第12話 返す手紙、揺れる婚約
公爵レオンハルトからの手紙を受け取ったあと、アリアはしばらく机に向かったまま動けなかった。
古書庫の窓の外では、夕暮れがゆっくりと沈んでいく。まだ空の高いところには薄い青が残っているが、庭木の影はすでに濃く、石畳の道も半分ほどが夜に呑まれかけていた。
手元の紙には、先ほど届いた手紙が静かに置かれている。
――また、本日あなたが口にした「続けたい」という言葉を、私は大切に受け取りました。
何度読んでも、その一文で指先が止まる。
大切に受け取る。
そんなふうに誰かに自分の言葉を扱われたことが、これまであっただろうか。
役に立つか、家のためになるか、見栄えがするか。そういう尺度ではなく、アリア自身が口にした思いそのものに重みを与えられる。たったそれだけのことなのに、胸の奥では小さな衝撃が何度も波のように返ってくる。
「お返事を……書かれるのですか」
少し離れた場所で帳面を整理していたローベルトが、遠慮がちに尋ねた。
「ええ」
アリアはようやくそう答えた。
「書きたいの」
義務だから、ではない。
伯爵家の体面のためでもない。
書きたい。
それが自分でも少し新鮮で、少しだけくすぐったかった。
返事を書くなら、簡潔であるべきだろう。過剰に感情を乗せるのは違う。相手は隣国の公爵であり、正式な協力関係の話がこれから整えられるかもしれないのだから。
それでも、あの一文を受け取ったまま、何も返さないという選択はなかった。
アリアは新しい紙を引き寄せ、ペン先を整える。
最初の一行を書くまでに、思ったより時間がかかった。
感謝を伝えるだけなら簡単だ。
だが、どこまでを言葉にしていいのか分からない。
今日の応接室で、自分は確かに変わった。
「続けたい」と初めて口にした。
その言葉を、彼は聞き流さなかった。
そのことを、どの程度まで紙に乗せてよいのだろう。
「難しいわね」
小さく漏らすと、ローベルトが微かに笑った。
「お嬢様にも、難しいことはございますか」
「文字の解釈より、ずっと難しいわ」
「それはまた」
老執事はそれ以上は口を出さなかった。
ありがたい、と思う。
今のこの迷いは、誰かに答えを出してほしい種類のものではない。自分で選び、自分で言葉にするしかない。
アリアは一度だけ目を閉じ、それから静かに書き始めた。
――本日はご丁寧なお言葉をありがとうございました。
――私の拙い説明が、少しでもお役に立ったのであれば幸いです。
――また、私の言葉を大切に受け取ってくださったこと、心より感謝いたします。
――これまで、古い文字を読むことは私にとって静かな習慣でしかありませんでした。ですが本日、公爵閣下や皆様とお話ししたことで、それが誰かの役に立ちうるのだと、改めて実感いたしました。
――未熟ではございますが、今後もお力になれることがあれば、誠実に向き合いたく存じます。
そこまで書いて、手を止める。
丁寧すぎるだろうか。いや、これくらいでいい。
感情を零しすぎず、でも嘘にはならない。
少なくとも今の自分に書ける、精いっぱいの返答だ。
最後に署名を書き、砂を軽く振る。
すると、それまで静かにしていたローベルトがゆっくり頷いた。
「よろしいお手紙かと」
「そう?」
「はい。お嬢様がきちんとおられます」
その言い方に、アリアは少しだけ笑った。
きちんとおられる。
昔の自分なら、手紙ひとつでそこまで分かるものかと思っただろう。けれど今は、たぶん本当にそうなのだと感じる。言葉には、人の姿勢が出る。古い文を読んでいる時にも、いつだってそう思ってきた。
ならば今のこの手紙にも、自分の姿勢はきっと出ている。
それでいいのだろうと思えた。
封を整え終えた頃には、外はすっかり夕闇へ沈んでいた。
ローベルトが「私が旦那様の執務室へ」と言って封書を受け取る。伯爵家を通す形を崩す気はアリアにもない。今はまだ、その線を越える時ではない。
古書庫に一人きりになると、ふっと力が抜けた。
今日一日で、あまりにも多くのことが動いた。
隣国の公爵。
王城文官。
使節団。
そしてカイル。
今まで伯爵家の中で「地味で、静かで、役立たず」と置かれていた自分を、外の世界が勝手に見つけ、勝手に動き出している。その渦の中心にいるのが自分自身だということが、まだ時々信じられない。
その時、扉が二度、控えめに叩かれた。
「お嬢様。セレナ様が……」
マリーの声だった。
「入ってもらって」
少しして、セレナが顔を覗かせた。いつものように整った笑顔ではなく、少しためらいが見える表情をしている。
「お姉様、少しいいかしら」
「ええ」
妹は中へ入ると、後ろ手に扉を閉めた。古書庫へ一人で入ってくること自体、以前ならあまりなかった。紙の匂いも薄暗さも、セレナには馴染みのない世界だからだ。
だが今日は違うらしい。
「……ここ、本当にたくさん本があるのね」
「ええ」
「昔から、お姉様はずっとここにいたの?」
「よくいたわ」
それだけのやり取りでも、妙に空気がぎこちない。
セレナは棚を見回し、文机の上に広げられた控え帳や写本へ視線を落とした。そこには姉が今まで当たり前のように積み上げてきたものが、静かに並んでいる。
「ねえ」
妹が、小さな声で言う。
「お姉様は、苦しくなかったの?」
思いがけない問いだった。
アリアは少しだけ目を瞬かせる。
「何が?」
「ここでずっと、そういうことをしていても……誰もちゃんと見てくれなくて」
その言葉に、アリアはしばらく返事ができなかった。
苦しかったのか。
もちろん、苦しくなかったわけではない。
母に軽く扱われ、父には便利に使われ、婚約者には価値のないもののように見られる。
その中で、自分の好きなものだけが静かにここにあった。
けれど、それを「苦しい」と言葉にすることを、ずっと避けてきたのだ。
「……慣れてしまっていたのだと思うわ」
ゆっくり答える。
「誰も気にしないことが当たり前で、私も別にそれでいいと思うようにしていたから」
「でも、今は違うのでしょう?」
セレナの問いは、思ったより鋭かった。
アリアは小さく息を吐く。
「違うわね」
はっきり認める。
「今は、違う」
妹は何かを言おうとして、それから少し俯いた。
「わたくし……昨日も今日も、ずっと考えていたの」
その声は少し震えていた。
「お姉様が、そんなに色々なことを分かっていて、王城の方や公爵様までそれを認めていて……それなのに、わたくし、何も知らなかった」
アリアは黙って聞く。
「知らなかったというより、知ろうとしていなかったのよね、きっと」
セレナは指先をぎゅっと握りしめた。
「だって、お姉様は何でも『いいわ』『大丈夫よ』って言うから。わたくしも、それで本当に大丈夫なんだと思っていた」
それはたぶん、本音なのだろう。
言い訳ではなく、甘やかされた妹の正直な告白。
アリアはそのことに少しだけ救われる。セレナは悪意だけで動いていたわけではない。無邪気さと甘えと、周囲が当然としてきた構図の中で、何も考えずにこちら側を受け入れていただけだ。
それでも傷ついた事実は消えない。
でも、全部が嘘でもなかったのだと思える。
「わたくし」
セレナが顔を上げる。
「今さらかもしれないけれど、お姉様のこと、ちゃんと知りたい」
古書庫の中は静かだった。
その言葉を、アリアはすぐには受け止めきれない。
今さら。
本当に、その通りだ。
今さら、なのだ。
けれど、今さらだからこそ意味がないとも言い切れない。もしずっとこのままだったら、セレナは一生こちらを「書庫が好きな地味な姉」のまましか見なかったかもしれない。
変わるきっかけが遅かっただけで、変わろうとしているなら。
「……じゃあ、まずは」
アリアは文机の上の薄い写本を一冊取った。
「これを見てみる?」
「え」
「北方交易の古い記録よ。たぶん読んでもすぐには分からないと思う。でも、どうして私がこういうものを見ているのかくらいは、少し伝わるかもしれない」
セレナは驚いたように本を受け取った。
そしておそるおそる頁を開き、すぐに困った顔をする。
「……本当に、あまり分からないわ」
アリアはくすりと笑った。
「でしょうね」
「でも、なんだか……綺麗」
ぽつりと零された言葉に、今度はアリアの方が驚く。
「綺麗?」
「ええ。意味は分からないけれど、並び方が。規則があるみたいで」
その感想が、思いがけず嬉しかった。
そう。文字は綺麗なのだ。
意味が解けなくても、そこに積み重なった時代や人の癖が見える時、アリアにはずっとそう見えていた。
その感覚を、少しでも共有できた気がして、胸の奥がやわらかくなる。
「お姉様」
セレナが本を閉じた。
「……カイル様のこと、どうするの」
今度は、ずっと避けてきた問いが来た。
アリアは視線を落とした。
どうするのか。
正直、まだはっきりとは分からない。
婚約をすぐに破棄できるほど事は簡単ではない。家と家の繋がりがあり、父の思惑もあり、侯爵家の事情もある。けれど少なくとも、以前のように「このままで仕方ない」とは思えなくなっていた。
「まだ決めていないわ」
そう答えると、セレナは少しだけ安心したような、逆に不安そうな顔をした。
「でも」
アリアはゆっくりと言葉を継ぐ。
「このままでいいとも、思っていない」
それは今の自分に言える、最も正直な答えだった。
セレナは何か言いたげだったが、結局「そう」とだけ呟いて本を机へ戻した。
「今日は、来てよかった」
帰り際、妹はそう言った。
「お姉様が何を見ているのか、少しだけ分かった気がする」
「それならよかった」
セレナが去り、再び古書庫に静けさが戻る。
アリアは椅子に腰を下ろし、先ほどまでの会話を思い返した。
妹が変わり始めている。
父も母も、もう以前のままではいられない。
カイルは焦り始めている。
そして外の世界は、ますますこちらへ手を伸ばしてくる。
第一歩を踏み出したのは、自分ではなかったのかもしれない。
けれど今は、自分の意思でもう一歩先へ進める気がする。
その夜、アリアは久しぶりに、自分のためだけのメモではない文章を書いた。
公爵への返答とは別に、北方語の語例について短い補足を書き添える。相手が次に困りそうな箇所を、先回りして整理する。それはこれまで王城向けに何度もやってきたことと同じなのに、紙へ向かう気持ちは少しだけ違っていた。
この文章は、読む人の顔が少しだけ分かる。
そして、その人はきっと、最後までちゃんと読んでくれる。
それだけで、文字はこんなにも書きやすくなるのだと、アリアは静かに思った。




