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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第118話 初回往復、出発

 朝は、思っていたより静かだった。


 もっと慌ただしいものになると思っていた。

 馬のいななき、荷を結ぶ声、人足たちの足音、誰かの怒鳴り声。そういうものが館の前庭を満たすのだと、アリアはどこかで想像していた。


 けれど、実際の出発前の空気は、妙に静かだった。


 緊張している者ほど、声を低くする。

 不安な者ほど、手元だけを確かめる。

 そして本当に大事なことが始まる前、人は思ったより余計なことを言わなくなる。


 隣国館の門前には、まだ朝の冷えが残っていた。


 空は薄く白み、雲は低い。雨にはならないだろうが、晴れとも言い切れない。道を知る者たちにとっては、むしろこのくらいの方が油断しないで済むのかもしれない。


 リゼット・マルタンは、すでに荷のそばに立っていた。


 昨夜より顔色はよかった。

 眠れたのか、それとも眠れなかったことを商人らしい笑顔で隠しているのかは分からない。けれど、背筋は伸びている。肩から掛けた革鞄の留め具を、彼女は何度も確かめていた。


 荷は少ない。


 乾燥薬草の包み。

 小型の針金束。

 それから、北側の市場へ届ける予定の小さな布袋が二つ。


 太荷ではない。

 だが、何もないわけではない。


 初回往復は、道を確かめるだけではない。

 ちゃんと“荷が動いた”という事実を作るためのものだ。


 フェリクスは、その少し横で記録板を抱えていた。


 王城文官らしい外套を着ているが、足元は昨日のうちに道守りから渡された泥道用の靴に替えている。

 正直、似合っているとは言い難かった。

 だが本人は真剣そのもので、靴紐の結び目まで妙に几帳面に整えている。


「フェリクス様」


 アリアが声をかけると、彼はすぐ顔を上げた。


「はい」


「記録板、濡れないようにしてくださいね」


「防水布で包みました」


「ご自身は?」


「私ですか」


「はい」


 フェリクスは少しだけ考えた。


「……濡れた場合は、記録に残します」


 リゼットが横から吹き出した。


「ご自分が濡れたことまで記録するんですか」


「必要なら」


「必要ですかね」


「現場環境の過酷さを示す資料にはなります」


「真面目すぎますって」


 そのやり取りに、人足の一人が小さく笑った。

 ほんの少し、場の空気がほどける。


 アリアはそれを見て、胸の奥が軽くなるのを感じた。


 出発前に笑い声が一つあるだけで、人の顔つきは変わる。

 これもきっと、帳簿には残りにくいことだ。


 グレゴールが確認表を手に歩いてきた。


「最終確認をします」


 声はいつも通り低い。

 だが、その目はいつもよりわずかに鋭かった。


「出発は第二区鐘。往路は南側の細道を使い、橋前で一度停止。風が落ちるまでは無理に通さない。橋の鳴り、板の沈み、人足の反応を記録。帰路は同じ道を戻る。片道の成功をもって往復成立とはしない」


 アリアは頷いた。


 片道の成功をもって往復成立とはしない。

 これは、彼女がどうしても残したかった一文だ。


 通れたことと、戻れたことは違う。

 戻れなければ、道はつながっていない。


 リゼットも真面目な顔で頷いた。


「分かっています。行って、戻ります」


 短い言葉だった。

 けれど、今この場では何より強い。


 フェリクスが記録板へ小さく書き込む。


「出発前発言、リゼット・マルタン。『行って、戻ります』」


「それ、書くんですか」


「はい」


「恥ずかしいですね」


「重要です」


「本当に何でも書きますね」


「何でもではありません。必要なことだけです」


 リゼットは少し呆れたように笑い、それからアリアを見た。


「アリア様」


「はい」


「戻ってきたら、ちゃんと聞いてください」


 昨夜と同じ言葉だった。


 だが、朝の光の下で聞くと、少し違って響いた。

 不安だけではない。

 約束の確認だった。


 アリアはまっすぐ彼女を見る。


「一言も落としません」


 リゼットは頷いた。


「じゃあ、戻ってこないわけにはいきませんね」


「はい」


「それ、なかなか厳しい送り出し方です」


「商人の方には、これくらいがよいかと思って」


「だいぶ分かってきましたね」


 リゼットは笑った。


 その笑顔は、昨夜より少しだけ力があった。


 レオンハルトは、門の脇に立っていた。

 必要以上には近づかない。けれど、出発の一部始終を見ている。


 アリアがそちらへ視線を向けると、彼は静かに頷いた。


 行かせる。

 止めない。

 ただ見送る。


 それも、仕事なのだ。


 やがて、第二区鐘が鳴った。


 一つ目の鐘の音が、朝の空気にゆっくり広がる。

 二つ目が鳴る頃には、人足たちが荷を持ち上げた。

 革紐が小さく鳴り、靴裏が湿った土を踏む。


 リゼットが先頭へ出る。

 その横に道守りの男。

 フェリクスは少し後ろ、荷の動きと人足の足元が見える位置に立った。


「行ってきます」


 リゼットが言った。


 大きな声ではない。

 けれど、門の前にいた全員に届いた。


「行ってらっしゃい」


 アリアはそう答えた。


 言ってから、少し不思議な気持ちになった。


 それは、家族を送り出す言葉にも似ている。

 友人を送る言葉にも似ている。

 だが今は、そのどちらでもない。


 自分の書いた制度が、初めて道へ出るのを送る言葉だった。


 一行が門を出る。


 荷は小さい。

 人数も多くない。

 遠目には、ただの短い商隊のようにしか見えない。


 けれど、アリアにはそれがまったく別のものに見えた。


 最初の一往復。

 初回往復。

 最小循環が、本当に道の上へ出ていく。


 門の外の道を、一行はゆっくり進んだ。

 リゼットが一度だけ振り返る。


 アリアは、手を振らなかった。

 代わりに、胸の前で記録帳を抱えた。


 リゼットはそれを見て、小さく笑ったように見えた。


 やがて一行は、曲がり角の向こうへ消えた。


 残された前庭は、急に広くなった。


 誰かが深く息を吐く音がした。

 誰だったのかは分からない。

 もしかすると、自分だったかもしれない。


 グレゴールが静かに言った。


「戻りましょう」


 その一言で、アリアはようやく足を動かした。


 閲覧室に戻ると、机の上の紙が少し違って見えた。


 昨日までと同じ紙だ。

 初回往復観察項目。

 信頼回復案。

 再集合確認期。

 第二往復候補の空欄。


 けれど、そこに書かれた言葉は、もう机の中だけのものではない。


 今、外で確かめられている。


 アリアは椅子へ座った。

 そして、いつものようにペンを取ろうとして、少しだけ手が止まった。


 文字が遠い。


 読めないわけではない。

 ただ、いつものようにすぐ頭へ入ってこない。


 今ごろリゼットはどのあたりを歩いているだろう。

 橋前まではまだか。

 泥は深いのか。

 フェリクスはちゃんと足元を見ているだろうか。

 人足は無理をしていないか。


 そんなことばかり浮かぶ。


「気になりますか」


 レオンハルトの声がした。


 アリアは顔を上げる。


「はい」


 隠しても仕方がなかった。


「とても」


「当然です」


 彼は窓辺に立ち、外の曇った空を見ていた。


「紙が道へ出たのですから」


 その言い方に、アリアは少しだけ目を伏せた。


「怖いですね」


「ええ」


「昨日、リゼット様に“怖いままでもいい”というようなことを言いました」


「はい」


「自分で言ったのに、今朝になって少し分かりました。怖いまま待つのも、なかなか難しいですね」


 レオンハルトは静かに笑った。


「そうですね。待つ方も、別の意味で道の上にいます」


「道の上?」


「ええ。足は館に残っていても、判断は道とつながっている」


 その言葉を聞いて、アリアは自分の机の上の紙へ目を戻した。


 そうかもしれない。


 自分は同行しないと決めた。

 道より自分の話になってしまうかもしれないから。

 机に残り、戻ってくる言葉を受け取ることを選んだ。


 けれど、それは安全な場所に逃げたという意味ではない。


 待つ責任がある。

 戻ってきたものを受け取る責任がある。

 失敗しても、成功しても、条件付きでも、その言葉を落とさず紙へ戻す責任がある。


 アリアはゆっくり息を吸い、観察項目の紙をもう一度引き寄せた。


 今できることは、待つ準備だ。


 戻ってきた時の聞き取り欄を整える。

 荷損の記録表を空けておく。

 フェリクスの記録とリゼットの感覚を並べる欄を用意する。

 そして、帰着直後の第一声を書ける場所を、いちばん上に作る。


 アリアは新しい紙に見出しを書いた。


 初回往復帰着直後記録


 その下へ、欄を並べる。


 第一声

 商人本人の感覚

 王城確認役の記録

 道守りの判断

 荷損・遅延・人足状態

 第二往復へつながる証拠

 迷っている荷主へ示せる材料


 書きながら、少しずつ呼吸が落ち着いていく。


 待つというのは、何もしないことではない。


 待つ間に、受け取る器を作る。

 それも仕事なのだ。


 一方その頃、リゼットたちは南側の細道に入っていた。


 道は、思ったより悪かった。


 泥は深すぎない。

 だが、乾いてもいない。

 靴底に絡みつき、一歩ごとに重くなる。細荷でなければ、早々に荷を下ろしていたかもしれない。


「この程度なら、まだ行けます」


 リゼットが言うと、道守りの男が横から首を振った。


「今はな。橋前で変わる」


「脅しますね」


「脅しじゃねえ。道がそういう顔してる」


 フェリクスは、そのやり取りを必死に書き取った。


 道がそういう顔している。


 彼は一瞬、どう制度語に直すべきか迷った。

 だが、すぐにそのまま書いた。


 今は直さない。

 アリアが何度も言っていた。


 まず残す。

 整えるのは、そのあとだ。


 橋へ近づくにつれ、風が少し強くなった。

 木々の間を抜ける音が変わる。湿った葉が擦れ、橋下の水音が低く響いた。


 道守りの一人が足を止めた。


「ここで待つ」


 リゼットも止まった。


「まだ橋の前ですよ」


「だから待つ」


 フェリクスは顔を上げた。


「理由を記録します」


 道守りは、少し面倒そうに彼を見た。


「風が横だ。今、荷を持って橋へ出ると足を取られる」


「風向きによる橋上危険、と」


「そういうことだな」


 フェリクスは書きながら、ふと旧案のことを思い出した。


 旧案では、橋は通行可否で分類されていた。

 通れるか、通れないか。


 だが今、目の前の橋は、そのどちらでもない。


 風が落ちれば通れる。

 細荷なら通れる。

 人足の足並みが揃えば通れる。

 今すぐ太荷は無理。


 可否ではない。


 条件なのだ。


 フェリクスは、泥のついた靴先を見下ろした。


 王城の机では、この感覚は出なかっただろう。


 彼は記録板に書き足した。


 橋は不可ではない。条件待ち。


 その文字は少し震えていた。


 館では、アリアが窓の外を一度だけ見た。


 まだ戻る時刻ではない。

 分かっている。

 それでも、見てしまう。


 グレゴールが中央机で淡々と文書を整理している。

 レオンハルトは王城への次便に備えた草案を読んでいる。

 マリーは茶を淹れ替え、何も言わずアリアの机に置いた。


「ありがとうございます」


 アリアが言うと、マリーは小さく頷いた。


「お帰りになった時、すぐ温かいものを出せるようにしておきます」


 その言葉に、アリアは胸が少し詰まった。


 ここにも、最小循環があるのかもしれない。

 火を残す。

 茶を用意する。

 戻る先を消さない。


 渡し場に火が残れば、人は戻る。


 あの言葉は、道だけの話ではなかった。


 昼を過ぎる頃、空の色が少し変わった。

 雲の切れ間から、細い光が差す。


 グレゴールが窓を見た。


「風が落ちる頃ですな」


 アリアは黙って頷いた。


 今ごろ橋だろうか。

 それとも、まだ待っているだろうか。


 机の上の帰着直後記録は、空白のままだ。


 空白は、こんなに重いものだったのかとアリアは思った。


 午後が進む。


 予定では、夕刻前には戻るはずだった。

 もちろん、遅れる可能性は最初から織り込んでいる。

 風待ち。

 泥。

 荷の確認。

 橋での停止。


 それでも、予定時刻が近づくにつれ、閲覧室の会話は少しずつ減っていった。


 アリアはペンを持ったまま、何度も同じ欄を見る。


 第一声。


 まだ、何も書けない。


 夕刻の光が窓枠を低く照らし始めた頃、予定時刻を少し過ぎた。


 一行は、まだ戻らない。


 グレゴールが懐中時計を確認した。


「まだ待つ時間です」


 誰に向けた言葉でもないようで、たぶん全員に向けた言葉だった。


 アリアは頷いた。


 まだ待つ時間。

 それも、制度運用の一部。


 彼女は深く息を吸い、空白の記録欄へ手を置いた。


 戻ってくる。

 そう信じることと、戻らなかった場合の準備をすることは、矛盾しない。


 それを、今日初めて身体で知った。


 外では、夕方の風がまた少し強くなっていた。


 門の方からは、まだ何の音も聞こえない。

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