第22話 侯爵家は、彼女を失う怖さを知り始める
ローデン侯爵家が来ると決まってから、伯爵家の屋敷は露骨に慌ただしくなった。
普段なら客間の支度や茶器の入れ替え程度で済むところを、今日は応接室の花まで差し替えられ、廊下の絨毯まで念入りに整えられている。侯爵家の来訪自体は珍しくない。婚約関係のある家同士なのだから、顔を合わせる機会はいくらでもあった。
だが、今日の来訪はそれとは違う。
誰もがその違いを感じ取っていた。
いつもの「婚約者の家としての訪問」ではない。
アリアという伯爵家の長女が、隣国から正式に招かれたことを前提にした来訪だ。
つまり侯爵家は今、伯爵家へ「婚約者を持つ側」として来るのではなく、失うかもしれないものを確かめに来る側として門をくぐる。
その意味を、使用人たちでさえ何となく理解しているのだろう。だから皆、必要以上に物音を立てず、けれど落ち着かない気配だけが屋敷中に薄く広がっていた。
アリアはその間、自室ではなく古書庫にいた。
こういう時ほど、紙の匂いに囲まれていたかった。
応接の前に心を整えるには、ここが一番だった。
文机の上には、昨日までにまとめた北方越境路関係の控え、隣国からの招待状の写し、公爵への返答案、そして王城へ渡した融雪期運用の整理控えが、きちんと分けられて並んでいる。
必要なら、すぐ示せる。
そう思えるだけで、心の落ち着きが違った。
「お嬢様」
ローベルトが静かに現れる。
「侯爵家の馬車が門をくぐりました」
「そう」
ついに来たのだ。
胸が少しだけ速く打つ。
怖いわけではない。
ただ、自分の人生の歯車が、今まさに音を立てて動こうとしているのだと分かる。
「お父様は?」
「すでに応接室にてお待ちです。奥様もおられます」
「カイル様は」
「侯爵様とご一緒に」
アリアは小さく息を吐いた。
当然だろう。
今日の話は、侯爵家としての意向と、婚約者本人の意思とが切り離せない。少なくとも表向きは。
「お嬢様」
ローベルトが少しだけ声を落とす。
「もし理不尽なことを申されても、今はお一人ではございません」
その一言が、やけに胸へ沁みた。
今までは本当に、一人だったのだ。
父と母と婚約者と、その家。
皆が当然のように自分のことを決めていく中で、文句を言えばわがまま、黙っていれば聞き分けがいいとされた。
けれど今は違う。
少なくとも、父は自分を席に着かせた。
母も、完全には目を逸らせなくなっている。
セレナもまた、昔のように無邪気な傍観者ではいられない。
そして何より、自分自身がもう、自分の意思をなかったことにしない。
「ええ」
アリアは頷いた。
「行ってくるわ」
応接室へ向かう廊下は、思ったより静かだった。
窓の外では、侯爵家の黒塗りの馬車がまだ見えている。立派な馬具、磨かれた紋章、付き従う使用人たちの整った動き。いかにも侯爵家らしい見栄えの良さだった。
その華やかさを見て、昔のアリアなら少しだけ身が縮んだかもしれない。
けれど今は違う。
あの見栄えの良さの向こうで、彼らもまた焦っているのだと知っているから。
扉の前で一度だけ深く息を吸い、ノックする。
「アリアでございます」
「入りなさい」
父の声。
扉を開けると、応接室にはすでに侯爵家の一行が揃っていた。
上座にはベルナールとマルグリット。
その向かいにローデン侯爵。
少し斜め後ろにカイル。
そして壁際に、侯爵家の家令エルム。
全員の視線が一斉にこちらへ向く。
以前なら、そのだけで息が詰まっただろう。
だがアリアは静かに礼をし、父が示した席へまっすぐ向かった。
ちゃんと用意されていた席だ。
それを見ただけで、胸の中にひそかな力が灯る。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
まず口を開いたのはローデン侯爵だった。
その声は相変わらず滑らかで、場を支配することに慣れている男の余裕がある。
だが今日は、その余裕の底に別のものが見えた。
慎重さだ。
「本日は、隣国公爵閣下からの招待について、侯爵家としての考えをお伝えしたく参りました」
アリアは何も言わず、まず父を見る。
ベルナールが軽く頷いたので、それでよしとした。
「承っております」
父の声は固い。
ローデン侯爵は一度だけ息子の方を見たが、結局自分で続けた。
「率直に申し上げますと、侯爵家としては、現時点でアリア嬢が隣国へ渡ることに賛成しかねます」
部屋の空気がすっと冷える。
予想はしていた。
けれどこうして正面から口にされると、やはり胸の奥が少しだけ強張る。
ベルナールが問う。
「理由は」
「いくつかございます」
侯爵は指を軽く組んだ。
「第一に、婚約者のある身で隣国の公爵家へ数日滞在すること自体、社交界に余計な憶測を呼びます。第二に、王城と隣国の間でまだ整理のつかぬ問題に、伯爵家の長女が深く関わることは、家の立場を必要以上に危うくする可能性がある。第三に――」
そこでわずかに間を置き、視線をアリアへ向けた。
「アリア嬢ほどの才がある方を、軽々しく外へ出すべきではないと、侯爵家は考えます」
その言葉に、アリアは心の中でひどく静かに線を引いた。
やはりだ。
結局この人たちが言うのは、
惜しいから。
危ういから。
価値が高いから。
そういう話だけなのだ。
大切にしたいのではない。
ただ、外へ出して自分たちの手元から離れるのが惜しいだけ。
侯爵の言葉のあとに続く沈黙の中で、カイルがようやく口を開いた。
「父上の仰る通りです」
低い声だったが、その奥には妙な切迫があった。
「アリアが……彼女が今、注目されているのは事実です。だからこそ、軽率に動くべきではありません」
軽率。
またその言葉か、とアリアは思う。
「軽率かどうかは、何を基準に決まるのでしょう」
自然と口をついて出た問いに、カイルの目がこちらへ向く。
「何?」
「私は、隣国側に保管された原本と草案を見たいのです。それは北方越境路の現行運用にも関わる話で、王城も今まさに整理を進めています」
アリアの声は穏やかだった。
「それを、ただ『婚約者だから』という理由だけで止めるのは、軽率ではないのでしょうか」
マルグリットがはっとしたように息を呑み、ベルナールは無言のまま娘を見る。
そしてローデン侯爵だけが、少しだけ目を細めた。
カイルの顔が固まる。
彼はこういう形で問い返されることに、まだ慣れていない。
「君は」
カイルが低く言う。
「婚約の重みを分かっていない」
「ええ、昔は分かっていなかったかもしれません」
アリアは静かに認めた。
「でも今は少しだけ分かります。少なくとも、婚約が相手の意思を黙らせるためのものではないことくらいは」
その一言は、応接室の空気を明確に変えた。
ベルナールの指先がわずかに止まり、マルグリットは視線を落とす。エルムでさえ息を潜めたように動かない。
ローデン侯爵がゆっくり口を開いた。
「アリア嬢。我々はあなたの意思を黙らせたいのではありません」
アリアはその言葉をまっすぐ受け止める。
嘘ではないのだろう。
侯爵は本気で、そう思っているのかもしれない。
けれどそれでも、核心は外れている。
「では、何を守りたいのですか」
アリアの問いは静かだった。
「私ですか。それとも、侯爵家の体面ですか」
侯爵の口元が、ほんの一瞬だけ引き締まる。
図星だったのだろう。
答えられないわけではない。
だがここで「体面です」とは言えない。
だから言葉を選んでいる。
「両方です」
やがて侯爵はそう言った。
「少なくとも、今のあなたは自分で思っている以上に注目されている。だからこそ、我々は慎重であるべきだと考えます」
その答えに、アリアは少しだけ目を伏せた。
慎重。
それは正しい。
たしかに自分は今、前よりずっと見られている。
だからこそ、安易には動けない。
そのこと自体は、彼女にも分かる。
問題は、その「慎重」の中に、彼女自身の望みがどれだけ生きているかだ。
「侯爵様」
今度はベルナールが口を挟んだ。
「こちらとしても、軽々しく返答するつもりはありません。ただ、アリア本人の意思は、すでにお聞きの通りです」
その言い方に、アリアはわずかに顔を上げた。
父は今、自分の意思を「伯爵家として無視できないもの」として扱っている。
それはたぶん、ここへ来るまでの人生では考えられなかったことだ。
ローデン侯爵は父を見、それからゆっくりと頷いた。
「その点は承知しています。だからこそ、本日は無理に結論を迫るために来たのではありません」
来た。
その一言で、応接室の全員がわずかに動く。
「侯爵家としての提案があります」
ローデン侯爵はまっすぐ言った。
「もし、アリア嬢が北方越境路や旧協定の整理に関わることを望むのであれば、それを隣国へ渡らずとも進められる形を、まずは王城と調整したい」
アリアは一瞬、意味を測りかねた。
「……こちらにいながら、ということですか」
「そうです」
侯爵は頷く。
「王城と隣国の写しを伯爵家に集め、必要な照合をここで行う。公爵閣下の招きに応じずとも、あなたの才は活かせる。そういう道もあるはずです」
その提案を聞いた瞬間、アリアの胸に生まれたのは単純な反発ではなかった。
むしろ、一瞬だけ揺れた。
たしかにそれなら、隣国へ行かずとも原本に近い資料へ触れられるかもしれない。王城も侯爵家も体面を保てる。伯爵家としても危うさは減る。
合理的な提案だった。
だからこそ、怖かった。
なぜならその提案は、もっともらしい形で彼女を再びこの家へ留める道だったからだ。
古書庫の中で資料を読む。
王城から紙が届く。
隣国の写しも運び込まれる。
必要とされる。
役に立つ。
でも、自分は結局ここにいる。
それは一見すべてがうまくいくようでいて、どこか決定的なものが欠けている。
アリアはその正体を、ゆっくりと見定めるように呼吸した。
「侯爵様」
彼女は静かに言う。
「そのご提案は、理にかなっていると思います」
ローデン侯爵の目がわずかに和らぐ。
カイルも、一瞬だけ安心したように見えた。
けれど次の言葉で、その空気はすぐに変わった。
「でも、それでは足りないのです」
部屋が静まり返る。
「何が足りないのだ」
カイルの声は、明らかに張っていた。
アリアは彼ではなく、侯爵を見る。
「私は原本そのものを見たいのです。紙だけではなく、それがどう保管され、どの草案と重ねられ、どこに書き込みがあり、どの順で束ねられてきたのかまで」
自分でも驚くほど、言葉はよどみなく出た。
「写しだけでは見えないことがあります。綴じ方、紙質、書き込みの位置、後から差し込まれた頁。それらは現物を前にして初めて分かることです」
ベルナールがはっとした顔をする。
マルグリットも、言葉を挟めないまま娘を見ていた。
「それに」
アリアはほんの少しだけ間を置く。
「私は、ただ役に立つだけの形へ戻りたくありません」
その一言で、今度こそ空気が止まった。
侯爵の目が細まり、カイルの顔色が変わる。
父も母も、すぐには意味を飲み込めなかったのだろう。
だからアリアは、もう少しだけはっきりと言った。
「ここにいながら資料だけ集めてもらえれば、きっと私はまた同じです。家の中で静かに読んで、必要な時にだけ使われる」
ローデン侯爵が低く言う。
「それの何が悪いと?」
その問いは、責めではなかった。
むしろ本気で分からない、という顔をしていた。
アリアはそのことに、ひどく静かな諦めを覚えた。
やはりこの人たちは、ここまで来てもまだそこなのだ。
「悪いのではありません」
答える声は穏やかだった。
「でも、私はもう、それだけでは足りないのです」
自分で言って、自分ではっきり分かった。
そうだ。
自分が欲しいのは単なる仕事ではない。
便利だから置いておかれることでもない。
必要だから使われることだけでもない。
自分の足で進むこと。
自分の目で見ること。
自分の意思でそこへ行きたいと認められること。
それが、今の自分にとって欠かせないものなのだ。
ベルナールが深く息を吐いた。
「……今日は、ここまでにしよう」
その声は少し疲れていた。
「伯爵家としても、侯爵家としても、一度持ち帰って考える必要がある」
ローデン侯爵はすぐには反論しなかった。
アリアを見つめ、それからゆっくり頷く。
「承知しました」
ただし、彼は席を立つ前に一つだけ言った。
「アリア嬢。あなたがそこまで明確に望みを持っているとは、正直、想定していませんでした」
その言葉には皮肉も怒りもなかった。
ただ、本音の驚きだけがあった。
アリアは静かに返す。
「私も、少し前まで想定していませんでした」
その答えに、侯爵はわずかに目を細め、そして短く礼をした。
侯爵家が去ったあと、応接室には重たい静けさだけが残った。
ベルナールは額を押さえ、マルグリットは長く息を吐く。
そしてアリアは、自分の中がひどく澄んでいることに気づいていた。
もう分かった。
この家に残る前提が揺らいでいるだけではない。
自分自身が、その前提を受け入れなくなっている。
それが、何より大きな変化だった。




