います。

 ――こちらでは、原本・草案群の閲覧に加え、北方越境路現場の覚え書きや修繕記録も揃えておきます。

 ――来るかどうかを決めるのは、最後まであなた自身であってほしい。

 ――私はその判断を待ちます。


 最後の一文で、アリアの指が止まった。


 来るかどうかを決めるのは、最後まであなた自身であってほしい。


 それは、これまで誰からも向けられたことのない種類の信頼だった。


 父はようやく席に着かせた。

 母はようやく意思を聞き始めた。

 王城はようやく必要だと言った。

 侯爵家はようやく惜しいと思い始めた。


 けれどレオンハルトだけは、その最初からずっと、彼女の「読む力」だけでなく、「決める力」も当たり前のように前提にしている。


 それがひどく嬉しく、少しだけ怖かった。


「……待つ、のね」


 小さく呟く。


 急かさない。囲い込まない。

 必要だと伝えたうえで、最後はあなたが決めてほしいと言う。


 そんなふうに言われたことがないからこそ、その言葉は胸の深いところへ真っ直ぐ落ちた。


「良いお返事でございましたか」


 ローベルトの問いに、アリアは顔を上げた。


「ええ」


 声が少しだけやわらかくなる。


「でも……優しすぎて、少しだけ困るわ」


 老執事はわずかに目を細めた。


「困る、でございますか」


「だって、待つと言われると、きちんと自分で決めなければならないでしょう」


「それは、本来そうあるべきことかと」


「ええ。そうなのよね」


 アリアは便箋をもう一度見つめた。


 待つ。

 その言葉には責任がある。

 相手の善意に甘えて曖昧にしてはいけない、という重みもある。


 だからこそ、今の自分には必要な言葉なのだとも思う。


「お父様には」


「まだお伝えしておりません」


「では、まず私から話したいわ」


 ローベルトが深く頷く。


「かしこまりました」


 支度を整えて食堂へ向かう途中、アリアは何度も無意識に胸元へ手をやっていた。手紙そのものはもうローベルトが預かっている。けれどそこに何かが残っているような気がしてしまう。


 食堂へ入ると、今朝の空気は昨夜よりさらに張りつめていた。


 ベルナールは新聞を開いているが、ほとんど読んでいないのが分かる。

 マルグリットは紅茶を持つ手が少しだけ落ち着かない。

 セレナは明らかにこちらの顔色を窺っている。


「おはようございます」


 アリアの声に、三人が同時に顔を上げた。


「……返書は?」


 父が挨拶より先に問う。


 アリアは驚かなかった。

 今の伯爵家にとって、それが最優先なのだろう。


「届いています」


「なんとあった」


 席につく前に、アリアは静かに答えた。


「王城の判断を踏まえ、受け入れの準備を進めると」


 母が息を詰める。

 父の視線が鋭くなる。

 セレナは唇をきゅっと引き結んだ。


「そして」


 アリアは少しだけ間を置く。


「最後まで、私自身が決めてほしいとありました」


 その一言で、食堂の空気が変わった。


 ベルナールはすぐには返事をしなかった。

 マルグリットも目を伏せる。

 セレナだけが、少しだけほっとしたような顔をする。


「……そうか」


 父の声は低い。


「こちらへ見せなさい」


「はい」


 朝食はいつも以上に短かった。

 誰も余計な話をしない。

 だが今日の沈黙は、以前のような「言っても仕方ない」沈黙ではない。皆が同じ一通の返書を軸に、それぞれ別のことを考えている沈黙だった。


 食後、執務室へ移ると、アリアは自分の手でレオンハルトの返書を父へ渡した。


 ベルナールは最後まで読み、マルグリットへ回す。

 母はその最後の一文を読んだところで、ほんの少しだけまつげを伏せた。


「……待つ、のね」


 さっきアリアが呟いたのと、同じ言葉だった。


「はい」


 ベルナールは返書を机に置き、指で軽く叩いた。


「やりにくい相手だ」


 その言い方に、アリアは少しだけ目を瞬いた。


「やりにくい、ですか」


「おまえを急かさず、無理に引き寄せもせず、それでいて受け入れ準備は進めると言う。つまり、こちらが止めるなら止めるで、理由を明確にせねばならん」


 なるほど、とアリアは思う。


 父は父なりに、レオンハルトの返書の重さを正確に読んでいるのだ。


 待つと言いながら、流れは止めない。

 判断はアリアへ返しながら、外堀はきちんと埋める。

 そのやり方は穏やかで、けれど非常に強い。


 マルグリットが静かに言う。


「誠実なのね」


 ベルナールは少しだけ苦い顔をした。


「誠実だからこそ厄介だ」


 アリアはそのやり取りを聞きながら、胸の奥で静かに頷いた。


 そう。

 強引に奪おうとされるなら、怒ればよかった。

 甘い言葉で囲われるなら、警戒すればよかった。

 けれど今、自分の前にあるのは「最後まで自分で決めてほしい」と言う人からの返書だ。


 それは逃げ道をくれるようでいて、実は一番誤魔化しの利かない形だった。


「お父様」


 アリアは静かに口を開く。


「私は、返書を読んで……前より行きたい気持ちが強くなりました」


 ベルナールが顔を上げる。

 マルグリットも、セレナも同じようにこちらを見る。


「なぜだ」


 父の問いに、アリアは少しだけ考え、それから答えた。


「待つと言われたからです」


 マルグリットが小さく目を見開く。


「待つ、から?」


「はい。急かされるのでもなく、囲われるのでもなく、最後まで私が決めていいのだと言われたことで、逆にはっきりしました」


 自分でも、その言葉は少し不思議だった。

 けれど本当なのだ。


 無理に連れていくと言われたら、怖かったかもしれない。

 必要だから来いと命じられたら、反発したかもしれない。

 でも、待つと言われた。決めてほしいと言われた。


 だからこそ、自分の中の「行きたい」が、誰の影響でもなく、ちゃんと自分のものとして立ち上がったのだ。


 ベルナールはしばらく黙っていたが、やがてゆっくり頷いた。


「……そうか」


 短い返事だった。


 だがその短さの中に、否定の色はなかった。


 マルグリットは視線を落とし、静かにカップを置く。


「私は、まだ怖いわ」


 ぽつりとした告白。


「でも、あなたが今の言葉を口にした時の顔を見たら……前みたいに『やめなさい』とは言えないの」


 アリアは母を見る。


 そこにあるのは、迷いと寂しさと、そして遅すぎる理解だ。

 それでも、今はそれでいいと思えた。


「ありがとう」


 小さくそう言うと、マルグリットは少しだけ困ったように笑った。


 その時、執務室の外でノックが響いた。


 ローベルトが入ってきて、一礼する。


「旦那様、侯爵家より使いが」


 全員の表情がわずかに変わる。


「今回は書簡のみでございます。ローデン侯爵様より『本日夕刻、カイル様を遣わす』とのことです」


 また来るのだ。


 アリアは静かに息を吐いた。


 当然だろう。

 返答案が届き、公爵からの返書も来た。

 王城が動き、伯爵家が応じた。

 侯爵家だけが黙って座しているわけがない。


「……分かった」


 ベルナールが低く答える。


「今度は、最初からおまえも同席だ」


 アリアはまっすぐ頷いた。


「はい」


 もう隠れない。

 もう都合よく外されない。

 自分のことを話す席に、自分の席がある。


 その当たり前が、ようやくこの家にも根づき始めている。


 執務室を出たあと、セレナが小走りで追いついてきた。


「夕刻にまたカイル様が来るの?」


「ええ」


「お姉様、大丈夫?」


 同じ問いを何度も繰り返す妹に、アリアは少しだけ笑う。


「たぶんね」


「たぶん?」


「怖くないわけじゃないもの」


 そう答えると、セレナは真剣な顔で言った。


「でも今のお姉様なら、前みたいに飲み込まれない気がする」


 その言葉が、やけに嬉しかった。


 自分でそう思うだけでなく、近くにいる人間にもそう見えるのだ。


「……そうだといいわ」


 そう返しながら、アリアは胸の中ではっきり感じていた。


 返書が届いた夜から、自分の中で何かがまた一段、定まった。

 行きたい。

 見たい。

 そして今はもう、その気持ちを隠す理由がどこにもない。

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