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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第17話 彼女の不在を、誰もまだ想像していない

 その夜、アリアは珍しく古書庫ではなく自室の机に向かっていた。


 古書庫は好きだ。落ち着くし、紙の匂いも、棚に並ぶ背表紙の静けさも、自分を責めない。けれど今日は、あえて自室へ戻った。少しだけ、自分の頭の中を整理したかったのだ。


 窓の外には淡い月明かりが落ちている。

 部屋の中は静かで、机の上には控え帳が一冊と、今日やり取りした文の写しが並んでいた。


 アリアはその中から、王城へ返した紙の控えを取り出す。


 ――融雪期運用の主眼は「通行の再開」ではなく「道の維持再開」にある。


 自分で書いた文字を、しばらく見つめる。


 前なら、こうした文は「誰かのために整えるもの」だった。父のため、伯爵家のため、王城のどこかの文官が困らないため。そこに自分の意志はあっても、前に出してはいけないものだと思っていた。


 けれど今は少し違う。


 これは自分が見つけ、自分が整理し、自分の言葉で通る形へ整えたものだ。もちろん家を通して出しているし、正式には伯爵家から王城へ渡る文書だ。だがその中身まで「誰のものでもない顔」をしているわけではない。


 それだけで、こんなにも世界の見え方が変わるのかと、アリアは不思議に思う。


「……私がいなくなったら」


 小さく呟いて、指先を止めた。


 今日、ローベルトに聞いた問いだ。

 もし私がここからいなくなったら、本当に困る人たちがいるのかしら、と。


 あの時、老執事は迷わず「おります」と答えた。


 それは嬉しい言葉だった。

 だが同時に、少しだけ冷たい感覚も残した。


 困る人がいる。

 だから残るべき、なのだろうか。

 それとも、困ることと、大切にされることは別なのだろうか。


 その線引きが、今のアリアにはまだ完全にはつけられない。


 ノックが響いたのは、その時だった。


「お嬢様、失礼いたします」


 マリーだ。


「どうぞ」


 侍女は部屋へ入るなり、少しためらってから言った。


「奥様が、お休みになる前に少しお話ししたいと」


 アリアは目を瞬いた。


 母が。

 しかもこの時間に、呼びつけるのではなく「話したい」と。


 珍しいを通り越して、不自然だった。


「今から?」


「はい。ご都合が悪ければ明日でもと仰っておりましたが……」


 それは本当に母の言葉なのだろうか、とアリアは一瞬思った。

 昔の母なら、都合が悪いかなど聞かずに呼んだだろう。

 それが今、明日でもよいと言う。


 やはり少しずつ、何かが変わっている。


「行くわ」


 立ち上がり、控え帳を閉じる。

 部屋を出て母の私室へ向かう廊下は、昼間よりずっと静かだった。壁の燭台だけが柔らかく灯っていて、絨毯が足音を吸い込んでいく。


 母の部屋の前に着くと、マリーが控えめに扉を叩いた。


「奥様、アリア様をお連れしました」


「お入りなさい」


 入室すると、マルグリットは窓辺の長椅子に腰掛けていた。化粧はほとんど落としているのに、背筋だけはきちんと伸びている。そういうところは昔から崩れない人だ。


「遅い時間にごめんなさいね」


 その一言に、アリアはまた少し驚く。


「いいえ」


 母は向かいの椅子を指した。


「座って」


 促されるまま腰を下ろすと、しばらく沈黙があった。

 母は何か言いたいのに、うまく始められないらしい。


 こんな姿を見るのも珍しい。


「……今日のことは、お父様から聞いたわ」


 ようやく口を開いたのは、そんなありきたりな切り出しだった。


「王城の方がまた来て、あなたがその場で整理したのでしょう」


「はい」


「それから、隣国の公爵様にも手紙を書いたとか」


 そこまで知っているのか、とアリアは思う。

 父が話したのか、使用人たちの口から回ったのかは分からない。けれど、少なくとも母は最近の流れをきちんと追っている。


「返事を書きました」


「……そう」


 また沈黙。


 窓の外で枝が揺れ、かすかに音を立てる。


 マルグリットは指先で自分の杯の縁をなぞっていた。落ち着かない時の癖だと、アリアは初めて気づいた。今まで母のそういう細かな様子を、見る余裕がなかったのかもしれない。


「アリア」


 ようやく、母は真っ直ぐ娘を見た。


「私は、あなたのことを見誤っていたのかしら」


 その問いは、予想していたどの言葉よりも弱く、正直だった。


 アリアは答えるまでに少し時間がかかった。


 責めることは簡単だ。

 ええ、ずっと見誤っていました、と。

 けれど今の母の顔を見ていると、そう言い切ることが正しい気もしなかった。


「どうなのでしょう」


 結局、穏やかに返す。


「お母様は、ずっと私を『令嬢としてどう見えるか』で見ていらしたのだと思います」


 母のまつげがわずかに伏せられる。


「そうね……たぶん、そうだわ」


「それは間違いではないのでしょう。伯爵家の娘ですもの」


「でも、それだけでは足りなかった」


 母がぽつりと呟く。


 アリアは何も言わなかった。

 母自身がその言葉を出したことに、少しだけ驚いていたからだ。


「あなたは小さい頃から、あまり手のかからない子だったの」


 マルグリットの声は、どこか遠くを見ているようだった。


「泣いて取りすがることもなければ、何かを強く欲しがることもなかった。与えられた部屋で静かに本を読み、言われたことには従って、困らせることがなかった」


 それは褒め言葉のようにも聞こえる。

 だがアリアには、その続きが分かってしまった。


「だから、放っておいても大丈夫だと思われたのですね」


 母はすぐには否定しなかった。


 その沈黙が、答えだった。


「セレナは逆だったわ。よく泣くし、よく笑うし、欲しいものは欲しいと言う。褒めれば顔に出るし、叱ればすぐしょんぼりする。分かりやすいのよ、あの子は」


 アリアは静かに聞いている。


「あなたは……何を考えているのか、時々分からなくなった。だから私は、分かる部分だけで判断していたのかもしれない」


 その告白は、あまりにも遅い。

 今さら。

 そう思う気持ちは、やはり胸の奥にある。


 けれど同時に、母が初めて「分からなかった」と認めたことも分かった。今までならきっと、分からないことそのものをなかったことにしただろうに。


「お母様」


 アリアはゆっくりと言う。


「私は、あまり求めてはいけないのだと思っていました」


 母が顔を上げる。


「求めてはいけない?」


「ええ。何かを欲しがったり、不満を言ったり、自分を見てほしいと願うのは、みっともないことなのだと」


 言葉にしながら、自分でもそれがどれだけ長く胸にあったのかを知る。


「だって、そうでなくても足りないのに、さらに求めたら嫌われると思っていたのです」


 母の唇がかすかに震えた。


「……そんなふうに思わせていたのね、私は」


 責めるつもりはなかった。

 ただの事実として、アリアはそう言っただけだった。

 けれどその事実の方が、かえって母には重かったのだろう。


「今は違うのね」


 母が尋ねる。


 アリアは少しだけ考えてから頷いた。


「今は、望んでもいいのかもしれないと思い始めています」


「何を?」


「大切にされることを」


 その一言で、部屋の空気がわずかに揺れた気がした。


 母はしばらく何も言えなかった。

 やがて、ほんの少しだけ肩を落とす。


「あなたがそう言うのを、初めて聞いたわ」


「私も、初めて口にしました」


 正直な会話だった。

 少なくとも、今までの母娘の間にはなかった種類の。


 だがそれで何かがすぐに解決するわけではない。

 母が急に優しい人になるわけでも、過去の全部が消えるわけでもない。

 それでもアリアは、今夜のこのやり取りが無意味ではないと思えた。


 母はゆっくり息を吐き、それから小さく言った。


「あなたの婚約のこと、私は今まで……『家にとってよいか』しか見ていなかったのかもしれないわ」


 やはりそこへ来るのか、とアリアは思う。

 だが以前ほどの苛立ちはなかった。


「ええ」


 静かに認める。


「でも、今は少しだけ分からなくなっているの」


 マルグリットの声は本当に迷っていた。


「ローデン侯爵家は確かに良縁だわ。家格も申し分ない。けれど……あなたがあの家で、ちゃんと大切にされるのかと考えると」


 言葉がそこで切れる。


 アリアは母を見つめた。


 それはあまりに遅い迷いだった。

 けれど、母が今そこへ辿り着いたこと自体は事実だ。


「お母様」


「なに」


「今の私は、前よりそのことをはっきり考えています」


「……そうでしょうね」


「だから、もし今後婚約の話が動くなら、私の考えも聞いていただきたいのです」


 母はしばらく娘を見つめ、それからゆっくり頷いた。


「分かったわ」


 その返事は、完璧な約束ではない。

 でも少なくとも、前のような「黙って従いなさい」ではなかった。


 部屋を辞して廊下へ出ると、アリアは思っていたより疲れていることに気づいた。

 今日は王城の件だけでも十分重かったのに、そのうえ母とあんな話までしたのだ。

 それでも足取りがそこまで沈まないのは、どこかで「少しずつ進んでいる」と感じているからかもしれない。


 自室へ戻る途中、廊下の角でベルナールとすれ違った。


 父は立ち止まり、何か言いたげにしたが、結局「母上と話したのか」とだけ聞いた。


「はい」


「そうか」


 それだけで通り過ぎようとするので、アリアの方から静かに言った。


「お父様」


 ベルナールが振り返る。


「もし今後、婚約のことや私の仕事のことで話し合うことがあるなら、私も席に入れてください」


 父の顔に、一瞬だけ明確な戸惑いが走った。

 だがすぐに、それを抑え込むように頷く。


「……考えておこう」


 以前なら、それで終わっただろう。

 けれど今のアリアは、そこで一歩だけ踏み込めた。


「考えるだけでなく、そうしていただきたいのです」


 父の目が細くなる。

 怒るかと思ったが、彼は怒らなかった。

 代わりに、ゆっくりと息を吐いてから言う。


「分かった」


 たったそれだけ。

 でも、それだけで十分だった。


 初めてだ。

 父が、娘の婚約や仕事の話へ、当人を入れると口にしたのは。


 その夜、自室の寝台に横になったアリアは、天井を見つめながら静かに思う。


 まだ何も解決していない。

 王城は慌てている。

 隣国は待っている。

 伯爵家はようやく気づき始めたばかり。

 侯爵家は今さら価値を数え直している。

 カイルは焦っている。


 けれどその全部の中で、自分だけは前より少しはっきりしてきた。


 大切にされたい。

 軽んじられたくない。

 続けたい。

 そして、自分のことを自分抜きで決めさせたくない。


 それは、以前の自分には持てなかった願いだ。


 翌朝、まだ日が高くならないうちに、ローベルトが自室へやって来た。


「お嬢様、お休みのところ失礼いたします」


「どうしたの?」


 少し眠たげに起き上がると、老執事は珍しく表情を引き締めていた。


「隣国より急ぎの便が」


 アリアの眠気が一気に引く。


「公爵閣下からでございます」


 差し出された封筒は、これまでよりも少し厚みがあった。


「何かしら」


「私には分かりかねます。ですが……」


 ローベルトはそこで一瞬言葉を区切る。


「伯爵様より先に、お嬢様へ渡すよう言付かっております」


 その一言で、アリアの胸が強く鳴った。


 伯爵家を通さず、ではない。

 だが少なくとも、今回はまず自分に読ませるべきものだと、向こうが判断したということだ。


 封へ指をかけながら、彼女ははっきりと感じていた。


 何かが、また動こうとしている。

 しかも今度は、今までよりずっと大きく。

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