第29話 返事が出た夜、もう後戻りはできなかった
返答案が正式に封じられた瞬間、執務室の空気はほんの少しだけ変わった。
目に見えるものは何も変わらない。
机の上にはまだ同じ紙が並び、インクの匂いも、窓の外の暗さもそのままだ。
けれど、そこにいる三人――ベルナール、マルグリット、そしてアリアの胸の内では、たしかに一線が越えられていた。
もう口先だけではない。
伯爵家の印のもとに、アリア・ウェルグラン本人の意思が書かれた返答案が出る。
王城の暫定判断も添えられる。
その文書が隣国公爵のもとへ届けば、今までのように「家の中で様子を見る」だけでは済まなくなる。
「ローベルト」
ベルナールが低く呼ぶと、老執事がすぐに入ってきた。
「この返答案は今夜のうちに公爵閣下側の使いへ渡せ。王城への控えも同時に出す」
「かしこまりました」
ローベルトは両手で文書を受け取り、慎重に胸元へ抱える。その所作がいつも以上に丁寧なのは、この紙の重みを彼も理解しているからだろう。
扉が閉まり、再び静けさが戻る。
ベルナールは背もたれに身を預け、長く息を吐いた。
「……これで、侯爵家も黙ってはいまい」
その言葉に、マルグリットが小さく目を伏せる。
「ええ」
「おそらく明日にはまた来る。今度は“確認”ではなく、“止める”ために」
アリアは父の言葉を黙って聞いていた。
それはもう分かっている。
侯爵家は異議を出した。
代替案も示した。
それでも伯爵家が前向きな返答を出した以上、次はもっと直接的になるだろう。
婚約そのものを盾にするのか。
社交界の評判を持ち出すのか。
あるいはカイル本人の感情を前に出してくるのか。
どの形になるにせよ、もう「穏便な婚約者同士の話し合い」では済まない。
「アリア」
不意に母が呼んだ。
「はい」
「今日は、もう休みなさい」
その声音は、命令というより気遣いに近かった。
ほんの少し前までなら考えられない種類の。
アリアは驚いたが、すぐに小さく頷いた。
「そうします」
席を立ちかけた時、ベルナールが低く言った。
「一つだけ覚えておけ」
アリアは振り返る。
「今夜の返答案で、おまえはもう“家の中で静かにしている長女”ではなくなった」
その言葉は、まるで確認のようだった。
アリアは静かに答える。
「はい」
「明日から先、侯爵家も、王城も、隣国も、それぞれにおまえへ違うものを求めてくるだろう」
「はい」
「おまえ自身が何を望むのか、それを見失うな」
それは父にしては驚くほどまっすぐな言葉だった。
家のために。
体面のために。
軽率に動くな。
そういう言い方ではなく、本人の望みを見失うな、と言う。
アリアは一瞬だけ言葉を失い、それから深く頭を下げた。
「……はい。忘れません」
執務室を出ると、廊下の空気が少しだけ冷たかった。
夜はもう深い。
燭台の火が壁に揺れ、絨毯が足音を吸い込む。
遠くで扉の開閉する音がするたび、返答案を持って走る使いの姿を想像してしまう。
今ごろ、ローベルトが公爵側へ文書を渡しているのだろうか。
王城への控えも、もう門を出たのだろうか。
そう思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
けれどそれは、不安だけではなかった。
むしろ、自分が本当に外へつながる線の上へ立ったのだという実感が、少しずつ身体へ馴染んでいくような感覚に近かった。
廊下の角を曲がったところで、セレナが待っていた。
やっぱり、とアリアは思う。
妹は最近、こういう時に必ずいる。
「どうだった?」
小さな声。
「返答案、出したわ」
アリアがそう答えると、セレナは目を見開いた。
「本当に?」
「ええ。お父様が決めたの」
「じゃあ……本当に、進むのね」
その一言に、アリアは少しだけ笑った。
「そうみたい」
セレナは少し黙ってから、そっと言う。
「怖くないの?」
その問いは、今夜だけで二度目だ。
でも答えは変わらない。
「怖いわ」
素直にそう返す。
「でも、止まりたくはないの」
セレナは唇を結び、それから姉の顔をじっと見た。
「お姉様、今……なんだか綺麗」
「またそんなことを」
「本当よ。飾っているからじゃなくて」
妹は言葉を探しながら続ける。
「ちゃんと自分で決めてる人の顔になってる」
その言い方が、アリアにはひどく新鮮だった。
昔の自分はきっと、「綺麗」と言われる時、それが見た目や装いの話でしかないと思っていた。
でも今、セレナが言っているのはそうではない。
自分で決めている顔。
それはたぶん、以前のアリアにはなかったものなのだろう。
「……ありがとう」
少し照れくさくなってそう返すと、セレナはようやく少しだけ笑った。
「明日、カイル様たちがまた来るかもしれないのよね」
「たぶん」
「その時、わたくしも席にいていい?」
アリアは驚いて妹を見る。
「あなたも?」
「だって……」
セレナは目を伏せる。
「今まで、わたくしも何も知らないまま、何も考えないままそこにいたから」
その言葉には、前より少しだけ強い後悔が滲んでいた。
「今さらなのは分かってる。でも、今さらだからって、もう知らないままではいたくないの」
アリアはすぐには返事ができなかった。
妹のその言葉は、ずっと前から欲しかったものなのかもしれないと思ったからだ。
完璧な理解ではない。
十分な償いでもない。
でも少なくとも、「知らないままではいたくない」と言ってくれる人が、自分のすぐ近くにようやく現れたのだ。
「お父様が許せば、ね」
そう答えると、セレナは小さく頷いた。
「うん」
「でも、ありがとう」
「え?」
「そう思ってくれたこと」
セレナは少しだけ目を丸くして、それから照れたように笑った。
自室へ戻ると、アリアはすぐに寝台へ向かわなかった。
机の引き出しを開け、今までやり取りしてきた手紙を一通ずつ取り出す。
最初の短い紙片。
夜会のあとに届いた礼。
軽んじないと書かれた手紙。
隣国への招き。
そして今夜、伯爵家の名で出された返答案の控え。
順に並べてみると、自分の人生がこの数日でどれほど急に動き始めたのかが、紙の枚数だけでもよく分かる。
少し前まで、自分の名前はこうしたやり取りの中にほとんどなかった。
伯爵家を通して、家の者として、静かな補助として、いつも主語の外側に置かれていた。
けれど今は違う。
紙の上に、アリア・ウェルグランと書かれている。
本人の意思、と書かれている。
臨時協力、と書かれている。
その違いが、じわじわと胸へ沁みてくる。
「……もう戻れないのね」
小さく呟くと、その言葉は夜の部屋に吸い込まれていった。
戻れない。
それは怖いことでもある。
でも、それ以上に自然なことのようにも思えた。
だって本当は、ずっと前からここにあったのだ。
読むことも、探すことも、繋げることも。
ただ、それがようやく見える場所へ出てきただけ。
寝台へ入っても、すぐには眠れなかった。
父の言葉を思い返す。
明日から先、それぞれが違うものを求めてくるだろう、と。
王城は実務を求める。
隣国は視点と判断を求める。
侯爵家は婚約の維持と体面を守ろうとする。
伯爵家は家の立場と娘の意思の間で揺れる。
その中で自分は、何を選ぶのか。
けれど、少なくとも一つだけは分かっていた。
もう誰かの都合に合わせて、自分の望みを最初から小さくするつもりはない。
それだけは、今夜はっきりしている。
明け方近くになってようやく浅い眠りに落ちたアリアは、翌朝、珍しく夢の記憶を持たずに目を覚ました。
窓の外には澄んだ光が差し込んでいる。
春の空は高く、風も昨日より少しだけ柔らかい。
今日は何が来るのだろう。
侯爵家か。
王城か。
あるいは隣国から、もう返事が届くのか。
そう思った時、扉の向こうで控えめなノックが響いた。
「お嬢様、お目覚めでしょうか」
ローベルトの声だった。
「ええ」
「公爵閣下から、返書が届いております」
胸の奥で、また静かに何かが鳴る。
返答案は、ちゃんと届いたのだ。
そして向こうもまた、もう動いている。




