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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第131話 王国からの正式な帰還要請

 その書状は、朝の光がまだ白いうちに届いた。


 隣国エーヴァルド公爵家の文書室は、いつものように静かだった。高い窓から差し込む光が、磨かれた机の端を淡く照らしている。紙の匂い、革表紙の匂い、乾いたインクの匂い。アリアにとっては、もうこの場所の空気の方が、かつての伯爵家の古書庫よりも馴染んでしまっている。


 そのことに気づくたび、少しだけ胸が痛む。


 けれど、その痛みは後悔とは違った。


「アリア様。王国より正式な書状が届いております」


 文書院の若い補佐官が、銀の盆に一通の封書を載せて入ってきた。


 封蝋には、見慣れた紋章が押されている。


 祖国の王城。

 それも、儀礼用ではなく、実務に関わる部署で使われる印だった。


 アリアはペンを置いた。


「ありがとうございます。こちらへ」


 封書を受け取る指先は、思っていたより落ち着いていた。


 かつてなら、王城からの書状というだけで、まず父の顔色を思い浮かべていただろう。何か失礼はなかったか。自分が余計なことをしたのではないか。伯爵家の名を傷つけたのではないか。


 けれど今、最初に考えたのは違った。


 この書状は、何を求めているのだろう。


 そう、自然に思えた。


 封を切ると、中には丁寧な文面が並んでいた。


 北方条約改定に関する古文書の再検討。

 王国側記録と隣国側記録の照合。

 過去の交易税に関する注釈の再整理。

 それらを進めるため、アリア・ウェルグランに一時的な帰国と助言を願いたい――。


 文面はどこまでも礼儀正しい。


 だが、最後まで読み終えた時、アリアは静かに息を吐いた。


 これはお願いの形をした、命令に近い。


 かつての王国は、アリアを名前のない便利な手として使っていた。今度は名前を出している。感謝の言葉も添えてある。けれど、その根の部分にある考えは、それほど変わっていない。


 必要だから戻ってこい。


 あなたなら読めるのだから、王国のために働きなさい。


 そう言われている気がした。


「顔色が変わったな」


 低い声がして、アリアは顔を上げた。


 いつの間にか、扉の近くにレオンハルトが立っていた。黒に近い濃紺の上着に、銀の留め具。公爵としての威圧感はあるのに、この部屋では不思議と押しつけがましさがない。


 彼は、勝手に机へ近づいて書状を覗き込むようなことはしなかった。


 ただ、アリアが話すのを待っている。


 それだけで、胸の奥が少し楽になる。


「祖国からです。北方条約改定に関して、一時帰国して助言をしてほしいと」


「一時帰国、か」


「はい」


 アリアは書状を畳み直した。


 紙の端を揃える指先を、レオンハルトは黙って見ている。


「文面は丁寧です。けれど……」


「戻れ、と書いてあるように読めたか」


 アリアは少しだけ目を伏せた。


「はい」


 その一言を口にしただけで、自分の中にあった違和感の形がはっきりした。


 レオンハルトは頷いた。


「王国側は焦っているのだろう。北方条約の件は、先延ばしにすればするほど不利になる」


「それは分かります。古い記録の照合も必要ですし、王国側だけで抱えている写本では限界があることも」


「ならば戻るか」


 問われた言葉は短かった。


 だが、そこに試すような響きはなかった。


 レオンハルトは、アリアに答えを強要しない。行くなとも、行けとも言わない。ただ選択肢を目の前に置いて、彼女自身が見るのを待つ。


 その態度を、アリアは何度もありがたいと思ってきた。


 そして同時に、怖いとも思う。


 自分で選ぶことに、まだ慣れていないからだ。


「……必要なら、資料の照合には協力します」


 ゆっくりと言葉を選ぶ。


「王国の記録が間違ったまま扱われれば、交渉全体に支障が出ます。それは隣国にとってもよいことではありません」


「そうだな」


「でも」


 そこで、アリアは一度だけ書状に視線を落とした。


 封蝋の紋章が、少し遠いものに見えた。


「私はもう、あの国の都合で動く令嬢ではありません」


 言ってから、胸の中が静かになった。


 怒りでもなく、悲しみでもなく、もっと澄んだものだった。


 レオンハルトは、ほんのわずかに目を細める。


「では、どう返す」


「協力はします。ただし、帰国を前提にはしません。必要な写本や照合箇所をこちらへ送っていただくか、公式な共同作業として場を設けてもらいます」


「妥当だ」


「それから」


 アリアは書状を机に置き、まっすぐ背を伸ばした。


「私を呼ぶのなら、伯爵家の娘としてではなく、隣国文書院の協力者として扱っていただきたいです」


 その言葉を口にした瞬間、かつての父の声が胸の奥に蘇った。


 ――伯爵家の娘であることを忘れるな。


 忘れたことはない。


 けれど、それだけで終わりたくはない。


 アリアは、もうそのことを知ってしまった。


「それを書けば、王国側は動揺する」


 レオンハルトが言う。


「はい」


「ベルナール伯も、カイル殿も、面白くは思わないだろう」


「……でしょうね」


 カイルの名前が出ても、以前ほど心は揺れなかった。


 何も感じないわけではない。婚約者だった時間は消えない。傷ついた記憶も、言われた言葉も、たしかに残っている。


 けれど、それらが今の自分を縛る鎖ではなくなりつつある。


 それが少し不思議だった。


「怖いか」


 レオンハルトの問いに、アリアは小さく笑った。


「怖いです」


「そうか」


「でも、戻りたいとは思いません」


 はっきり言えた。


 言えたことに、自分で驚いた。


 レオンハルトはそれ以上、何も言わなかった。ただ静かに頷く。


「ならば、そのように返せばいい」


「よろしいのですか」


「なぜ私に許可を求める」


 アリアは一瞬言葉に詰まった。


 それから、自分でも困ったように笑う。


「癖、かもしれません」


「ならば、少しずつ直せばいい」


 その言い方があまりに自然で、胸の奥が不意に温かくなった。


 直せばいい。


 責めるのではなく。急かすのでもなく。


 ただ、そう言ってくれる。


 アリアは机の上に新しい紙を広げた。返書の草案を書くためだった。いつもなら、まず相手の文面を写し、敬辞の位置を決め、用件の順序を整える。だが今日は、ペン先を置くまで少し時間がかかった。


 何を書くべきかは分かっている。


 けれどこれは、ただの実務文ではない。


 自分がどこに立つのかを示す、初めての返答だった。


「レオンハルト様」


「何だ」


「もし、私がこの返事を書けば、王国は私を扱いづらい人間だと思うかもしれません」


「今まで扱いやすすぎたのだろう」


 即答だった。


 思わず、アリアは顔を上げる。


 レオンハルトの表情は真面目だった。冗談ではない。本気でそう思っている顔だった。


「扱いやすい人間であることと、有能であることは違う。ましてや、大切にされることとも違う」


 その言葉は、静かに落ちた。


 アリアはペンを握る手に少しだけ力を込めた。


 昔の自分なら、きっと「扱いやすい」と言われることを褒め言葉のように受け取っていた。迷惑をかけない娘。文句を言わない婚約者。頼めばいつでも文書を読んでくれる便利な令嬢。


 けれど、その果てにあったのは、名前のない仕事と、役立たずという呼び名だった。


「……そうですね」


 ペン先をインクに浸す。


 最初の一文は、すぐに決まった。


 ――ご依頼の件、資料照合および注釈作成については、可能な範囲で協力いたします。


 そこまでは、いつもの実務文だった。


 けれど次の一文で、アリアは少しだけ呼吸を整えた。


 ――ただし、私は現在、隣国文書院の協力者として任務にあたっております。祖国への一時帰国を前提とするご依頼には、応じかねます。


 書いた。


 書いてしまえば、文字はもうそこに残る。


 アリアは続けて、必要資料の送付、共同協議の場の設置、写本の保全条件、閲覧権限の明確化について淡々と記した。


 感情は入れない。

 けれど、意思は入れる。


 それが今の自分にできる、もっとも確かな返事だった。


 書き終えると、レオンハルトが静かに近づいた。


「読んでも?」


「はい」


 彼は紙を手に取り、黙って目を通す。


 その横顔を見ながら、アリアは少しだけ緊張した。彼に褒められたいと思っている自分に気づいて、さらに少し困る。


 やがてレオンハルトは紙を置いた。


「よく書けている」


「ありがとうございます」


「礼儀を崩さず、要求は明確だ。王国側が受け入れるかは別として、非はこちらにはない」


 その評価に、アリアは胸を撫で下ろした。


 けれど次の瞬間、レオンハルトはふと声を柔らかくした。


「そして、君の意思もある」


 その一言で、喉の奥が詰まりかけた。


 意思。


 昔のアリアには、あまり縁のなかった言葉だ。


 家のために。婚約者のために。王国のために。誰かのために必要なことをするのは得意だった。けれど、自分の意思を文書に載せることは、こんなにも怖くて、こんなにも心細くて、それでいてこんなにも息がしやすいものなのだと、初めて知った。


「これを出します」


「分かった。公爵家からも、この返答が正式なものとして扱われるよう添え状をつける」


「そこまでしていただいてよろしいのですか」


「必要な手続きだ」


 レオンハルトは当然のように言った。


「あなた個人の拒絶ではなく、正式な立場に基づく回答だと示す必要がある」


 あなた個人。


 その響きに、アリアは少しだけ視線を落とした。


 昔は、個人として拒むことすら許されていなかった。拒めば我儘。黙れば従順。必要とされれば使われ、不要と言われれば捨てられる。


 でも今は違う。


 拒むためにも、立場と言葉がある。


 その日の午後、返書は公爵家の添え状とともに祖国へ送られた。


 封をされた手紙が使者の手に渡るのを見送る時、アリアは不思議な気持ちだった。自分の一部を遠くへ送り出したような、けれど同時に、ようやく不要な荷物を一つ手放したような。


 文書室に戻ると、窓の外では春の風が木々を揺らしていた。


 レオンハルトは少し離れた机で別の書類を確認している。彼はアリアが何かを言うまで、余計な慰めをしない。だからこそ、そばにいても息が詰まらない。


 アリアは自分の席に座り、書きかけだった隣国側の写本目録を開いた。


 やるべき仕事はある。


 しかもそれは、誰かに隠れて行う名前のない仕事ではない。自分の席で、自分の名で進める仕事だった。


 ペンを取ろうとした時、ふと、かつての古書庫を思い出した。


 北向きの部屋。埃をかぶった棚。誰にも読まれないまま眠っていた紙の束。あの場所で、自分は何度も言い聞かせていた。


 役立たずでも、せめてできることをしよう。


 今なら、少しだけ違う言葉にできる。


 私は役立たずではなかった。

 ただ、役立てる場所を間違えられていただけだ。


 アリアは静かに息を吐き、ペンを走らせ始めた。


 その筆跡は、もう以前よりも少しだけ迷いが少なかった。

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