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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第119話 戻らない夕刻、机の上の理屈が初めて揺れる

 初回往復隊が門を出ていったあと、隣国館は妙に静かになった。


 馬の蹄が石畳を叩く音。

 リゼットの外套の裾が風に揺れる音。

 フェリクスが確認用の記録箱を抱え直した時の、小さな金具の音。


 それらが遠ざかり、やがて聞こえなくなった瞬間、アリアは自分の足元が少しだけ心もとなくなるのを感じた。


 同行しないと決めたのは、自分だ。


 自分が行けば、道そのものより「照合担当令嬢が初回往復に同行した」という話が先に立つかもしれない。

 王城も、商人組合も、侯爵家も伯爵家も、きっと必要以上に反応する。

 それでは、初回往復の主役がリゼットでなくなってしまう。


 だから残った。


 正しい判断だと思う。

 今でもそう思う。


 けれど、正しい判断と、落ち着いていられることは別だった。


「戻りましょう」


 レオンハルトの声が、すぐそばで聞こえた。


 アリアははっとして顔を上げる。


「はい」


 答えた声は、思ったより平静だった。

 だが、歩き出した途端、手袋の内側で指先が冷えていることに気づいた。


 閲覧室へ戻ると、机の上にはいつもと同じように紙が並んでいた。


 初回往復設計。

 初回往復者保護条項。

 成功語伝達二段表の草案。

 第二往復誘発条件表の空欄。

 再集合確認期。

 市場再集合兆候表の下書き。


 どれも、昨日までなら頼もしい紙だった。


 しかし今は違った。


 紙の中にあった言葉が、外へ出ていった。

 細荷、昼前後、人足同行、王城確認役、戻れなかった場合の保護条項。

 それらはもう、机の上の概念ではない。


 リゼットの荷馬に載り、フェリクスの記録箱に入り、道守りの足元と一緒に泥の上へ出ていった。


 アリアは自分の机に座った。


 木札が目に入る。


 現地照合担当 アリア・ウェルグラン


 その札は、今朝までは頼もしく見えた。

 今は、少し重い。


「まずは、王城へ出発報告を」


 グレゴールが言った。


 アリアは頷き、用意していた短い報告文へ目を落とす。


 ――初回往復隊、本日第三刻半に出発。

 ――同行者、商人リゼット・マルタン、王城確認役フェリクス・ドーレン、道守り二名、人足三名。

 ――荷は軽布および薬草束、通常量の三分の一。

 ――帰着見込み、夕刻前。


 夕刻前。


 その言葉を読んだ時、胸の奥がわずかに縮んだ。


 夕刻前に戻る。

 予定では、そうなっている。


 予定では。


「このまま送ります」


 アリアが言うと、グレゴールは文面を確認して頷いた。


「よろしいでしょう。余計な判断はまだ要りません」


 まだ、という言葉が耳に残った。


 まだ要らない。

 つまり、いずれ必要になるかもしれない。


 出発報告が送られたあと、アリアは試験運用案の再改稿へ戻ろうとした。


 戻ろうとした、だけだった。


 目で文字を追う。

 けれど頭に入ってこない。


 ――初回往復成功後、再集合確認期へ移行。

 ――第二往復候補者の自発的出現を確認。

 ――市場側に“待機”ではなく“準備”の兆候があること。


 何度も読んだはずの文章なのに、今はどこか遠い。


 成功後。

 戻ってきた後。

 帰還証言。

 第二往復。


 すべて、戻ってくることが前提の言葉だ。


 アリアはペンを置いた。


「読めませんか」


 レオンハルトが静かに問う。


 隠しても仕方がないと思った。


「はい」


 短く答える。


「文字は見えています。でも、読めていません」


「そういう日もあります」


「いえ、今日は……」


 アリアは机の上の表を見た。


「今日は、紙が外へ出てしまったので」


 レオンハルトは何も言わなかった。


 その沈黙が、ありがたかった。


 午後は、ひどく長かった。


 途中でハインツが一度、商人組合から届いた短い伝言を持ってきた。

 市場では、リゼットが出たという話がすでに広がっているらしい。


「皆、落ち着かない顔をしています」


 ハインツはそう言った。


「期待しているのですか」


 アリアが尋ねると、彼は少し考えた。


「期待もあります。でも、半分は様子見です」


「様子見」


「ええ。戻ってくるまでは、誰も本気で荷をほどきません。店の奥から少し出して、また引っ込められるようにしている感じです」


 その言い方が、いかにも商人らしかった。


 動きたい。

 でも動ききれない。

 その気配だけが、市場の隅々に満ちている。


「戻ったら?」


「戻ったら、皆がリゼットの顔を見ます」


 ハインツは窓の外へ目をやった。


「言葉も聞きます。でもまず顔です。あいつの顔を見れば、無理をしたのか、行けるのか、大体分かる」


 顔。


 アリアはその言葉を記録帳へ書いた。


 ――市場は、帰還証言の前に帰還者の顔を見る。


 制度文には入れにくい。

 でも、消してはいけない気がした。


 予定より一刻前、館の空気はまだ落ち着いていた。


 書記官は記録を整理し、グレゴールは王城への次報の候補文を用意し、レオンハルトは窓辺で黙って外を見ていた。


 アリアも、自分の机に向かっていた。


 けれど全員が、何となく音に敏感になっていた。


 廊下を歩く足音。

 門の方から聞こえる声。

 風で揺れる窓。


 そのたびに、誰かがわずかに顔を上げる。


 そして、何もなかったと分かると、また紙へ戻る。


 夕刻前。


 戻らない。


 だが、まだ想定内だ。


 道守りは、昼前後の道況を見てから通すと言っていた。

 ぬかるみや水筋によっては、少し待つこともある。

 初回往復なのだから、急がせる方が危ない。


 アリアは、自分にそう言い聞かせた。


 夕刻。


 まだ戻らない。


 館の空気が、はっきり変わった。


 誰も騒がない。

 誰も大きな声を出さない。

 けれど、沈黙の質が違う。


 アリアは、王城への速報候補文を見つめていた。


 ――初回往復隊、帰着予定時刻を過ぎる。

 ――現時点で異常報告なし。

 ――道況による遅延の可能性あり。

 ――続報を待つ。


 送るべきだろうか。


 いや、まだ早いかもしれない。

 王城へ送れば、向こうはすぐに反応する。

 初回往復に異常の兆候、と受け取る者もいるだろう。

 不要な混乱を起こすかもしれない。


 だが、送らずに何かが起きていたら。


 その迷いが、胃のあたりを冷たくした。


「グレゴール様」


「はい」


「王城へ、遅延速報を出すべきでしょうか」


 グレゴールはすぐには答えなかった。


 彼は窓の外を見て、それから机上の予定表へ目を落とした。


「まだ、待つ時間です」


 低い声だった。


「待つ時間」


「ええ。予定を過ぎたからといって、すぐに異常扱いすれば、現地運用はかえって硬直します」


「でも」


「もちろん、一定時刻を越えれば送ります」


 グレゴールは、すでに用意された別紙を示した。


「その文も準備してあります。ですが今は、まだ“遅れている”ではなく“道が返事をしている”時間です」


 道が返事をしている。


 その言い方に、アリアは目を上げた。


「昔、道守りがそう言っていました」


 グレゴールは少しだけ苦い顔で笑った。


「橋や泥や風の都合で、人の予定通りに戻れない時がある。そういう時、焦って書いた文は、たいてい後で邪魔になります」


 焦って書いた文。


 アリアは自分の手元の速報候補文を見た。


 文は速い。

 だが、速い文がいつも正しいわけではない。


 待つことも、制度運用の一部。


 その事実が、今になってようやく身体に入ってくる。


 机の上では簡単だった。

 帰着予定、遅延時対応、一定時刻超過時速報。

 表にすれば、どれも整う。


 けれど実際に待つ時間は、こんなに長い。


「紙の上の正しさは」


 レオンハルトが静かに言った。


「戻ってくるまで確定しません」


 アリアは顔を上げた。


「……はい」


「だから、怖い」


「はい」


「でも、今あなたがするべきことは、怖がらないことではありません」


 彼は窓の外を見たまま続けた。


「戻ってきた時に、すぐ受け取れるようにしておくことです」


 その言葉で、アリアは自分が何をすべきかを思い出した。


 待つ。

 ただ待つのではない。


 戻った時に記録できるように、受け取れるように、王城へ送れるように、次の判断へ移れるように、準備する。


 アリアはペンを取った。


 新しい紙を引き寄せる。


 帰還時確認項目


 そこへ一つずつ書く。


 ――帰還時刻。

 ――同行者全員の有無。

 ――荷の状態。

 ――リゼットの第一証言。

 ――フェリクスの観察記録。

 ――道守りの道況判断。

 ――人足の疲労度。

 ――次回通行可能時間帯。

 ――第二往復候補の有無。


 書いているうちに、呼吸が少しだけ整っていく。


 今できることはある。

 待ちながら、できることが。


 夕刻が深くなる。


 窓の外の光が、ゆっくり灰色へ変わっていく。

 灯りが入れられ、紙の白さだけが部屋の中で浮かび上がる。


 マリーが茶を置いた。

 だが、誰もほとんど手をつけない。


 ハインツは窓際に立ち、腕を組んで外を見ている。

 いつもの軽口はない。

 彼もまた、リゼットの顔を思い浮かべているのだろう。


 一定時刻まで、あと少し。


 アリアは王城への遅延速報文をもう一度見た。


 その時だった。


 遠くで、馬の音がした。


 最初は風かと思った。


 けれど、すぐに違うと分かる。


 石畳ではない。

 外の道の、少し湿った土を蹴る音。

 ひとつではない。

 複数。


 ハインツが窓から身を乗り出しかけた。


「来た」


 短く言う。


 閲覧室の全員が立ち上がった。


 アリアも椅子を引いた。

 膝に少し力が入らない。


 戻った。

 いや、まだ分からない。


 全員か。

 荷は。

 リゼットは。

 フェリクスは。

 道守りは。


 門の方で声が上がる。

 使用人が走る足音。

 馬が鼻を鳴らす音。


 アリアは記録紙を掴んだ。


 戻ってきた時に、すぐ受け取れるように。

 そう言われたばかりだ。


 けれど、扉へ向かう一歩目だけは、どうしても震えた。


 夜に入りかけた館の外で、馬の音が止まる。


 そして誰かが、少し掠れた声で叫んだ。


「戻りました!」


 その声だけが、まず閲覧室へ届いた。


 誰が。

 何人が。

 どんな姿で。


 それはまだ分からない。


 アリアは記録紙を胸に抱えたまま、扉へ向かった。

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