第19話 行きたいと口にした娘を、誰が止められるのか
その日の古書庫は、妙に広く感じられた。
父ベルナールと母マルグリット、そしてカイルが去ったあとも、空気の揺れだけがしばらく残っていた。棚の並ぶ静かな室内は何も変わっていないはずなのに、先ほどまでそこにいた三人の気配が、紙の匂いの奥に薄く残っている。
アリアは椅子に座ったまま、机に置いた自分の手を見つめた。
まだ少し熱い。
「行きたい」と口にした時の熱だ。
あの場で言ってしまったのは衝動だったのかもしれない。
だが衝動だったからといって、嘘ではない。
むしろ長いあいだずっと胸の底に沈んでいたものが、やっと形になったのだと思う。
行きたい。
隣国に。
閉ざされた棚の外へ。
自分がまだ見たことのない原本と草案群の方へ。
それを認めた今、昔の自分にはもう戻れない。
「お嬢様」
ローベルトがそっと戻ってきた。
「……大丈夫でございますか」
「ええ」
答えた声は思ったより安定していた。
「少し疲れたけれど、後悔はしていないわ」
老執事は静かに頷く。
「左様でございますか」
「初めてだったもの」
「何がでございます?」
「三人に向かって、私が何を望むのかを、ちゃんと口にしたの」
それは思っていた以上に大きなことだった。
父にも、母にも、婚約者にも。
今まではずっと、自分の望みを言う前に、相手がどう受け取るかを考えていた。
家にとって不利益ではないか。
婚約に差し障らないか。
みっともなくないか。
そうしているうちに、望みそのものを自分で押し込めてきた。
けれど今日は違った。
相手の顔色より先に、自分の言葉を置いた。
その結果として場がどう揺れようと、少なくとも嘘はつかなかった。
「お嬢様は、よくおっしゃいました」
ローベルトの声音は静かだったが、そこに偽りの慰めはなかった。
「そうかしら」
「はい。あの場で、お嬢様がご自分の意思をはっきり示されたことが、何より大きうございます」
アリアは少しだけ笑った。
「でも、まだ何も決まっていないわ」
「それでもでございます。決まっていないことと、お嬢様の望みがあることは別です」
その通りだった。
行けるかどうかは分からない。
父が最終的に許すかも分からない。
王城や侯爵家がどう出るのかも分からない。
けれど、行きたいと思っていることだけは、もう否定できない。
それは今のアリアにとって、何より確かな地盤だった。
「……返事を、仕上げてしまいたいの」
アリアがそう言うと、ローベルトはすぐに机の上を整えた。
「承知しました」
「たぶん、お父様はまだ様子を見るでしょう。でも、その前に私の気持ちは、きちんと先方へ返しておきたいわ」
「伯爵様のご確認は必要になるかと存じますが」
「ええ。それでも、私が何を思っているかまでは、曖昧にしたくないの」
ローベルトは何も反対しなかった。
それがありがたかった。
アリアは便箋を引き寄せ、先ほどの下書きを読み返す。
――私としてはぜひ見てみたいと存じます。
――もし叶うのであれば、私はこの目で確かめたいです。
その部分をなぞるように指先が滑る。
読み返しても、やはり気持ちは変わらない。
むしろ、父たちの前で言ったことで、いっそうはっきりした。
彼女は数行だけ書き足した。
――本日、家の者にも私の考えを伝えました。
――容易な話ではないことは承知しておりますが、それでも私は、見たいと思っています。
――もしこの件が実現するなら、それは私にとって初めて、自分の意思で踏み出す一歩になります。
最後の一文を書いた瞬間、胸が少しだけ震えた。
初めて、自分の意思で踏み出す一歩。
それはあまりに正直で、少し照れくさい。
だが今の自分にとって、それ以上に正確な表現もなかった。
書き終えた便箋を見つめていると、古書庫の扉の向こうで控えめなノックが響いた。
マリーだった。
「お嬢様、セレナ様が……」
「入ってもらって」
ほどなくして入ってきたセレナは、先ほどよりずっと落ち着かない顔をしていた。頬が少し赤く、どう見ても急いで来たのが分かる。
「お姉様!」
古書庫へ入るなりそう呼んで、しかし机の上の便箋を見た瞬間、声を小さくする。
「……今、忙しかった?」
「少しだけ。でも大丈夫よ」
「ごめんなさい。どうしても今、聞きたくて」
アリアは椅子から立ち上がり、妹の方へ向き直った。
「何を?」
セレナは少しためらい、それから唇を引き結んだ。
「本当に行くつもりなの?」
やはりそこだ。
伯爵家の中で今いちばん揺れている問いなのだろう。
「まだ決まってはいないわ」
「でも、行きたいのでしょう?」
「ええ」
迷わず答えると、セレナの表情が少し曇った。
驚きなのか、不安なのか、寂しさなのか。
たぶんその全部なのだろう。
「……遠くへ行ってしまうのね」
その呟きは、ひどく子どもっぽく聞こえた。
けれどアリアは、そこに責めるような響きがないことをちゃんと感じ取った。
妹は今、自分の不安をそのまま言っているだけなのだ。
「まだ本当に決まったわけではないわ」
「でも、もし決まったら?」
アリアは少し考えた。
もし決まったら。
隣国へ渡り、原本を見て、数日を向こうで過ごす。
それは伯爵家の中で生きてきた自分にとって、あまりにも大きな変化だ。
だが、怖いからやめたいとは思わない。
「……たぶん、行くと思う」
そう答えると、セレナは目を伏せた。
「わたくし、変ね」
「何が?」
「少し前まで、お姉様がいなくなるかもしれないなんて考えたこともなかったの」
その言葉に、アリアの胸の内で何かが静かに動いた。
考えたこともなかった。
それはあまりに正直で、少しだけ残酷だった。
でもそれが、この家の真実でもあったのだろう。
誰も、アリアがいなくなる未来を想像していなかった。
ずっとそこにいて、必要な時だけ静かに使える存在として、当然のように置いてきた。
「そうね」
アリアは穏やかに返す。
「たぶん、お父様もお母様も、カイル様も、まだちゃんと想像していないのだと思う」
「お姉様がいなくなったら、どうなるのかを?」
「ええ」
セレナは少しだけ顔を上げた。
「お姉様は、想像しているの?」
その問いに、アリアはすぐには答えられなかった。
想像している、と言えば嘘になる。
まだ本当の意味では、自分でも分からない。
ただ、想像し始めてはいる。
自分がいない古書庫。
自分が目を通さないまま積まれる王城からの紙。
父が理解できないまま机の上に置く協定文。
侯爵家が今さら「惜しい」と言っても、もう手元にはない婚約者。
そして、隣国で原本に触れる自分。
「少しだけ」
ようやくそう答える。
「前よりは、ずっと」
セレナは黙り込んだ。
その横顔を見ながら、アリアは思う。
妹もまた、今はじめて「姉がいない未来」を想像しようとしているのだ。
それはきっと、簡単なことではないだろう。
「お姉様」
「なに?」
「もし行くことになったら……わたくし、ちゃんと見送りたい」
思いがけない言葉だった。
アリアは少しだけ目を見張る。
「見送りたいの?」
「ええ」
セレナは小さく頷いた。
「前のわたくしなら、たぶんそんなふうに思わなかった。だって、お姉様はずっとここにいるものだと思っていたから。でも今は……」
そこで言葉を切り、妹はぎこちなく笑う。
「今は、ちゃんと送り出したいって思うの」
その言葉が、なぜだかひどく温かかった。
アリアは少し迷ってから、そっと手を伸ばし、セレナの手の甲に触れた。
妹は驚いたように瞬いたが、逃げなかった。
「ありがとう」
それだけで十分だった。
昔の姉妹なら、こんな触れ方ひとつなかっただろう。
距離が近かったわけではない。
むしろずっと、見えているようで見えていなかった。
それが今、ほんの少しだけ変わっている。
セレナが部屋を出ていったあと、アリアはもう一度机へ戻った。
便箋の最後に、ほんの少しだけ書き足す。
――家の者たちも、まだすべてを受け入れているわけではありません。
――それでも私は、初めて「行きたい」と口にしました。
――そのこと自体を、私は大切にしたいと思っています。
書き終えると、胸の奥が静かに落ち着いた。
これはたぶん、誰かに読ませるためだけの文ではない。
自分自身のための確認でもある。
私は行きたい。
私はそれを大切に思っている。
そうして、もう引き返せない位置まで来ているのだと。
夜が更ける少し前、ローベルトが再びやって来た。
「お嬢様、伯爵様がそのお手紙を確認したいと」
やはり来たか、とアリアは思う。
だが今はもう、心は揺れなかった。
「分かったわ」
便箋を丁寧に畳み、封へ入れる。
そしてふと、ローベルトを見上げた。
「ねえ、ローベルト」
「はい」
「たぶん皆、まだちゃんと分かっていないのね」
「何をでございますか」
「私が本当に行くかもしれないってことを」
老執事はごく静かに笑った。
「左様でございましょうな」
「お父様も、お母様も、侯爵家も」
「はい」
「そしてカイル様も」
「おそらく」
アリアは封を両手で持ったまま、小さく息を吐く。
「彼らはたぶん、まだ『どうせ最終的にはここへ留まる』と思っているのだわ」
「そうかもしれません」
「でも私は……」
そこで言葉を切り、自分の胸の内側にあるものを確かめる。
怖い。
不安もある。
けれど、その全部を越えて、確かにある感情。
「でも私は、もう前みたいには戻れない」
その一言を、アリアは今度こそ確信とともに口にした。




