第18話 公爵からの招き
封筒は、これまでに届いたどの手紙よりも静かな重みを持っていた。
朝の淡い光の中で見るそれは、飾り気のない上質な紙でできている。封の仕方は簡素だが乱れがなく、差出人の名はやはり表にはない。けれどローベルトがわざわざ「公爵閣下から」と言った時点で、誰のものかは明らかだった。
アリアは寝台の脇へ腰掛けたまま、しばらくその封筒を見つめていた。
まず自分に読ませるべきもの。
ローベルトは確かにそう言った。
それが意味することを、彼女はすぐには整理しきれなかった。
伯爵家を無視しているのではない。
だが伯爵家の主人より先に、まずアリアに読ませるという判断がそこにはある。
つまりこれは、家と家の体面や文書上のやり取りだけではなく、彼女自身の意思を確かめる必要がある類の話なのだろう。
「……何でしょう」
小さく呟き、ようやく封を切る。
中には便箋が二枚。
一枚目を開いた瞬間、アリアの呼吸がわずかに止まった。
そこに書かれていたのは、簡潔だが明確な申し出だった。
――北方越境路の旧協定および現行運用の照合のため、我が隣国側に保管されている原本・草案群を直接ご覧いただきたい。
――可能であれば、伯爵家の許しを得たうえで、数日の滞在という形でお招きしたい。
――あなたが望むなら、正式な身分と安全は私が保証する。
最後の一文に視線が釘付けになる。
――あなたが望むなら。
それは、ほかの何よりも強くアリアの心を打った。
父の都合でも、伯爵家の利益でもない。
王城の急ぎでも、交易の必要でもない。
まず先に置かれているのが、あなたが望むなら、という条件だからだ。
これまでの人生で、自分の望みがこうして文章の最初の方に置かれたことが、あっただろうか。
ない。
だからこそ、胸の奥がひどく静かに揺れる。
「お嬢様……?」
ローベルトがそっと声をかける。
アリアは二枚目の紙へ手を伸ばした。
そちらはより私的な文面だった。
――あなたの解釈は、単に一箇所の語義を正しただけではありません。
――王国側が見失っていた運用思想そのものを掘り起こしました。
――この先の整理には、紙の上だけでは足りない場面が出てくるでしょう。
――だからこそ、あなた自身に原本を見ていただきたい。
――もちろん、望まぬのであれば無理にとは言いません。
――ただ私は、あなたが本当に見たいと思うものを、もう閉ざされた棚の中へ戻したくはないのです。
アリアはそこで読み進める手を止めた。
もう閉ざされた棚の中へ戻したくはない。
その言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥に熱いものが広がった。
彼は分かっているのだ。
自分が今ようやく外へ向かい始めたことを。
見つけられたことの喜びと、再び閉じ込められることへの怖さを。
そして、伯爵家の古書庫がアリアにとってどれほど大切で、同時にどれほど狭い場所でもあったのかを。
便箋を持つ指先が、少しだけ震える。
「……隣国へ」
声に出して初めて、その言葉の大きさが実感を伴って迫ってきた。
隣国へ行く。
伯爵家の外へ。
しかも「娘として付き従う」のでも「婚約者として随行する」のでもなく、読む者として、必要とされる者として。
それは、今までのアリアの人生にはなかった種類の招きだった。
「何と……書かれておりましたか」
ローベルトの問いは慎重だった。
アリアはしばらく答えられなかったが、やがて小さく息を吸って言う。
「隣国へ来てほしい、と」
老執事の目が静かに見開かれる。
「正式なご招待で?」
「ええ。北方越境路の原本や草案を、直接見せたいと」
「それは……」
ローベルトも珍しく言葉を選んでいた。
当然だろう。
伯爵家の長女が、隣国の公爵に数日の滞在で招かれる。
しかも目的は社交でも婚礼準備でもなく、文書の照合。
前代未聞とは言わないまでも、普通の伯爵家ならまず起こらない話だ。
「お嬢様は、どうなさりたいですか」
その問いに、アリアの心臓がまた強く鳴る。
どうしたいか。
その言葉は、ここ数日で何度か自分へ向けられるようになった。
母からも、セレナからも、そしてレオンハルトからも。
昔の自分なら、そこへすぐに答えられなかっただろう。望みを持つこと自体に慣れていなかったから。
けれど今は違う。
少なくとも、一つだけははっきりしていた。
「……見たいわ」
アリアは小さく、だが迷わず言った。
「隣国側の原本を、この目で見てみたい」
それが本音だった。
怖さはある。もちろんある。
伯爵家の外へ出ること。隣国へ渡ること。王城や侯爵家がどう動くか分からない中で、公爵の招きに応じること。
どれも簡単な話ではない。
それでも、見たい。
昔の人が何を大事にして、どうやって道を繋いできたのか。
王国側の写しからは削れ落ちたものが、向こうにどれだけ残っているのか。
それを知りたいと思う気持ちが、怖さより先にあった。
ローベルトはゆっくりと頷いた。
「左様でございますか」
「ええ」
「では、そのお気持ちを大切になさるべきかと」
アリアはそこで少しだけ苦く笑う。
「でも、簡単ではないわ。お父様がすぐに許すとは思えないし、侯爵家だって黙ってはいないでしょう」
「その通りでございます」
老執事はあっさり認めた。
「だからこそ、まずはお嬢様ご自身の意思をはっきりさせておくべきです」
その一言はまっすぐだった。
昔なら「家の都合に従うのが先」と言われたかもしれない。
けれどローベルトは違う。
今の彼は、何より先にアリア自身の意思を固めろと言う。
それがありがたかった。
「お父様に話さなくては」
「はい」
「でもその前に……」
アリアはもう一度手紙へ視線を落とした。
レオンハルトは、望まないなら無理にとは言わないと書いていた。
だからこそ、こちらも曖昧に返したくなかった。
「先に、返事を書きたいの」
「承知しました。旦那様には、少しお時間をいただきたいと私からお伝えしておきます」
ローベルトが下がると、アリアは急いで支度を整えた。
今日のドレスは迷わず深い青を選ぶ。
鏡の中の自分は、昔と同じ顔をしているはずなのに、どこか違って見えた。
まだ答えは出ていない。
けれど、望みを持っている顔だ。
古書庫へ入り、文机に向かう。
まずは公爵への返事だ。
返事を書く前に、アリアは便箋を広げたまま少しだけ考え込んだ。
行きたい、と正直に書いてよいのだろうか。
それではあまりに前のめりすぎるかもしれない。
だが遠慮して濁せば、自分で自分の望みをまた閉じ込めることになる。
しばらく逡巡し、それからゆっくりとペンを走らせた。
――お招きのご提案を、心よりありがたく思っております。
――隣国側に保管されている原本・草案群を拝見できるのであれば、私としてはぜひ見てみたいと存じます。
――ただし、伯爵家および王城との兼ね合いもございますので、まずは家の許しを得るべく話をいたします。
――そのうえで、もし叶うのであれば、私はこの目で確かめたいです。
最後の一文で、また手が止まった。
私はこの目で確かめたい。
書いた瞬間、少しだけ胸が熱くなる。
これはもう、誰かのためだけの文章ではない。
自分が本当に見たいものへ向けた言葉だ。
書き終えたところで、廊下の向こうが少し騒がしくなった。
数人分の足音。
使用人が道を開ける気配。
そして、やや高く張った女の声。
母だ。
どうやらもう、何かが動いているらしい。
ほどなくして、古書庫の扉が開いた。
マルグリットの後ろにはベルナール、そしてさらに意外な顔があった。
カイルだ。
三人揃って古書庫へ来るなど、これまで一度もなかった。
その事実だけで、この手紙がどれほど大きな意味を持っているか分かる。
「アリア」
父が口火を切る。
「隣国からの招きの件、もう読んだのね」
アリアはゆっくりと立ち上がった。
「はい」
母の顔は明らかに落ち着いていない。父も平静を装っているが、目の奥は険しい。カイルに至っては、苛立ちと焦りを隠そうともしなかった。
ベルナールは低く言う。
「これは簡単な話ではない」
「そうでしょうね」
「隣国の公爵が、おまえ個人を招く。しかも数日の滞在で。伯爵家としても、軽々しく応じられる話ではない」
その通りだ、とアリアも思う。
だからこそ、ここで曖昧にされるのは困る。
「お父様は、どうお考えですか」
正面から問うと、ベルナールは一瞬言葉を選んだ。
「伯爵家にとっては、危うさもあるが、同時に大きな機会でもある」
またそこだ。
危うさ。機会。家にとって。
アリアの中で、ひどく静かな疲れが広がる。
だが今は、それに飲まれなかった。
「私は」
彼女ははっきりと言った。
「行ってみたいと思っています」
その一言で、部屋の空気が止まった。
母が目を見開き、カイルが一歩踏み出しかける。
「アリア!」
最初に声を上げたのは、やはりカイルだった。
「君は何を考えている」
「私は、自分の考えを言っただけです」
「隣国へ行くなど、婚約者のある身で軽率すぎる!」
その言葉に、アリアは驚くほど冷静だった。
怒りは湧かない。
むしろ、やはりこの人はそう言うのだな、という確信だけが深まる。
「婚約者のある身だから、ですか」
「当然だ!」
「では、婚約者のある身である私は、何を見てよくて、何を望んではいけないのでしょう」
カイルが言葉に詰まる。
父も母も黙っている。
たぶん二人とも、今はもうこの問いを昔のようには押しつぶせないのだ。
アリアは続ける。
「私はあの手紙を読んで、初めて、自分が本当に見たいものへ手を伸ばしていいのかもしれないと思いました」
母が小さく息を呑む。
「お母様にも言いました。私は、大切にされたいと。軽んじられたくないと」
視線を少しだけずらし、今度は父を見る。
「お父様にもお願いしました。私のことを、私抜きで決めないでほしいと」
最後に、カイルへ向き直る。
「今の私は、誰かの体面を守るためだけに、自分の望みを閉じ込めるつもりはありません」
その言葉は、古書庫の静けさの中で驚くほどはっきり響いた。
カイルは何か言おうとして、けれど結局言えなかった。
以前なら「君は婚約者として失格だ」とでも切って捨てただろう。
だが今はもう、それを言うだけの余裕も立場も失いかけている。
ベルナールがゆっくりと口を開く。
「……返事は、まだしていないのだな」
アリアは一瞬だけ迷い、それから正直に答えた。
「書きかけています」
父の眉が動く。
だが怒らない。
それだけで、アリアには十分に大きな変化だった。
「見せなさい」
その言葉に、彼女は机上の便箋へ視線を落とす。
ここで拒めば話はこじれる。だが全部を無条件に差し出すのも違う気がした。
「お見せします」
静かに言う。
「ただし、これは私の意思を初めて書いた返事です。そこだけは、勝手に書き換えないでください」
母がはっとしたようにこちらを見る。
父は数秒黙ってから、低く頷いた。
「……分かった」
そのやり取りを、カイルは信じられないものを見る顔で見ていた。
彼にとっては今も、婚約者とはこういう場で黙って従うものなのだろう。
けれどもう、その時代は終わりかけている。
アリアは便箋を手に取り、父へ差し出した。
ベルナールは最後まで読み、黙って母へ回す。
マルグリットも読み、何か言いたげにしたが、最終的には何も言わずに紙を下ろした。
沈黙のあと、父が言う。
「すぐに決めることはできん。王城への顔もある。侯爵家との関係もある。だが……」
そこで一度言葉を切り、アリアを見た。
「おまえが行きたいと思っていることは、分かった」
それだけで、胸の奥が少しだけ熱くなる。
認められたわけではない。
許されたわけでもない。
でも少なくとも、今この場で「なかったこと」にはされなかった。
それは以前のアリアにとっては、大きすぎる前進だった。
カイルがようやく低い声で言う。
「父上と侯爵家には、私からも話します」
その声音にはまだ焦りが滲んでいた。
けれどアリアはもう、それに揺れなかった。
誰がどう話そうと、自分はもう自分の望みを知っている。
それだけで、前とは全く違う。
ベルナールたちが去ったあと、古書庫には再び静けさが戻った。
アリアは椅子へゆっくり座り直し、机の上に残された便箋へ手を置く。
プロットの先はまだ見えていない。
隣国へ本当に行けるのか。
婚約はどうなるのか。
王城は何を求めるのか。
何一つ決まっていない。
それでも一つだけ、はっきりしていることがあった。
自分は今、ようやく「行きたい」と言えたのだ。
その言葉を持てたことが、何より大きかった。




