第11話 公爵の手紙と、婚約者の焦り
隣国使節団が去った日の夕方、伯爵家の屋敷には奇妙な静けさが満ちていた。
使用人たちは皆、いつも以上に物音を立てないよう気を配っている。父ベルナールは執務室へ籠もりきりで、母マルグリットも自室からほとんど出てこない。セレナは落ち着かない様子で廊下を行き来し、そしてカイルだけが、表面上は平静を装いながら、その実ひどく機嫌を損ねているのが分かった。
アリアはというと、古書庫の文机に向かい、先ほど約束した覚え書きを整えていた。
北方語の祝辞に見せかけた交渉文。
「道を死なせぬために必要なもの」という語の運用。
王国語へ移す際に意味が狭まりやすい表現の一覧。
そして、過去の交易記録に見られる実例。
書くべきことは多い。
だが不思議と筆は重くなかった。
今日の応接室で、公爵レオンハルトはアリアの言葉を最後まで聞いた。王城文官フェリクスも、使節代表グレゴールも、途中で遮ることなく彼女の説明を受け止めた。しかも最後には、「役に立つ」とはっきり言われた。
その余韻が、まだ胸の奥に静かに残っている。
自分の言葉が、こんなにも真っすぐ届く相手がいる。
その事実は、思った以上に人の背筋を伸ばすらしい。
「お嬢様」
ローベルトが新しい紙を机に置いた。
「これは控え用でございます」
「ありがとう」
紙の白さに視線を落とし、アリアは一度だけ深呼吸した。
今日の覚え書きは、これまでの王城向けのものとは少し違う。もちろん伯爵家を通す形にはする。父の顔を潰すようなことはしたくない。けれど、この紙は明らかに「誰が読めるか」に向けて書くものだ。
分かる相手に向けて、正しく伝わるように整える。
それがこんなにも嬉しい作業だとは、少し前まで思ってもみなかった。
さらさらとペンを走らせていると、古書庫の扉が二度、少し強めに叩かれた。
マリーでもローベルトでもない。
この叩き方には覚えがあった。
「入って」
扉が開き、案の定、カイルが姿を見せた。
濃い色の上着を羽織り、いつも通り隙のない装いをしている。けれどその顔色は、整っている分だけ逆に、内側の苛立ちを隠しきれていなかった。
「ここにいたのか」
「ええ」
アリアは立ち上がらずに答えた。
それだけのことで、カイルの眉がわずかに寄る。以前なら彼が来ればすぐに席を立ち、どこか恐縮したように振る舞っていたはずだ。だが今のアリアには、その必要性がどうしても感じられなかった。
「話がある」
「何でしょう」
「二人でだ」
その言い方に、ローベルトが控えめに視線を上げた。アリアは少しだけ考え、それから老執事に頷く。
「少しだけ席を外してくれる?」
「かしこまりました」
ローベルトが静かに出ていき、扉が閉まる。
古書庫の中に、アリアとカイルだけが残された。
紙の匂いが、いつもよりも鋭く感じられた。
「……最近、変わったな」
最初にそう言ったのはカイルだった。
「そうかもしれません」
「そうかもしれません、ではない。前はもっと、私の言うことを素直に聞いていた」
その物言いに、アリアは心の中でひどく静かに線を引いた。
やはりこの人は、そこからなのだ。
変わったことへの戸惑いではない。
自分の言葉に以前ほど従わなくなったことへの不快。
それが先に来る。
「以前の私は、あなたの言うことを疑わなかったのです」
「今は疑うと言いたいのか」
「はい」
はっきり言うと、カイルは目を見開いた。
怒るかと思ったが、彼はすぐには怒鳴らなかった。代わりに、少しだけ困惑した顔になる。それが却って滑稽で、アリアは自分でも驚くほど冷静だった。
「君は……」
言葉を探すように、カイルは一歩近づいた。
「君は最近、妙な自信を持ち始めている」
「妙な、ですか」
「そうだ。王城の者が来たから、公爵が礼を言ったから、それで自分の価値が急に変わったと思っているのではないか」
アリアはその言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
違う。
急に変わったのではない。
ずっとあったものに、ようやく周りが気づき始めただけだ。
だがカイルには、そこが決して見えない。
「変わったのは、私ではなく、あなたの見方の方かもしれません」
そう返すと、カイルの口元が引きつった。
「またそうやって言葉遊びをする」
「言葉遊びではありません」
「では何だ」
アリアはゆっくり顔を上げた。
「あなたは今まで、私の価値を決めるのに、自分が好ましいと思う基準しか使ってこなかったのでしょう」
カイルが息を呑む。
「華やかで、愛嬌があって、隣に立たせて見栄えがする女性。それが婚約者に必要だと思っている。だから私は足りないのだと」
「……それの何が間違っている」
低い声だった。
怒りを抑えようとしているのが分かる。
アリアはほんの一瞬だけ悲しくなった。
ここで「違う」と気づいてくれる可能性を、まだどこかで持っていた自分に対して。
「間違いかどうかは分かりません」
静かに答える。
「ただ、その基準では測れないものもあるというだけです」
「それを、今さら皆が騒いでいるからといって――」
「今さら、でしょう?」
アリアの方が先にその言葉を取った。
カイルが止まる。
「ええ、今さらです」
彼女ははっきりと言った。
「あなたが今さら焦っているのは、私が急に変わったからではありません。あなたの知らないところで、私があなたの思っていたよりずっと必要とされていたと気づいたからです」
その一言は、古書庫の空気をはっきりと切り裂いた。
カイルの顔から、わずかに血の気が引く。
図星だったのだろう。
「……焦ってなどいない」
「そうでしょうか」
「私はただ、婚約者としての体面を気にしているだけだ」
「それならなおさら、あなたは私ではなく、ご自分しか見ていません」
カイルが一歩踏み込み、文机の端に手をついた。
「アリア」
低く押さえた声。
「君は少し、思い上がりすぎだ」
アリアはその手を見た。長くて綺麗な指だ。剣もペンもそつなく扱えるように見える、侯爵令息にふさわしい手。けれどその手は、古書庫の紙を一度だって大切に持ったことがないのだろうと、なぜかそんなことを思った。
「そうかもしれません」
彼女は言った。
「でも、今の私が思い上がりなら、あなたが今まで私に向けてきた評価もまた、思い込みだったのではありませんか」
沈黙。
今度こそカイルは言い返せなかった。
アリアはそれ以上言葉を重ねなかった。
もう十分だと思ったからだ。
この人にこれ以上何を言っても、すぐには届かない。
届くとしたら、もっとあとだ。
自分の側からではなく、彼が自分で失うものを数え始めてから。
「お話はそれだけでしょうか」
そう問うと、カイルはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……父上は、君のことを改めて見直したようだ」
やっとその話か、とアリアは思う。
「そうですか」
「婚約についても、もう少し慎重に考えるべきだと」
そこで初めて、アリアの心がわずかに揺れた。
婚約。
慎重に考える。
その言葉は、関係の見直しにも、維持にも、どちらにも転びうる。
けれどカイルは、次に続けた言葉でその意味を明らかにした。
「つまり、今の君の立場を軽く扱うべきではないということだ」
立場。
愛情ではなく、またそこなのだ。
アリアは小さく息を吐いた。
「ありがとう存じます」
「礼を言うところか?」
「少なくとも、価値がないと決めつけられるよりはましです」
その返事に、カイルは苛立たしげに手を離した。
「君は本当に……」
言いかけて、やめる。
彼はもう分かっているのだろう。
以前のように「地味で従順な婚約者」の位置へ押し戻すことはできないと。
「今後、軽率なことは控えろ」
結局、最後に出てきたのはそれだった。
「王城や隣国の前で、君一人が勝手に動けば、様々な思惑が絡む。君は自分がどれだけ見られているか、分かっていない」
それは脅しだったのかもしれない。
あるいは忠告のつもりだったのかもしれない。
だがアリアは、そのどちらにも頷く気にはなれなかった。
「分かっていないのは、私ではないかもしれません」
そう言うと、カイルはとうとう何も返せず、荒い足取りで古書庫を出ていった。
扉が閉まる音が、いつもより重く響く。
その後に残る静けさの中で、アリアはしばらく動かなかった。
怒っているわけではない。泣きたいわけでもない。
ただ一つ、確かに思う。
この人はもう、私を手の内に置いておけると思っていない。
その変化だけは、はっきり伝わってきた。
数拍おいて、ローベルトが戻ってくる。
「大丈夫でございますか」
「ええ」
「長引いたようでしたが」
「少し、今さらな話をされただけよ」
そう言うと、老執事は事情を深く聞かず、ただ頷いた。
「お嬢様」
「なに?」
「先ほど、使節団から追加の使いが参りました」
アリアは目を上げた。
「何かしら」
「公爵閣下からでございます」
胸が一つ、大きく鳴る。
ローベルトが差し出したのは、小さな封書だった。伯爵家宛ではなく、きちんと「アリア嬢へ」とある。もちろん父の許しを得て渡しているのだろうが、それでも自分の名が表に書かれていること自体が、アリアには新鮮だった。
「今、読んでも?」
「もちろんでございます」
封を切る指先が、ほんの少しだけ熱を持つ。
中の紙を開くと、短い文章が整った字で記されていた。
――本日は貴重なお話をありがとうございました。
――北方越境路の補助協定について、あなたの解釈は大変明晰でした。
――差し支えなければ、今後も古文書・旧協定の確認についてご助力を願いたい。正式な形は追って整えます。
――また、本日あなたが口にした「続けたい」という言葉を、私は大切に受け取りました。
最後の一文で、アリアの指が止まった。
――「続けたい」という言葉を、私は大切に受け取りました。
そこだけ、他のどの文よりも深く胸へ落ちる。
役に立つ。明晰だ。助力を願いたい。
どれも嬉しい。
けれど、この一文はそれらとは少し違っていた。
彼は単に使える人材として見ているだけではない。
今日応接室で、アリアが初めて口にした「自分は続けたいのだ」という意思を、ちゃんと聞いていたのだ。
そしてそれを、重要なものとして扱っている。
「……そんなことまで」
小さく零すと、ローベルトが少しだけ首を傾げる。
「何か」
「いえ」
アリアは手紙を胸の前でそっと折りたたんだ。
嬉しい、では足りない。
温かい、でも少し違う。
長いあいだ、自分でも見ないふりをしてきたものへ、外から静かに灯りがともるような感覚だった。
「お嬢様、お顔が」
「え?」
「少しだけ、笑っておられます」
そう言われて、初めて気づく。
本当に、少しだけ口元が緩んでいた。
カイルと話したあとの冷えた気持ちは、まだどこかに残っている。
けれどそれ以上に、この手紙が今のアリアを支えていた。
自分の言葉を、大切に受け取る人がいる。
その事実だけで、先ほどの会話の棘が少し遠のく。
「……そうね」
アリアは小さく笑った。
「たぶん、嬉しいの」
ローベルトは何も言わず、ただ穏やかに目を細めた。
古書庫の外では、夕方の風が窓を鳴らしている。
伯爵家の中では今、父も母もカイルも、それぞれに思惑を巡らせているのだろう。
だがアリアはもう、それらだけの中に閉じてはいなかった。
文机へ戻り、彼女は新しい紙を広げる。
公爵への返答を書こうと思った。
礼を言うためだけではない。
自分もまた、きちんと伝えたかったのだ。
今日のやり取りが、自分にとってどれほど大きかったのかを。
そして、次に紙の上でつながる時には、もう「役立たず令嬢」としてではなく、少しでも「読める者」として向き合いたいと、そう思った。




