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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第20話 この家に残る前提が、もう揺らいでいる

 父ベルナールの執務室へ向かう廊下を歩きながら、アリアは不思議なほど静かだった。


 数日前までなら、呼ばれるたびに胸のどこかが縮こまっていた。

 何を言われるのか。

 何を求められるのか。

 自分の気持ちなど聞かれないまま、また何かが決められるのではないか。

 そんな予感ばかりが先に立っていた。


 けれど今は違う。


 もちろん緊張はある。

 父が何を言うのか、手紙をどう受け取るのか、侯爵家とどう折り合いをつけようとしているのか、分からないことは多い。

 それでも、以前のような「ただ従うしかない」という感覚は、もうなかった。


 自分はもう、自分の望みを知っている。


 行きたい。

 見たい。

 この目で確かめたい。

 そして、それを口にした。


 それだけで、人はこんなにも歩き方が変わるのかと、アリアは少しだけおかしく思う。


 執務室の前には、すでにマリーが控えていた。


「お嬢様、伯爵様がお待ちです」


「ありがとう」


 ノックをすると、父の短い返事があった。


「入れ」


 中へ入ると、ベルナールは机の向こうではなく、窓際の長椅子に座っていた。書類を読む時の顔ではない。考えごとをしている時の顔だった。


 母マルグリットはいない。カイルもいない。

 今夜ここにいるのは父と娘だけらしい。


 それだけで、少しだけ空気が違う。


「座りなさい」


 促され、アリアは向かいの椅子へ腰を下ろす。


 机を挟まない位置関係が、妙に落ち着かない。

 父とこうして正面から話すこと自体、ほとんどなかったからだ。


「手紙を」


 ベルナールが手を差し出す。


 アリアは封書を渡した。


 父はすぐに封を切らず、しばらくそれを手にしたまま眺めていた。まるでそこに書かれている内容だけではなく、この封書が今ここにあること自体の重みを測るように。


 やがて便箋を取り出し、最後まで読む。


 途中で眉を寄せることも、ため息をつくこともなかった。

 だが読み終えたあと、父はしばらく沈黙したままだった。


 アリアも急かさない。


 静けさの中で、窓の外の風の音だけがかすかに聞こえた。


「……おまえは本気なのだな」


 ようやくベルナールが口を開いた。


「はい」


 アリアは迷わず答えた。


 父は娘を見た。

 その目には怒りも軽蔑もない。

 ただ、今まで見たことのない種類の重たさがあった。


「隣国へ行きたいと」


「ええ」


「数日とはいえ、伯爵家の外へ。しかも公爵の招きで」


「はい」


 返事を重ねるたび、自分の中でもその事実が少しずつ輪郭を増していく。

 隣国へ行きたい。

 公爵の招きに応じたい。

 紙の上ではなく、この目で原本を見たい。


 もうその気持ちは、誰の前でもぼやかしたくなかった。


 ベルナールは深く息を吐いた。


「おまえは、これがどれほど大きなことか分かっているのか」


「全部ではありません」


 アリアは正直に言う。


「でも、小さなことではないとは分かっています」


「ならば話が早い」


 父は封書を机へ置いた。


「これは単に『本を見に行く』という話ではない。隣国の公爵が伯爵家の長女を招く。それだけで社交界は騒ぐし、侯爵家も黙ってはいない。王城も、こちらがどこまで隣国へ近づくのかを気にするだろう」


「はい」


「そして何より、おまえ自身がどう見られるかが変わる」


 その言葉に、アリアは少しだけ首を傾けた。


「どう見られるか、ですか」


「そうだ。今までのおまえは、少なくとも表向きには、伯爵家の静かな長女だった。婚約も決まり、目立たずとも定まった道の上にいた」


 父の声音には、どこか苦い実感が混じっていた。


「だが、もし隣国へ行けば、その前提そのものが揺らぐ」


 その指摘は、アリアの胸へ静かに落ちた。


 そうかもしれない、と思う。


 これまで皆が当然だと思っていたのだ。

 アリアはこの家に残る。

 婚約は続く。

 静かに、波を立てず、必要な時だけ使われながら、最終的には侯爵家へ入る。


 その「当然」が、今まさに揺らいでいる。


 父の言葉は、その事実を初めて明確に形にした。


「おまえが今ここで『行きたい』と言ったことで、皆ようやく気づき始めている」


 ベルナールはゆっくりと言う。


「おまえがずっとここにいるとは限らない、と」


 アリアはその言葉を黙って聞いた。


 父がそこまで言うとは思っていなかった。

 彼自身も、ようやく見えてきたのだろう。

 娘が「残る前提」の中だけで生きるとは限らないことを。


「お父様は」


 アリアは静かに尋ねる。


「それを困るとお思いですか」


 ベルナールはすぐには答えなかった。


 その沈黙が、逆に本音をよく表していた。


「伯爵家にとって困ることは、いくつもある」


 やがて父はそう言った。


「王城とのやり取り。侯爵家との関係。社交界での見られ方。おまえが今まで担ってきた文書の整理」


 そこまでは予想通りだった。


 だが父は、その先で少しだけ視線を逸らした。


「……そして」


 言い淀む。


 アリアは待った。


「そして、私自身にとっても、おそらく」


 その一言は、驚くほど小さかった。


 それでもアリアには、はっきり聞こえた。


 私自身にとっても。


 父が、家ではなく自分を主語にした。

 それは本当に、本当に珍しいことだった。


「お父様」


 アリアは思わずその名を呼ぶ。


 ベルナールは苦々しげに口元を引き結んだ。


「誤解するな。急に情に絆されたわけではない。ただ……」


 そこで言葉を探し、結局こう続けた。


「おまえがここにいて当然だと思っていたのだろう」


 その率直さに、アリアは何も言えなくなった。


 ここにいて当然。

 それはまさに、自分が感じていたことそのものだったからだ。


 父も母も侯爵家も、そしてカイルも。

 皆どこかで、アリアがここにいて当然だと思っていた。

 大きく泣きもせず、求めもせず、反抗もせず、必要な時にだけ静かに役に立つ存在として。


 けれど今、その前提が揺らいでいる。


 ベルナールはようやくそれを認めたのだ。


「……私は」


 アリアはゆっくりと言葉を選ぶ。


「ずっと、お父様たちがそう思っていることに気づいていました」


 父の肩がわずかに動く。


「だから、出ていくことを考えたこともなかったのです。考えてはいけないと思っていました」


「だが今は違う」


「はい」


 はっきり頷く。


「今は違います」


 部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

 父もまた、それを感じたのだろう。

 以前のように「従順な娘」として扱うだけでは、もうこの会話は進まないのだと。


「……侯爵家は、この招きをよく思わんだろう」


 ベルナールは現実的な話へ戻った。


「特にカイルは」


「ええ」


「おまえも分かっていると思うが、あれは今、焦っている」


 父の口からその言葉が出たことに、アリアは少しだけ驚いた。


「分かるのですか」


「分からぬほど鈍くはない」


 短い返しだったが、それで十分だった。


 ベルナールもまた、息子同然に見ていた侯爵令息の歪みを認め始めているのだ。


「侯爵家にとって、おまえはもはや『華やかさに欠ける婚約者』では済まなくなった。だからこそ向こうは、婚約を軽々しく動かせなくなっている」


「でもそれは、私自身のためではありません」


「分かっている」


 父は低く言った。


「だからこそ、私は今すぐ返事を決められんのだ」


 その答えは、ある意味では誠実だった。

 伯爵家の当主として、侯爵家や王城との兼ね合いを捨てて独断できない。

 だが同時に、娘の望みだけを無視して押し切ることも、もうできない。


 アリアは少しだけ考え、それから言った。


「お父様」


「なんだ」


「私は、今すぐ隣国へ行けると期待しているわけではありません」


 ベルナールは黙って聞く。


「でも、ここで曖昧にしたくないのです。行きたいと思っていることも、見たいと思っていることも」


「……ああ」


「そして、もし止めるなら、家の都合だけではなく、私にどうしてほしいのかを、ちゃんと話してほしいのです」


 そこまで言うと、父はしばらく答えなかった。


 やがて深く息を吐き、ゆっくりと頷く。


「分かった」


 その一言に、アリアはわずかに肩の力を抜いた。


 この「分かった」は、以前とは違う。

 ただ話を打ち切るための相槌ではなく、少なくとも当人の意思を正面から扱うと認めた響きがある。


「公爵への返事は、今夜のうちには出せまい」


 ベルナールが続ける。


「だが明日、王城と侯爵家の双方へ私から話を通す。そのうえで、伯爵家としてどう答えるかを決める」


「私も、その話に入れていただけますか」


 アリアが問うと、父は少しだけ口元を引き締めた。


「入るべきだろうな」


 たったそれだけ。

 けれど、それは大きな変化だった。


 婚約も、隣国からの招きも、伯爵家の長女のことなのに、今まで彼女抜きで決められるのが当たり前だった。

 それが今、父の口から「入るべきだ」と出たのだ。


 アリアは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 礼を言うべきことなのかどうか、少し迷う。

 だが今は、それでも良かった。


 部屋を出ると、廊下の先にセレナがいた。

 どうやら待っていたらしい。


「どうだった?」


 小声で駆け寄ってくる。


 アリアは少しだけ笑った。


「まだ何も決まっていないわ」


「でも」


「でも、お父様は明日ちゃんと話をするって。私も席に入ることになりそう」


 セレナの目が丸くなる。


「本当に?」


「ええ」


「じゃあ、お姉様のことを、お姉様抜きで決めないってこと?」


 その言い方が少し可笑しくて、アリアは小さく頷く。


「たぶんね」


 妹はほっとしたように胸を撫で下ろした。


「よかった」


「どうして、あなたがそんなに安心するの」


「だって……」


 セレナは少しだけ視線を逸らした。


「今までが変だったんだもの。お姉様のことなのに、お姉様が最後にしか知らないなんて」


 その言葉は、まっすぐで、そして遅かった。

 けれど、その遅さごと受け取れるくらいには、今のアリアは落ち着いていた。


「そうね」


 静かに返す。


「今までが変だったのよ」


 自室へ戻ったあとも、その言葉は胸の中に残った。


 今までが変だった。

 だから今、やっと少しずつ元の形へ近づいているだけなのかもしれない。


 アリアは窓辺に立ち、夜の庭を見下ろした。

 月は高く、風はまだ冷たい。

 けれどその冷たさの中にも、春の柔らかさが少しずつ混じり始めている。


 もう前のままではいられない。

 そのことを、今は不安よりもはっきりと感じていた。


 翌日、何かが大きく動く。

 王城が慌て、隣国が待ち、侯爵家が焦り、伯爵家がようやく現実を見始める。


 そしてその真ん中に、自分がいる。


 以前なら怖くてたまらなかっただろう。

 でも今は違う。

 怖さの中にも、確かな手応えがあった。

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