第13話 捨てられたはずの才が、外では惜しまれ始める
翌日から、伯爵家の中でアリアを見る目は、目に見えないほど少しずつ変わり始めた。
劇的な変化ではない。
父ベルナールが急に娘を褒めるようになったわけでも、母マルグリットが態度を改めたわけでもない。カイルが心を入れ替えた気配もない。けれど、以前なら当然のように流されていたことが、今は一度引っかかるようになっている。
たとえば、朝食の席で父が何気なく「例の紙を見ておけ」と言う時、その声には前のような雑さがなくなった。
たとえば、母が「あなたはこういう場には向かないわね」と言いかけて、少しだけ言葉を飲み込むようになった。
たとえば、使用人たちがアリアへ差し出す文書を、ただの「旦那様のご指示です」ではなく、「お嬢様にしか分からないそうです」と添えるようになった。
どれも小さい。
だが、その小さな違いが積み重なると、屋敷の空気そのものが少しずつ変わっていく。
アリア自身も、それを感じ取っていた。
自分はまだこの家の中では「都合の良い長女」の位置に置かれている。
けれどもう、「何の役にも立たない娘」では押し通せない。
屋敷の内側で長く固定されていた認識に、外の世界がじわじわと亀裂を入れ始めているのだ。
その日の昼前、アリアは古書庫で前夜書き上げた補足文を見直していた。
公爵レオンハルトへの返答に添える、北方語の補注一覧。
祝辞文の中で政治的含意を持ちやすい語。
交易文で頻出する曖昧表現と、その実務上の意味。
そして、王国語へ移す時に「善意」や「儀礼」に見えてしまいがちだが、実際には「継続的な義務」や「道筋の維持」を示す語の例。
自分で書いておきながら、少しだけ顔が熱くなる。
こんなふうに、誰かに読まれる前提で、自分の得意なことをきちんと整理する日が来るなど、ついこのあいだまで想像もしていなかった。
「お嬢様」
ローベルトが小さく声をかける。
「旦那様が、昼食後に執務室へ来るようにと」
アリアは顔を上げた。
「何かしら」
「詳しくは伺っておりません。ですが、侯爵家から使いが来ているそうです」
やはり、と胸の内で思う。
ローデン侯爵家が静観して終わるはずはない。
昨日の公爵来訪まで含めて、伯爵家の長女に集まり始めた外からの関心を、彼らが見逃すわけがなかった。
「分かったわ」
紙を整え、控えを分け、必要なものを引き出しへしまう。
最近、アリアは「いつ何を持って出るべきか」を以前より素早く判断するようになっていた。必要なものを必要な時に示せるよう、控え帳と目録だけは必ず手元に置く。これもまた、長年「名前のない仕事」を続けてきた結果身についた癖だった。
昼食は妙に静かだった。
父は何か考え込むようにほとんど喋らず、母はその横で落ち着かない様子を隠そうともしない。セレナは何度もアリアへ視線を向けてきたが、場の空気を読んで黙っていた。
そしてカイルは来ていなかった。
以前なら、それが少しだけ気になったかもしれない。婚約者が何を考えているのか、どうして席にいないのか。けれど今のアリアは、その不在に以前ほど心を引かれなかった。
たぶん彼は、父や侯爵と何か話しているのだろう。
あるいは、自分の中で収まりきらない感情を整理できずにいるのかもしれない。
どちらにせよ、今の自分にとって重要なのはそこではない。
昼食後、執務室の前に立つと、中から父と知らない男の声が聞こえた。
「……ですから、婚約の価値というものは、情だけではなく」
「分かっております。しかし、ローデン侯爵としても事態が変わった以上――」
やはり婚約の話だ。
アリアは一度だけ目を閉じた。
今までは、自分の婚約についてこうして外で何が話されているのか、ほとんど知らされなかった。だが今日は違う。少なくとも、自分抜きで決められるだけの段階ではなくなっている。
ノックをすると、父の短い返事があった。
「入れ」
執務室には父ベルナールと、ローデン侯爵家の家令らしい中年の男がいた。整った礼装に控えめな紋章。主人本人ではなく、まずは使いを立てて様子を見る形なのだろう。
男はアリアが入ると丁寧に礼をした。
「初めてお目にかかります、アリア様。私はローデン侯爵家で家令を務めます、エルムと申します」
「初めてお目にかかります」
礼を返すと、父が咳払いした。
「侯爵家から、婚約について少々確認したいことがあるそうだ」
確認したいこと。
曖昧な言い方だが、実際には様子見だろう。伯爵家の長女が今どの位置にいるのか、婚約関係を今後どう扱うべきか、その見極めだ。
家令エルムは柔らかい物腰で口を開いた。
「率直に申し上げますと、侯爵様はアリア様の才について、今まで把握が十分でなかったことを遺憾に思っておられます」
遺憾。
なんとも上品な表現だが、要するに「見誤っていた」ということだ。
アリアは黙って次を待った。
「また、昨今の王城および隣国からの働きかけを受け、侯爵家としてもアリア様の立場を改めて考える必要がある、と」
「立場、ですか」
静かに問い返すと、家令は一瞬だけ目を細めた。
「はい。婚約者として、そして侯爵家に連なる方として」
その言い回しに、アリアは胸の奥で冷たいものを感じた。
やはりそうだ。
彼らは今さら「あなた自身」を見ているのではない。
今さら「どれだけ価値があるか」を測り直しに来ている。
それは父ともカイルとも少し違うが、本質は近い。
「把握が十分でなかった、とのことですが」
アリアは視線を逸らさずに言った。
「侯爵家は今まで、私について何を把握していたのでしょう」
部屋の空気がぴたりと止まった。
父が明らかに顔をしかめる。
だが家令エルムは、わずかな間のあと、丁寧に答えた。
「正直に申し上げれば、伯爵家の長女として必要十分な教育を受けた、穏やかなご令嬢であると」
「そうですか」
「ですが、近頃の一件で、その認識では不十分だったと」
「不十分、というのは」
アリアは一歩も引かなかった。
「私が侯爵家の求める以上の価値を持っていた、という意味ですか」
家令の眉がわずかに動く。
父が「アリア」と低くたしなめるが、彼女はそちらを見なかった。
もう、曖昧な言葉に包まれたまま流される気はなかった。
「……はい」
エルムは結局、そう答えた。
「侯爵家としては、そう認識しております」
その瞬間、アリアは奇妙な感覚に襲われた。
怒りでもなく、喜びでもない。
ただ、遠くから聞こえてくるような白々しさ。
価値。
以上。
認識しております。
つい数日前まで、自分は「華がない」「愛嬌が足りない」「婚約者として見劣りする」と言われていたのだ。それが外から必要とされ始めた途端、今度は「以上の価値」と数え直される。
どこまでいっても、この人たちは値札の話しかしないのだと、アリアは静かに理解した。
「それで、侯爵家はどうなさりたいのですか」
尋ねると、家令は少し慎重な顔になった。
「現時点で婚約を動かす意図はございません。むしろ、軽々しく扱うべきではないと侯爵様は考えておられます」
軽々しく扱うべきではない。
結局そこも同じだ。
愛情でも信頼でもなく、「手放すには惜しい」という判断。
その時、アリアの中にひどく冷えた確信が生まれた。
ああ、本当に今さらなのだ。
「承知しました」
そう答えた声音は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
家令エルムは一礼し、それ以上踏み込まなかった。おそらく彼も、この場ではこれ以上の返答は得られないと悟ったのだろう。
話が終わり、家令が去ったあと、父はあからさまに不機嫌そうな顔で娘を見た。
「もう少し言い方というものがあるだろう」
「どの部分でしょう」
「侯爵家の使いにあそこまで直接――」
「お父様」
アリアは静かに遮った。
「私は、ようやく自分について話されている場に、自分が呼ばれたのです」
父が口を閉ざす。
「今までずっと、私の婚約も、私の価値も、私のことなのに、私抜きで決まってきました。だからせめて今日くらいは、曖昧なまま流されたくなかったのです」
それは責める声ではなかった。
ただの事実として、淡々と置いた言葉だった。
だがその淡々とした調子の方が、かえって父には堪えたのかもしれない。ベルナールはしばらく沈黙し、それから不承不承といった様子で言った。
「……侯爵家の意向は分かった。おまえも、今後は自分の立場をよく考えて振る舞え」
また立場。
アリアはほんの少しだけ疲れた。
この人たちはいつになれば、「立場」ではなく「私」の話をするのだろう。
執務室を下がり、廊下を歩いていると、向こうからセレナが走ってきた。
「お姉様!」
妹はアリアの顔を見るなり、少しだけ眉を寄せた。
「また嫌な話をされたの?」
「嫌な話、というほどではないわ」
「嘘よ。お姉様、そういう時いつもそう言うもの」
思わず足を止める。
その指摘は、少しだけ痛かった。
セレナは続ける。
「でも今は、前みたいに『それでいい』って顔をしていない」
アリアは妹を見つめた。
セレナは今、確かにこちらを見ようとしている。まだ浅い。まだ自分中心の目線が抜けきっているわけではない。けれど少なくとも、昔のように何も知らずに笑っているだけではなくなった。
「……今さら気づいても、遅い人たちがたくさんいるの」
アリアはゆっくりとそう言った。
「侯爵家も、お父様も、お母様も、きっとそう」
セレナは小さく息を呑む。
「カイル様も?」
「ええ」
言い切ると、不思議と胸が軽くなる。
これはもう、認めていいことなのだろう。
彼は今さら焦っている。
侯爵家も今さら数え直している。
伯爵家も今さら価値を把握し始めている。
でも、その「今さら」は、長いあいだこちらを見てこなかった時間を帳消しにはしない。
「お姉様は……どうしたいの?」
また同じ問い。
けれど今度のアリアは、前より少しだけはっきり答えられた。
「大切にされたいわ」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
セレナの目が揺れる。
「才だけじゃなくて、便利だからでもなくて、ちゃんと人として。今は、それを望んでもいい気がしているの」
そう言った瞬間、胸の奥にあった何かが、すとんと落ち着いた。
そうだ。
自分が本当に欲しかったのは、単に「役に立つ」と言われることだけではない。
もちろんそれは嬉しい。必要とされることは、長いあいだ欠けていたものを埋めてくれる。
けれど、それだけでは足りないのだ。
便利な手札としてではなく。
婚約の価値を上げる材料としてでもなく。
ちゃんと人として大切にされたい。
それは贅沢でも、わがままでもないはずだった。
セレナは何も言えず、ただ姉を見つめていた。
アリアはそれ以上、妹に何かを求めなかった。
今はまだ、それでいい。
古書庫へ戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。
見覚えのある、上質だが飾り気のない紙。
ローベルトが気を利かせて置いておいたのだろう。
封を見ただけで分かった。
レオンハルトからだ。
指先が自然とその封へ伸びる。
開く前から、自分でも少しだけ顔が和らぐのが分かった。
家の中で今さら価値を数え直される話を聞いたあとだからこそ、その手紙が別の意味を持って迫ってくる。
この人は、今さら「惜しい札」だから見ているのだろうか。
それとも、本当に違うのだろうか。
封を切り、中の紙を広げる。
そこに記されていたのは、短い一文だった。
――本日、あなたの説明を聞いて確信しました。
――あなたの才は、偶然見つかったものではなく、長く積み重ねられてきたものです。
――それを軽んじる者がいたとしても、私は軽んじません。
その最後の一文を見た瞬間、アリアは息を止めた。
軽んじません。
ただそれだけなのに、どうしてこんなにも胸が熱くなるのだろう。
役に立つ。必要だ。助けてほしい。
そのどれも嬉しい。
けれど今の自分にとって、この言葉はもっと深い場所へ届いた。
軽んじない。
それはつまり、きちんと重みを持つものとして扱うということだ。
才能も、努力も、そしておそらく、自分自身の言葉も。
アリアはゆっくりと手紙を閉じた。
窓の外では夕方の光が薄れていく。
古書庫の中は静かで、紙の匂いは変わらない。
でも、彼女の中で何かが確かに決まりつつあった。
今さら気づいても遅い人たちがいる。
そして、今からでもちゃんと見ようとする人がいる。
その違いを、もう見間違えたくなかった。




