第21話 会議の席に、初めて当事者として座る
翌朝の伯爵家は、表向きにはいつも通りだった。
朝の鐘が鳴り、使用人たちが廊下を行き交い、食堂には温かな紅茶と焼きたてのパンの香りが満ちる。窓の外ではまだ冷たい春の風が木々を揺らし、陽光は明るいのに、どこか空気の芯だけが張りつめていた。
何もかもが平常通りに見えるのに、誰も平常のままではいない。
アリアは食堂へ向かう前、自室の鏡の前でほんの少しだけ立ち止まった。
映る顔は、ここ数日で劇的に変わったわけではない。相変わらず地味で、静かで、目立つような華やかさもない。けれど以前のような、最初から自分を引いた位置へ置く顔ではなかった。
今日、自分は席につく。
自分の婚約と、自分の仕事と、自分の行き先を話し合う席に。
最後に結果だけを聞かされるのではなく、最初からそこにいる。
その違いは大きかった。
「お嬢様、よくお似合いです」
マリーが後ろから微笑む。
今日アリアが選んだのは、いつもの深い青のドレスだった。派手さはないが、線がまっすぐで、肩や首の見え方がきれいな一着。誰かに愛らしく見せるためではなく、自分が落ち着いて呼吸できる服を選んだ結果だった。
「ありがとう」
「今日は……きっと、大丈夫です」
侍女のその一言に、アリアは少しだけ笑った。
「大丈夫かどうかは、まだ分からないわ」
「でも、お嬢様はもう前みたいなお顔ではありませんもの」
その言葉を胸のどこかへしまい込んで、アリアは部屋を出た。
食堂にはすでに父ベルナールと母マルグリットがいた。セレナも早くから来ていて、どこかそわそわと落ち着かない様子でナプキンの端をいじっている。
カイルの姿はない。
だがそれは不自然ではなかった。今日はまず伯爵家内で話を整え、そのあと侯爵家と詰める流れになるのだろう。
「おはようございます」
アリアが頭を下げると、父は新聞を畳みながら「おはよう」と返した。母も静かに頷く。昨日までのぎこちなさはまだ残っているものの、少なくとも今朝は露骨な冷たさはない。
それだけでも、この家では十分に変化だった。
朝食はいつもより短く終わった。
誰も余計な話をしない。話題を広げれば、どうしたって今日の本題へ触れてしまうからだろう。
セレナだけが一度だけ、アリアの方を見て小さく頷いた。
「大丈夫」と口に出さずに伝えようとする仕草だった。
食後、父が立ち上がる。
「一刻後に執務室へ来なさい」
それはアリアに向けた言葉だった。
「はい」
「母上も同席する。まずは家の中で方針を決める」
家の中で。
その言い方に、アリアは小さく息を吸った。
まだ「私のこと」とは言わない。
けれど少なくとも「おまえは外しておく」でもなくなった。
前へ進んでいる。少しずつでも。
一刻という時間は、思っていたより短かった。
自室へ戻っても落ち着かず、アリアは結局古書庫へ向かった。紙の匂いと棚の静けさの中にいると、自分の輪郭が少しだけ定まる気がしたからだ。
ローベルトは机の上を整えながら、娘のように長く見てきた主の長女へ静かな視線を向ける。
「緊張しておられますな」
「ええ」
隠しても仕方ないので、そのまま認める。
「今さら、急に強くはなれないわ」
「強くなる必要はございません」
老執事は穏やかに言った。
「お嬢様は、お嬢様のままでよろしいのです」
その一言が、変に胸へ残る。
お嬢様のままで。
今まで何度も「令嬢らしく」と言われてきた。
だがそのほとんどは、誰かの求める形へ寄れという意味だった。
今ローベルトが言う「お嬢様のまま」は、たぶん正反対だ。無理に変わらず、自分の持つものを隠さなくていいということなのだろう。
「……ありがとう」
一刻後、アリアは執務室の前に立った。
扉の向こうには、父と母の気配がある。侯爵家の者はいない。今日はまず、伯爵家としてどうするかを決める場なのだ。
ノックをすると、父の声が返る。
「入れ」
室内にはベルナールとマルグリットが向かい合うように座っていた。
机の上には、隣国からの招待状の写し、王城からの急ぎ文、それに伯爵家としての返書案らしき紙が何枚か並んでいる。
そして空いている椅子が一つ。
アリアはその席を見た瞬間、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
ちゃんと、席がある。
最初からここに、自分の席が用意されている。
「座りなさい」
父の声に促され、アリアは静かに腰を下ろした。
誰もすぐには口を開かなかった。
先に話し始めたのは母だった。
「アリア。まず確認したいのだけれど」
「はい」
「あなたは本当に、隣国へ行きたいのね」
昨日と同じ問いに見えて、重さが違う。
昨夜の私室での母の問いは、まだ感情の揺れの中にあった。
今は違う。これは伯爵家の母として、家の会議の席で、娘本人に意思を確認する問いだ。
アリアはまっすぐ頷いた。
「はい」
「理由は?」
それも大事な問いだった。
公爵に言われたから。必要とされたから。そこに惹かれたから。
理由はいくつもある。
けれど今、この場で最も本質なのはそこではない。
「原本を見たいからです」
アリアは静かに答える。
「王国の写しだけでは、もう見えない部分があると分かってしまいました。隣国側に残っている草案や原本を見れば、今まで繋がらなかったものが繋がるかもしれません」
母は黙って聞いている。
父も、途中で遮らない。
「それに」
アリアは少しだけ息を吸った。
「私はもう、自分が見たいと思うものを、最初から諦めたくありません」
その一言のあと、部屋にはしばらく沈黙が落ちた。
ベルナールは机の上で指を組み、やがて口を開く。
「王城の立場から言えば、これは好都合でもあり、厄介でもある」
父らしい切り口だった。
「好都合というのは?」
アリアが問うと、ベルナールは視線を上げる。
「隣国側の原本に直接触れられるなら、王城が長く抱えてきた北方越境路の混乱は、一気に整理が進む可能性がある。おまえの目と隣国側の資料が合わされば、現場の運用まで変えられるかもしれん」
「では、厄介なのは」
「その手柄がどこへ落ちるか分からんことだ」
やはりそこか、とアリアは思う。
父は続ける。
「王城としては解決したい。だが『隣国の公爵に招かれた伯爵家の長女が、原本を見て整理した』という形になると、政治的にも社交的にも余計な意味を持つ」
母がそこで口を挟む。
「しかも婚約中の身で、でしょう?」
「そうだ」
父の声は低い。
「侯爵家がどう受け取るか。王城のどの派閥がどう見るか。隣国がこちらをどこまで取り込めると読むか。すべてが絡む」
言っていることは正しい。
だからこそ、この席にアリアがいる意味がある。
今まではそうした「大人の事情」を理由に、全部が彼女抜きで進められてきたのだから。
「お父様」
アリアは静かに口を開く。
「私は、家や王城の都合を無視したいわけではありません」
父が娘を見る。
「それでも、私の望みはそこから先に消されるべきではないと思っています」
ベルナールは数秒黙り、それからゆっくり頷いた。
「だから今、おまえをここへ座らせている」
その言葉に、アリアの心が静かに揺れた。
それは事実だった。
父は今、不器用なりに、前と違うことをしようとしている。
母マルグリットが、少しだけ硬い声で言った。
「問題は、侯爵家です」
空気がまた変わる。
「向こうは婚約を軽々しく動かせなくなっている。けれどそれは、あなたを大切に思い始めたからではないわ」
「分かっています」
アリアはすぐに答える。
「今さら価値を数え直しているだけです」
母はそのあまりの直截さに、一瞬言葉を失ったようだった。
だがすぐに、苦く小さく頷く。
「……ええ。そうね」
認めた。
母が、侯爵家の動きをそう表現することを。
少し前なら考えられなかったことだった。
「ならば」
ベルナールが机上の紙を指先で叩く。
「伯爵家としてまず考えるべきは、侯爵家に先回りされる前に、こちらの方針を固めることだ」
「方針」
アリアが繰り返すと、父は言った。
「隣国の招きに、前向きに応じるかどうか」
部屋の空気がぴんと張る。
いよいよ、その言葉がはっきり口にされた。
前向きに応じる。
つまり、行く可能性を伯爵家として本気で検討する、ということだ。
「私は」
アリアはすぐに答えた。
「前向きに応じたいです」
迷いはなかった。
父も母も、その即答にわずかに目を見開いた。
たぶんまだどこかで、娘が最後の最後で遠慮するとでも思っていたのだろう。
だが今のアリアはもう、自分の望みを誤魔化さない。
マルグリットが低く問う。
「怖くはないの?」
「怖いです」
それも正直に答える。
「でも、怖いからやめたいとは思いません」
その返答に、母はしばらく黙った。
それから、とても静かな声で言う。
「そう……」
否定ではない。
少なくとも、前なら「女がそんな危ういところへ」から始まっていただろう。
今は違う。
母もまた、アリアが本気なのだと、ようやく真正面から受け取り始めている。
その時、執務室の扉が叩かれた。
父が眉を寄せる。
「誰だ」
外から聞こえたのは、使用人の緊張した声だった。
「旦那様、ローデン侯爵家より急ぎの使いが」
来た。
三人が同時に息を止めたのが分かった。
あまりに分かりやすいタイミングだった。
伯爵家の中でようやく前向きに応じるかどうかを話し始めた、その最中に侯爵家から使いが来る。
ベルナールが低く言う。
「通せ」
扉が開き、昨日と同じ家令エルムが姿を見せる。
だが今日は前回よりも明らかに急いでいた。礼は崩れていないが、額にうっすら汗が浮いている。
「突然失礼いたします、ベルナール伯」
「用件は」
エルムは視線を一度だけアリアへ向け、それからはっきりと言った。
「侯爵様より。アリア様の隣国行きに関する話があるゆえ、本日中にローデン家として正式な意向を伝えたいとのことです」
執務室の空気が凍る。
隣国行き。
ついに侯爵家は、それを「ありうること」として認めたのだ。
つまり彼らもまた、もうアリアがこの家に残る前提だけでは話せなくなっている。
父ベルナールの目が険しくなる。
「正式な意向、だと」
「はい。侯爵様ご自身とカイル様が、伯爵家へ赴くとのことです」
アリアの指先がわずかに冷たくなる。
来る。
直接、ここへ。
それも今日。
家令エルムはさらに続ける。
「つきましては、アリア様にもご同席いただきたいと」
その一言に、アリアは父を見る。
ベルナールもこちらを見返した。
ほんの少し前なら、そんな申し出は受けなかっただろう。
婚約の話は家と家のもの、娘は最後に知らされればいい。
それがこの家の常識だった。
けれど今は、その前提がもう崩れかけている。
ベルナールは短く息を吐いた。
「……分かった」
低い声。
「アリアも席に入る」
その宣言を聞いた瞬間、アリアは胸の奥で何かが大きく動くのを感じた。
もう戻れない。
本当に、もう戻れないのだ。
この家に残る前提が揺らぎ、侯爵家さえそれを無視できなくなり、そして自分はその場の端ではなく、最初から席につく。
望んだことが、少しずつ現実の形を取ってきている。
エルムが去ったあと、執務室にはしばらく誰も口を開けなかった。
最初に沈黙を破ったのは、意外にもマルグリットだった。
「……本当に、大きくなってしまったのね」
その声は、事態に向けたものなのか、娘に向けたものなのか、アリアにはすぐには分からなかった。
だがベルナールは、低くはっきりと言う。
「もう『いずれ侯爵家へ入る長女』というだけでは済まん」
それは認識の更新だった。
父が今、ようやくそこまで口にした。
アリアは静かに目を伏せる。
嬉しいのとも違う。
むしろ、長かったのだと思う。
ここへ来るまでが。
そして、ようやく本当の意味で、自分の物語が動き出すのだとも思った。




