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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第16話 王城が慌て、隣国が待つ

執務室の前に立った時、アリアは扉の向こうの空気がいつもと違うことを感じ取った。


 声が低い。


 しかも、父ベルナールだけではない。王城から来たらしい男の声には、急ぎを押し殺した硬さがあった。慌てている者ほど、かえって声を低くすることがある。大きくして事態を悪く見せたくないからだ。


 アリアは手にした紙束を整え、一度だけ呼吸を落ち着けてからノックした。


「お父様、アリアでございます」


「入れ」


 短い返事。


 扉を開けると、室内には父と、王城の若い文官が一人いた。アリアがこれまで見たことのない顔だったが、衣服の質と立ち居振る舞いからして、単なる使いではない。おそらく記録管理局よりも現場寄り、あるいは財務と交通をつなぐ中堅文官といったところだろう。


 男はアリアを見るなり、ほんの一瞬だけ安堵したような顔をした。


 その表情に、アリアの胸の内で何かが静かに定まる。


 やはり今、自分は「来てよかった存在」として数えられているのだ。


「お初にお目にかかります、アリア様。私は王城交通管理局のルスラン・ヘイムと申します」


 礼は丁寧だったが、余計な前置きはなかった。


「急なお願いとなり申し訳ありません。先ほど北方越境路から追加の報告が入りまして、どうしても早めに照合したい点がございます」


 父がやや不機嫌そうに机を指で叩く。


「まったく、最近は何でもかんでもこちらへ回してくる」


 その言い方に、以前ならアリアは何も思わなかっただろう。だが今は違う。

 何でもかんでも、ではない。

 「ここへ回せば分かる」と知っているからこそ回ってきているのだ。


「内容をお聞きしても?」


 アリアがそう言うと、ルスランはすぐに一通の紙を差し出した。


「融雪期の道の維持に関する件です。北方側の現場責任者から、『今の王国側運用では修繕隊の移動と資材搬入が遅れる』と正式な異議が出ました」


 やはり。


 アリアは一読しただけで、ほぼ状況を理解した。


 異議の主旨は明確だった。

 王国側が現在用いている「一律控除」「通行物資区分」では、融雪期の泥濘路を立て直すために最優先で入れるべき人員と荷の扱いが曖昧になる。結果として現場判断が分裂し、道の回復が遅れる。そのせいで、本来動かせるはずの交易荷まで足止めされている――。


 アリアはすぐに自分が持ってきた紙束の一番上を抜き出した。


「ちょうど、その件について整理したところです」


 ルスランの目が見開かれる。


「もう?」


「はい。王国側写しと隣国側写し、それから過去十年の停泊申告と修繕費記録を照らしました」


 父が横でわずかに身を乗り出す。

 彼も知らなかったのだろう。

 アリアがすでにそこまで掘っていることを。


 アリアは紙を机へ広げ、要点を指先で示した。


「問題は、春の融雪期を『通行再開の時期』としてしか扱っていないことです。本来の協定では違います。ここは『道を生かし直す時期』であり、だから修繕隊、補助兵、工具、橋材、最低限の越冬物資が一体で優先される必要がある」


 ルスランが紙を覗き込み、無意識のように頷く。


「現場から来た文も、まさにその趣旨です」


「ええ。ですから王国側が今すべきなのは、税目の細分ではありません。優先対象を『何を運ぶか』ではなく『道を維持できるかどうか』で見直すことです」


 その言葉を口にしながら、アリアは自分でもはっきり分かっていた。


 これはもう単なる注釈ではない。

 運用の根本を、昔の文脈へ引き戻す提案だ。


 ルスランは紙から顔を上げ、まっすぐアリアを見る。


「この整理を、そのまま王城へ提出いただけますか」


 父が口を開きかけたが、その前にアリアが答えた。


「もちろんです。ただ、現場へ落とすなら注釈だけでは足りません。実際の優先例を三つほど付けた方が伝わりやすいと思います」


「優先例?」


「はい。たとえば、春先に橋材と羊毛荷が同時に着いた場合、先に入れるべきは橋材です。羊毛は重要ですが、道が死ねば次が続かないので」


 ルスランの目つきが変わる。

 単に「読める令嬢」を見ていた目ではなくなった。

 実務が分かる相手を見る目だ。


「なるほど……」


 父ベルナールがようやく低く問う。


「つまり、王城は今までそこを取り違えていたと?」


 アリアは少しだけ間を置いた。


 断言していいのか。

 だが、ここで曖昧にすればむしろ混乱する。


「はい。少なくとも、今の写しと運用だけを見る限りでは」


 沈黙。


 父の前でこれほどはっきり「王城は取り違えていた」と言うことに、かつてのアリアなら強い躊躇いを覚えただろう。

 だが今は違う。

 誰かの顔色より先に、文そのものの意味を守りたかった。


 ルスランは深く息をつき、まるで肩の荷を下ろしたように言った。


「助かりました」


 またその言葉だ。


 助かる。役に立つ。必要だ。

 短いが、今のアリアにはどれも確かな重さを持つ。


「……では、これをすぐに持ち帰ります」


「少々お待ちください」


 アリアは机の端の紙を引き寄せた。


「今の説明だけでは、向こうで言い換えられてしまうかもしれません。私の方で短く要旨を書き添えます」


 ルスランが一瞬ためらう。父の顔色を見たのだろう。

 伯爵家の長女がその場で補足を書くなど、以前なら考えもしなかったはずだ。


 だがベルナールは、ほんのわずかな沈黙のあと、低く言った。


「書け」


 その一言に、アリアは胸の奥で静かに驚いた。


 命令ではある。けれど今の「書け」は、以前のような雑な押しつけではない。

 分かる者に任せるしかない、と父がようやく理解している声音だった。


 ペンを取り、アリアは要点だけを簡潔に書く。


 ――融雪期運用の主眼は「通行の再開」ではなく「道の維持再開」にある。

 ――ゆえに優先対象は税目や荷種ではなく、道を回復・継続させるために必要な人員・資材・物資の一体運用として扱うべき。

 ――現行王国写しはその点を狭く解釈しているため、現場混乱の要因となっている可能性が高い。


 書き終え、砂を振り、紙を差し出す。


 ルスランは受け取るなり、その場で読み、明らかに顔つきを変えた。


「……分かりやすい」


 小さな呟きだったが、アリアには十分だった。


「これなら、上でも現場でも通ります」


 その言葉を聞いた瞬間、父が何か言いたげに顔を上げたが、結局口をつぐんだ。

 もう彼にも分かっているのだろう。

 この娘の言葉は、単に「読める」だけではなく、「通る」形に整えられているのだと。


 ルスランが去ったあと、執務室にはしばらく沈黙が残った。


 ベルナールは机の上のインク壺を見つめるようにして、低く言った。


「……いつからだ」


 アリアは少しだけ首を傾げる。


「何がでしょう」


「いつから、おまえはそこまで分かるようになっていた」


 その問いは、詰問ではなかった。


 もっと単純で、もっと不器用な驚きだった。


 アリアは答えるまでに少し時間がかかった。


「ずっと前から、です」


 ようやくそう言うと、父は顔を上げた。


「ずっと前?」


「少なくとも、書庫へ自由に入れるようになってからは。最初は言葉を拾うだけでしたけれど、帳簿や記録と見比べるようになってから、少しずつ」


 ベルナールはしばらく黙り込んだ。


 その沈黙の意味を、アリアは分かりたくないようでいて、分かってしまう。


 父は今、計算しているのではない。

 自分が見落としていた時間の長さを、ようやく実感しているのだ。


 この娘は急に変わったのではない。

 ずっと前からここにいて、ずっと前から読んでいて、ずっと前から繋げていた。

 そして自分は、それをほとんど見ていなかった。


「お父様」


 アリアは静かに言った。


「今さら責めたいわけではありません」


 父の肩がわずかに動く。


「ただ、私が急に何かになったわけではないことだけは、知っていただきたいのです」


 ベルナールは返事をしなかった。

 だがその沈黙には、以前のような無関心ではなく、苦い重みがあった。


 執務室を出たアリアは、そのまま古書庫へ戻ろうとした。

 けれど廊下の角を曲がったところで、壁際に立つカイルの姿を見つけて足を止める。


 やはりいたか、と心のどこかで思う。


 彼はこの数日、明らかにアリアの動きを追っていた。王城の者が来れば気にし、使節団が来れば表情を変え、侯爵家の使いが動けばなおさら落ち着かなくなる。

 今の彼は、かつての余裕をすっかり失っていた。


「また王城の者か」


 開口一番、それだった。


「ええ」


「最近、ずいぶん頻繁だな」


「そうね」


 アリアは短く答える。


 以前なら、この種の刺々しさにこちらも身構えただろう。だが今は違う。カイルの声の奥にあるのは怒りだけではない。明らかな焦りだ。それが分かるからこそ、かえって冷静でいられる。


「君は……」


 カイルは言いかけ、そして苦々しげに言い直す。


「君がそんなに必要とされるとは思わなかった」


 あまりにも率直な言葉だった。


 だがその率直さが、かえって今の彼の本音を露わにしていた。


 アリアは彼をまっすぐ見た。


「私も、あなたがそこまで見ていなかったとは思いませんでした」


 カイルの目が細くなる。


 刺したつもりはなかった。

 ただ事実を返しただけだ。


「嫌味か」


「いいえ」


「では何だ」


「確認です」


 アリアは静かに言う。


「あなたは今、ようやく私が何をしていたのかを知り始めた。そういうことでしょう?」


 沈黙。


 彼は否定できない。


「……知り始めたとして、それが何だ」


 その強がりに、アリアは胸の奥で小さく息を吐いた。


 今さら気づいても遅い。

 その意味を、彼はまだ本当には分かっていない。


「何でもありません」


「は?」


「ただ、遅かったのだと思っただけです」


 それだけ言って横を通り過ぎようとすると、カイルの声が背に飛ぶ。


「アリア!」


 足は止めない。


「君は今、侯爵家の婚約者として注目されているんだ。勝手なことをすれば、君だけの問題では済まない」


 その言葉に、アリアはようやく振り返った。


 見れば彼の表情はいつになく硬い。怒りというより、余裕を失っている顔だ。


「カイル様」


 アリアは静かに名を呼ぶ。


「私はもう、誰かの体面を守るためだけに自分を小さくするつもりはありません」


 その一言で、カイルは完全に言葉を失った。


 前のアリアなら絶対に言わなかった言葉。

 それを彼も理解しているからこそ、返す言葉が見つからないのだろう。


 アリアは一礼して、その場を離れる。


 心臓は少し速い。

 でも怖くはなかった。

 むしろ、自分が何を守りたいのかが、前よりはっきりしていくのを感じていた。


 古書庫へ戻ると、ローベルトが新しい帳簿を整理していた。


「お戻りでございますか」


「ええ」


「王城の件は」


「急ぎで返したわ。たぶん、またすぐ次が来る」


 そう言うと、老執事は納得したように頷く。


「お嬢様がいらっしゃらねば、もう回らぬところまで来ておりますな」


 その一言に、アリアは少しだけ考え込んだ。


 いなくなれば困るのは、誰なのか。


 王城。

 北方越境路の現場。

 伯爵家。

 侯爵家。

 あるいは隣国さえも。


 数日前まで、そんな問いは思い上がりにしか思えなかった。

 でも今は、少なくとも問いとしては成立している。


「……ねえ、ローベルト」


「はい」


「もし私がここからいなくなったら、本当に困る人たちがいるのかしら」


 老執事は少しも迷わず答えた。


「おります」


 あまりにも即答で、アリアは目を瞬いた。


「そんなにすぐ?」


「はい」


「どうして分かるの」


「今まで困っているのに、それが何によって支えられていたか気づいていなかった方々が、ようやく慌て始めておりますから」


 その答えに、アリアは思わず笑ってしまった。


「ひどい言い方ね」


「事実でございます」


 たしかに、その通りだった。


 王城は慌てている。

 隣国は正しく拾おうとしている。

 伯爵家も侯爵家も、今さらになって価値を数え直している。


 彼女がいなくなれば困るのは、いったい誰なのか。


 その答えは、もう少し先で、もっとはっきり現れるのかもしれない。

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