第132話 父ベルナールの焦燥
王城の廊下は、いつ来ても冷たい。
磨かれた白い石。高い天井。等間隔に立つ衛兵。壁に掛けられた歴代王の肖像画は、こちらの心の内まで見透かしているように見えた。
ベルナール・ウェルグラン伯爵は、その廊下を歩きながら、杖を握る手に力を込めていた。
呼び出しは突然だった。
それも、いつもの儀礼的な招集ではない。王城の文書院と外務局、さらに財務関係の官吏まで同席するという。北方条約改定に関する緊急協議。表向きはそう告げられた。
だが、ベルナールには分かっていた。
これはアリアの件だ。
娘が隣国へ渡ってから、王城内でウェルグラン伯爵家への扱いは微妙に変わった。露骨に冷遇されているわけではない。だが、以前なら当然のように自分へ回ってきた文書の確認依頼が、今は直接、隣国の文書院やエーヴァルド公爵家を経由するようになっている。
つまり王城は、もう伯爵家を窓口として見ていない。
その事実が、ベルナールの胸をじわじわと焦がしていた。
娘一人のことだ。
そう思おうとした。
だが、そう思えば思うほど、現実がそれを許さなかった。
アリアがいなくなってから、古い条約文の確認は遅れた。北方羊毛の税率見直しも進まない。外務局からは、以前のような注釈つきの報告が上がらないと不満が出た。文官たちは口では何とかすると言うが、提出された書類は、どれも肝心な箇所が浅い。
それでもベルナールは、しばらく認めなかった。
娘がいなくなった程度で家も国も困るはずがない、と。
アリアは確かに古い文字が読めた。だが、それは伯爵家の書庫に入り浸っていたからであって、家があったからこその能力だ。伯爵家の古文書に触れられたからこそ、たまたま役に立っただけだ。
そう考えなければ、立っていられなかった。
「ウェルグラン伯爵。こちらです」
案内役の文官が、重い扉の前で立ち止まった。
ベルナールは短く頷き、肩を整える。伯爵として、弱みを見せるわけにはいかない。
扉が開く。
室内にはすでに数人が座っていた。外務局の高官、財務卿の代理、王城文書院のグスタフ。そして、王弟ユリウスの側近までいる。
ベルナールの喉が、わずかに乾いた。
ただの確認ではない。
これは、相当重い場だ。
「ウェルグラン伯爵、お忙しいところお越しいただき感謝する」
外務局の高官が口を開いた。
「北方条約改定に関する件で、アリア・ウェルグラン嬢との連絡について確認したい」
いきなりだった。
娘の名が、伯爵家の名より先に出る。
ベルナールは表情を崩さないよう努めた。
「娘に関することであれば、まずは父である私へお話しいただければ」
「その点なのだが」
高官は机上の書状を一枚、ベルナールの方へ向けた。
「先日、王国よりアリア嬢へ一時帰国を要請した。返答が届いている」
「返答……ですか」
ベルナールは思わず眉を動かした。
そんな話は聞いていない。
いや、隣国へ書状を送ったことは知っていた。だが、返事は当然、自分の屋敷か王城へ来るものだと思っていた。娘から父へ何も知らせがないなど、あり得ない。
高官は文面を淡々と読み上げた。
資料照合には協力する。
だが祖国への一時帰国を前提とする依頼には応じかねる。
現在は隣国文書院の協力者として任務にあたっている。
必要な写本を送付するか、公式な共同作業の場を設けるべきである。
ベルナールは最後まで黙って聞いた。
聞くしかなかった。
だが内心では、血が逆流するようだった。
応じかねる。
娘が、王国からの要請に、そう書いたのか。
「……これは、本当に娘の返答ですか」
声が思ったより硬くなった。
外務局の高官は頷く。
「エーヴァルド公爵家の添え状もある。正式な回答と見てよい」
その名が出た途端、室内の空気がさらに重くなる。
エーヴァルド公爵。
ベルナールはあの男が気に入らない。
冷静で、無駄がなく、娘を一個の人格として扱うような目をしている。まるで、父である自分よりもアリアを理解しているかのように。
馬鹿げている。
アリアは、ウェルグラン伯爵家の娘だ。
「娘はまだ若く、判断が未熟なところがあります。父である私から話をすれば――」
「伯爵」
そこで、グスタフが口を開いた。
彼は以前よりも落ち着いた顔をしていた。だがその目には、かつてベルナールの屋敷を訪ねていた頃にはなかった厳しさがある。
「失礼ながら、アリア様は未熟な判断でこの返書を出されたわけではありません。条件提示は極めて妥当です」
ベルナールは不快を隠さず、文官を見た。
「君は娘を買いかぶりすぎている」
「いいえ」
グスタフは即答した。
「むしろ、我々は長い間、過小評価していました」
室内が静まる。
ベルナールの指先が、机の下でわずかに震えた。
「過小評価?」
「はい」
グスタフは資料を開いた。
「伯爵家経由で王城に提出されていた古文書注釈、条約補足、旧税制の確認書類を過去数年分照合しました。筆跡、整理形式、引用の癖、注釈の構造。ほぼ同一人物によるものです」
ベルナールは言葉を失った。
何を言われているのか、分かるようで分からなかった。
グスタフは続ける。
「それらの多くが、王城内の実務判断に使われています。北方税、旧関税、辺境諸侯との古い協定、外国語混じりの条約文。表に名前は出ていませんが、アリア様の知見はすでに王国中枢を支えていました」
王国中枢を支えていた。
その言葉が、部屋の中で異様に響いた。
ベルナールは反射的に否定したくなった。
そんなはずはない。
あれは家の雑務だ。
古い紙を読ませ、要点をまとめさせていただけだ。
伯爵家として王城へ協力していたに過ぎない。
だが、目の前に並べられた資料が、それを許さなかった。
見覚えのある紙。
見覚えのある整理。
屋敷の古書庫で何度も見た、細く整った娘の文字。
ベルナールは、それを今まできちんと見たことがなかった。
見ていたのに、見ていなかった。
「……あれは、伯爵家の仕事です」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも苦しいものだった。
グスタフは、少し悲しげに眉を下げた。
「そう処理されてきました。ですが実際に読んでいたのは、アリア様です」
「だからといって、娘が王国からの要請を拒む理由にはならない」
「拒んだのではありません。条件を整えるよう求めているのです」
外務局の高官が静かに言った。
「こちらとしても、彼女を強制的に呼び戻すわけにはいかない。今のアリア嬢は隣国文書院の正式な協力者であり、エーヴァルド公爵家の保護下にもある」
保護下。
その言葉に、ベルナールの胸の奥で何かが軋んだ。
父である自分を差し置いて、誰が娘を保護するというのか。
「アリアは私の娘です」
「もちろんです」
高官は否定しなかった。
だが、そのあとが重かった。
「ですが、彼女は伯爵家の所有物ではありません」
室内が静まり返った。
ベルナールは、一瞬、本当に言葉を失った。
所有物。
そんなふうに扱ったつもりはない。
娘は娘だ。家のために働き、家の方針に従い、父の命に従う。それは貴族の家では当然のことだ。アリアだけが特別ではない。
だが、ではなぜ彼女は戻らないのか。
なぜ、王国からの要請にさえ、条件を出したのか。
なぜ、かつては何を言っても静かに頷いていた娘が、今は自分の言葉で返書を書くようになったのか。
考えたくない問いが、胸の中で次々と浮かんだ。
会議はその後も続いた。
王国側は、アリアとの共同作業の場を設ける方向で検討すること。必要写本の一部を隣国へ送付するには、王城内の許可が必要であること。ウェルグラン伯爵家には、過去の控えやアリアが残した目録がある可能性が高いため、資料提出を求めること。
ベルナールはそこで初めて、はっきりと要求された。
「伯爵家に残るアリア嬢作成の控え、目録、古文書整理記録を提出していただきたい」
喉の奥が詰まる。
娘が家に残した紙まで、王城が求めている。
まるで、アリアの部屋や古書庫にあるものが、伯爵家の私物ではなく、王国の失われた機能の一部だと言われているようだった。
「確認の上、提出いたします」
ベルナールはそう答えるしかなかった。
会議が終わり、王城を出る頃には、昼を過ぎていた。
馬車の中で、ベルナールは一言も発しなかった。
向かいに座る従者も、主人の機嫌を察して黙っている。車輪の音だけが、やけに大きく響いた。
娘を失った。
いや、そんな感傷的な話ではない。
伯爵家は、もっと大きなものを失ったのかもしれない。
ベルナールは膝の上で手を組む。
思い出すのは、古書庫の隅にいるアリアの姿だった。地味なドレス。俯きがちな顔。こちらが声をかければ、すぐに立ち上がり、「かしこまりました」と答える娘。
いつでもそこにいた。
当然のように。
王城から紙が来れば、読ませる。
古い条約文が分からなければ、調べさせる。
急ぎの返答が必要なら、夜までかけてまとめさせる。
それを、仕事だとすら思っていなかった。
家にいる娘が、できることをしているだけ。
それだけだと。
けれど王城は今、その「できること」を取り戻そうとしている。
隣国はその「できること」に席と肩書きを与えている。
そしてアリア自身は、もう黙って戻らない。
ベルナールは、奥歯を噛みしめた。
怒りがある。
娘が父に逆らうことへの怒り。
王城が自分を飛び越えてアリアの名を呼ぶことへの怒り。
エーヴァルド公爵が、父である自分より先に娘の価値を見抜いたことへの怒り。
だが、その下に、もっと厄介な感情が沈んでいた。
焦り。
そして、認めたくない後悔。
屋敷へ戻ると、マルグリットが玄関広間で待っていた。
「あなた、王城では何と?」
「古書庫を調べる」
ベルナールは短く言った。
「アリアの残した控えや目録を、王城が求めている」
妻の顔色が変わった。
「アリアの? でも、あの子が書いていたものなど、ただの覚え書きでは」
「その覚え書きが必要だそうだ」
言いながら、声が荒くなるのを抑えられなかった。
マルグリットは何か言いたそうにしたが、結局黙った。
二人は古書庫へ向かった。
かつて、ベルナールがほとんど足を踏み入れなかった場所。埃っぽく、古く、地味で、娘に似合いすぎていると思っていた場所。
扉を開けると、冷えた紙の匂いが流れ出した。
そこには、アリアの気配がまだ残っていた。
机の上は整えられ、棚には細い紙片で目印がつけられている。古い帳簿の背には、小さく年代と内容を示す札が差し込まれていた。誰が見ても分かるように、という配慮がそこかしこにある。
ベルナールは机の引き出しを開けた。
中には、控えがあった。
北方税制。辺境旧協定。南方語混じりの交易証書。礼典古語。王家の婚姻記録。古い印章の対応表。
どれも、整った文字でまとめられている。
娘の文字だ。
ベルナールは一枚を手に取り、読み進めようとした。
すぐに分からなくなる。
専門用語が並んでいるからではない。むしろ、アリアの説明は分かりやすい。だが、その分かりやすさの背後に、どれほどの知識と労力があるのかが、今になって嫌でも見えてしまう。
これは一朝一夕で書けるものではない。
長い年月、何度も読み、比べ、間違いを直し、誰かが困らないように整え続けなければ、こんな形にはならない。
マルグリットが震える声で言った。
「この子、いつからこんなことを……」
ベルナールは答えられなかった。
いつから。
たぶん、ずっと前からだ。
彼が「書庫に籠もってばかりいる」と呆れていた時。
妻が「地味な娘」と溜息をついていた時。
カイルが「魅力にならない」と切り捨てていた時。
アリアは、ここで王国の一部を支えていた。
名前もなく。
礼もなく。
当然のように。
ベルナールは、手の中の紙を強く握りそうになり、慌てて力を緩めた。
破ってはいけない。
今さらそんなことを思う自分に、腹が立った。
娘の心は平気で傷つけてきたくせに、紙一枚を傷つけることは恐れている。
「……アリアを戻さねばならん」
ベルナールは低く言った。
マルグリットが顔を上げる。
「戻して、どうするのです」
「家に必要だ」
言った瞬間、その言葉があまりにも薄く響いた。
家に必要。
王国に必要。
それだけでは、あの返書を書いた今のアリアは戻らない。
そんなことは分かっている。
だが、では何と言えばいいのか分からなかった。
娘よ、帰ってこい。
父はおまえを誤解していた。
おまえを役立たずと呼ばせたことを悔いている。
そんな言葉が喉元まで上がりかけて、出てこない。
出したことがない言葉は、年を取ってからではあまりにも重い。
ベルナールは机に両手をついた。
古書庫の静寂が、耳に痛かった。
アリアがいなくなった屋敷で、彼は初めて理解し始めていた。
娘を失ったのではない。
自分は、娘が娘であるうちに見ることを怠った。
そして今、その代償を国と家の両方から突きつけられているのだ。




