第14話 初めて、自分の価値を疑わなかった日
レオンハルトからの手紙を読んだ夜、アリアはいつもより長く机の前に座っていた。
古書庫の灯りは一つだけ。窓の外はすっかり暗く、庭の木々も黒い影になって沈んでいる。紙の上に落ちる光だけが小さな円を作り、その中に彼女の指先と、たった今閉じたばかりの手紙があった。
――それを軽んじる者がいたとしても、私は軽んじません。
何度思い返しても、その一文が胸の奥に残る。
軽んじない。
それはつまり、比べないということだ。
飾りとして値踏みしない。
都合のよい札としてだけ数えない。
「華やかさが足りない」「婚約者として見劣りする」と、別の物差しで押し潰さない。
今まで当たり前のようにされてきたことを、しないと言われるだけで、人はこんなにも救われるのかと、アリアは少し呆れる。
「……本当に、変ね」
自分でそう呟いて、わずかに笑った。
役に立つと言われたことは、ここ数日で何度かあった。
助かったと言われたこともある。
けれど「軽んじない」と言われたことは、それらとはまったく違う意味を持っていた。
それは能力に向けた言葉でありながら、能力だけに向けた言葉ではない。
積み重ねた時間や、自分がそれを大切にしてきたこと、その全部をひっくるめて扱う響きがある。
アリアはゆっくりと便箋を引き寄せた。
返事を書くつもりだった。
だが今夜は、先ほどのような実務的な礼だけでは足りない気がする。
もちろん感情を露わにしすぎるわけにはいかない。それでも、今自分が受け取ったものの重さだけは、きちんと返したかった。
しばらく考え、ようやく一行目を書く。
――ご丁寧なお言葉をありがとうございます。
――私が長く続けてきたことを、そのように見ていただけたのは初めてです。
そこまで書いたところで、ペンが止まる。
初めて。
それは事実だった。
だがこうして書くには、少しだけ剥き出しすぎる気もした。
それでも、消さなかった。
今さら飾っても仕方がない。少なくともレオンハルトは、取り繕った言葉より、正直な言葉を受け取る人のように思えたからだ。
続けて、彼女は静かに書き進める。
――私にとって古い文字を読むことは、長いあいだ誰にも知られない静かな習慣でしかありませんでした。
――ですが今、公爵閣下や王城の皆様のおかげで、それが誰かの助けになる形を持つのだと知りました。
――そのことを、私はとても大切に思っています。
最後まで書き終えると、胸の奥に小さな熱が残った。
たぶん、これ以上は今の自分には書けない。
これで十分だろう。
封を整えて立ち上がると、古書庫の外で小さな足音がした。ローベルトではない。もっと軽く、迷いのある歩き方。
扉を開けると、そこにいたのはセレナだった。
「……まだ起きていたのね」
妹は少し気まずそうに笑う。
「お姉様こそ」
「少しだけ、手紙を書いていたの」
その言葉に、セレナの目がわずかに動く。誰への手紙か、聞きたいのだろう。けれど今日は踏み込まないらしい。ただ「そう」とだけ言って、廊下の壁にそっと寄りかかった。
夜の屋敷は静かだった。遠くで見回りの使用人の靴音が響くくらいで、あとは春先の冷たい風が窓の隙間を鳴らしているだけだ。
「眠れないの?」
アリアが尋ねると、セレナは少しだけ肩を竦めた。
「少しだけ」
「珍しいわね」
「お姉様のことを考えていたの」
その答えに、アリアは驚くより先に、どこか静かに納得した。ここ数日、妹の中でも何かが大きく揺れているのだろう。長年当然だと思っていた姉の位置が、外の世界によって塗り替えられ始めているのだから。
「何を?」
「……たとえば、もし最初から、お姉様のことを皆がちゃんと知っていたら、どうなっていたのかとか」
アリアはしばらく答えなかった。
もし最初から。
その仮定はあまりに大きすぎて、すぐには言葉にできない。
「どうかしら」
やがて、穏やかに返す。
「たぶん、何もかも同じにはならなかったでしょうね」
「カイル様も?」
「ええ」
セレナは目を伏せた。
「わたくし……少し分かる気がするの」
「何が?」
「カイル様が最近、怖いの」
その一言は意外だった。
アリアは妹の横顔を見る。セレナは言葉を探すように、指先で袖口を摘まんでいた。
「前は、お姉様のことを見ていないだけだと思っていたの。でも今は違うの。見え始めているのに、それでも認めたくないみたいで……その感じが、とても」
「怖いのね」
「ええ」
アリアは静かに息を吐いた。
妹の感覚は正しいのだろう。
見えていなかった時より、見え始めてから否定する方が、ずっと人は歪む。
カイルは今、自分が「評価する側」だと思っていた相手に、逆に値踏みされる位置へ引き戻されかけている。その不快と焦りが、彼をますます狭くしているのだ。
「お姉様は……怖くないの?」
セレナが問う。
アリアは少しだけ考えた。
「怖いわ」
素直に答える。
「でも、前とは違う怖さなの」
「違う?」
「前は、見下されることとか、捨てられることとか、いらないと思われることが怖かった」
そこまで口にして、アリアは自分でもはっきりと分かった。
そうだ。前の自分はずっと、要らないと思われることを怖れていたのだ。
だから静かにしていたし、反論もしなかった。
少しでも居場所を失わないために。
「でも今は?」
「今は……」
廊下の窓へ目を向ける。ガラスの向こうに、薄く月が浮かんでいた。
「今は、自分が何を大事にしたいのかを知ってしまったから、それをまた見失うのが怖いのかもしれない」
セレナは黙ってその言葉を聞いていた。
たぶん、全部は分からないだろう。
けれど今の妹は、分からないまま切り捨てたりはしない。
それだけで十分だった。
「お姉様」
「なに?」
「もし……もし、本当にこの家や婚約のことが辛くなったら」
そこでセレナは少し唇を噛み、それから言った。
「わたくし、ちゃんとお姉様の味方になるように頑張る」
まっすぐな言葉だった。
まだ幼い。まだ頼りない。
けれど、初めて聞く種類の約束だった。
アリアは少しだけ目を見張って、それから静かに笑った。
「ありがとう」
それ以上は何も言わなかった。
でも、その一言だけで十分に思えた。
昔のままの妹なら、こんなことは絶対に言わない。
変わり始めているのは、間違いなく事実なのだ。
その夜はそれで別れ、アリアは自室へ戻った。
机の引き出しに手紙をしまい、寝台へ入る。
目を閉じても、ここ数日の出来事が次々と思い浮かんだ。
夜会の灯り。
巻紙の文字。
王城文官の問い。
公爵の静かな目。
カイルの焦り。
今さら気づき始めた家族たち。
そして何より、自分自身の変化。
大切にされたい。
軽んじられたくない。
続けたい。
そんな言葉を、今の自分はもう恥ずかしいと思わない。
翌朝、アリアは久しぶりに少しだけよく眠れた気がした。
まだ早い時間、窓の外に薄い光が差し込んでいる。起き上がり、水差しの水で喉を潤す。心の奥が、不思議なくらい静かだった。
自分でも気づく。
今日の私は、少し違う。
誰かに褒められたからではない。
誰かに必要とされたからだけでもない。
初めて、自分で自分の価値を疑わなかったのだ。
鏡台の前へ座り、髪を整える。
映る顔は相変わらず派手ではない。地味だし、華やかさもない。
けれど今朝は、それが劣って見えなかった。
青みを含んだ瞳も、静かな口元も、自分のものとしてちゃんと好きだと思える。
扉が叩かれ、マリーが入ってくる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう」
侍女は少し目を丸くした。
「……今日は、なんだか」
「なんだか?」
「とても綺麗です」
思わず、アリアは笑ってしまった。
「朝から大げさね」
「いいえ、本当に。お顔つきがいつもと違います」
その言い方に、アリアは鏡の中の自分をもう一度見た。
たしかに少し違うのかもしれない。
何かを隠すために目を伏せている顔ではない。
比べられる前提で縮こまっている顔でもない。
自分の好きなものを好きだと認めた人間の顔なのだろう。
「今日は何か予定がありましたか」
マリーが服を選びながら尋ねる。
「昨日の返事を、ローベルトに渡したいわ。それから、北方交易の旧記録の続きを見たい」
「では、いつもの青いお色になさいます?」
「ええ。あれがいい」
迷いなく答えると、マリーが嬉しそうに頷いた。
食堂へ向かう途中、古書庫の前でローベルトが待っていた。
「お嬢様、昨夜のお手紙は、旦那様の執務室を通して今朝早く使いに渡しました」
「ありがとう」
「それから」
老執事は声を少しだけ落とした。
「今朝、王城から急ぎの文が届いております」
アリアは足を止める。
「急ぎ?」
「はい。北方越境路に関する旧協定について、至急確認したい箇所があると。……それから、隣国側の公用写しも合わせて参照できる段取りが整ったそうです」
胸が少しだけ高鳴る。
隣国側の写し。
それはつまり、今まで王国の中だけで拾っていた断片と、向こう側が持つ正式な記録を初めて照らし合わせられるということだ。
アリアの目の前に、また新しい扉が開こうとしていた。
「……見せて」
そう言った自分の声には、もう迷いがなかった。




