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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第117話 出発前夜、リゼットは“怖い”と言った

 初回往復の出発は、翌朝の第二区鐘に決まった。


 王城からの仮承認は、夕刻前に届いた。

 初回往復者は、北境商人組合所属のリゼット・マルタン。

 王城確認役として、フェリクス・ドーレン。

 道守り側からは、渡し場と橋筋に詳しい男が二名。

 人足は最低限。

 荷は細荷のみ。

 太荷は出さない。


 条件は細かかった。


 出発時刻。

 通過予定地点。

 橋前での待機時間。

 風が落ちるまでの猶予。

 戻り時の記録。

 荷損が出た場合の扱い。

 そして、帰着後の聞き取り手順。


 そのすべてが、アリアの机の上で何度も確認された。


 けれど、紙の上でどれだけ整えても、ひとつだけ変わらないことがある。


 明日、本当に人が道へ出る。


 それは、これまでとはまるで違っていた。


 制度を読む。

 案を直す。

 語を残す。

 再集合確認期を入れる。


 それらは全部、机の上の仕事だった。

 重い仕事ではある。

 けれど、紙の上ならば、書き直せる。

 線を引き、余白に注を書き、次の便で返せる。


 明日は違う。


 泥のある道へ、人が出る。

 荷が動く。

 橋を渡る。

 戻れなければ、紙の上の言葉では済まない。


 夕食後、閲覧室の灯りがまだ残る中、アリアは自分の机で出発前確認表を読み直していた。


 初回往復観察項目


 ――出発時、商人本人の表情・発言。

 ――橋前での人足の反応。

 ――細荷が止まった地点。

 ――風待ちの有無。

 ――戻り時、荷損の程度。

 ――帰着直後の第一声。

 ――同行確認役の記録と、商人本人の感覚の差異。


 そこまで読んで、アリアはペンを置いた。


 帰着直後の第一声。


 自分で書いた項目なのに、そこだけ妙に胸へ残った。


 戻ってきた時、リゼットは何と言うだろう。


 行ける。

 危ない。

 無理だ。

 昼なら行ける。

 人が足りない。

 橋より前に、待つ場所が悪い。


 どんな言葉が返ってくるか、今はまだ分からない。


「アリア様」


 扉の近くから声がした。


 マリーだった。

 少し困ったような顔をしている。


「リゼット様がお見えです」


「今?」


「はい。お約束はないのですが……明日のことで、少しだけお話ししたいと」


 アリアはすぐ立ち上がった。


「通してください」


 ほどなくして、リゼットが入ってきた。


 彼女は昼間と同じように、動きやすい商人服を着ていた。上着は簡素で、袖口は邪魔にならないよう詰めてある。髪もきっちりまとめ、いかにも明日の出発に備えているように見えた。


 だが、顔色は少しだけ違った。


 明るく笑ってはいる。

 けれど、目の奥に眠れない夜の気配があった。


「夜分にすみません」


 リゼットは軽く頭を下げた。


「明日が早いのに」


「こちらこそ、明日の準備で落ち着かないでしょう」


「ええ、まあ」


 彼女は肩をすくめて笑った。


「落ち着かないですね。商売で損を出す前の日とも、仕入れで賭けに出る前の日とも、少し違います」


「座りますか」


「ありがとうございます」


 リゼットは椅子へ腰を下ろした。

 けれど、背中は少し浮いている。いつでも立てる姿勢だ。


 アリアは向かいに座り、マリーが置いていった温かい茶を彼女の前へ寄せた。


「眠れませんか」


「たぶん」


 リゼットは湯気を見つめながら、小さく笑う。


「寝ないと駄目なのは分かっているんですけど、横になると明日の道ばかり浮かんでしまって」


「無理もありません」


「無理もありません、って言われると少し楽ですね」


 リゼットは茶器を両手で包むように持った。


 その手が、ほんの少し震えている。


 アリアは気づいたが、すぐには触れなかった。


 代わりに、静かに尋ねる。


「明日のことを、やめたいと思っていますか」


 リゼットはすぐ首を振った。


「いいえ」


 そこだけは早かった。


「やめたいとは思っていません。これは本当です」


「はい」


「でも、怖くないわけじゃありません」


 その言葉は、飾りがなかった。


 リゼットは茶器を見つめたまま続ける。


「道が怖いんじゃありません。泥も、橋も、荷損も怖いですけど、それだけならまだいいんです。商人ですから、損は怖い。でも損と怖さは、いつも隣にあります」


「では、何が怖いのですか」


 リゼットは少しだけ唇を結んだ。


 それから、顔を上げた。


「戻ってきても、誰も次に続かなかったらと思うと怖いんです」


 閲覧室の空気が静かになった。


 遠くで、書記官が紙を束ねる音がした。

 廊下の外では夜番の足音が一度だけ通り過ぎる。


 リゼットは笑おうとしたが、うまく笑えなかった。


「私が行って、泥まみれで戻ってきて、“行けます”って言うでしょう。でも市場の人たちが、“そうか、でもうちはまだいい”って顔をしたら。荷主が“様子を見る”って言ったら。人足が明日の朝、来なかったら」


 彼女の指先が、茶器の縁を強く押さえた。


「そうしたら、私は何のために行ったんだろうって」


 アリアは、すぐには答えられなかった。


 その怖さは、紙の上には書ききれていなかった。


 初回往復の成功条件。

 損失緩和。

 公的可視化。

 第二往復。

 再集合確認期。


 どれも必要だ。

 けれどリゼットが今抱えているのは、そのもっと手前にある恐怖だった。


 自分の一歩が、誰にも続かないかもしれない。


 それは、アリアにも少し分かった。


 王城へ初めて返書を書いた時。

 自分の見たものを返しても、誰にも受け取られないかもしれないと思った。

 父へも、侯爵家へも、自分の価値など届かないかもしれないと思っていた。


 それでも書いた。


 届いたから今がある。

 だが、届く前は怖かった。


「私も」


 アリアは静かに口を開いた。


「最初に王城へ返書を書いた時、怖かったです」


 リゼットが少し驚いたように見る。


「アリア様が?」


「はい。とても」


「今は、そんなふうには見えません」


「今でも怖い時はあります」


 アリアは少し笑った。


「ただ、怖いまま書くことに慣れてきただけです」


 リゼットはその言葉を聞いて、ふっと力の抜けた顔になった。


「怖いまま」


「はい」


「いいですね、それ」


「いい言葉でしょうか」


「ええ。怖くなくなるのを待っていたら、商売なんて何もできませんから」


 リゼットはやっと、少しだけ自然に笑った。


 その笑みに、アリアも胸の奥が少し緩む。


「リゼット様」


「はい」


「明日、戻ってきた時の言葉を、私は必ず残します」


 リゼットの目が、ゆっくり真剣になる。


「一言も落としません。行けたなら、どう行けたのか。危なかったなら、どこが危なかったのか。誰が動き、誰が迷い、どこで風を待ったのか。全部、紙に残します」


 アリアは、自分の机の上の観察項目を指した。


「あなたが戻ってきて、すぐに誰も続かなかったとしても、その言葉は消えません。次に誰かが迷った時、その言葉を見せられます。王城にも、市場にも、道守りにも」


 リゼットは黙って聞いていた。


「最初の一歩がすぐ二歩目につながるかは、私にも分かりません。でも、戻ってきた言葉を失わせないことはできます」


 そこでアリアは少しだけ息を吸った。


「だから、戻ってきたら、ちゃんと聞かせてください」


 リゼットはしばらく何も言わなかった。


 やがて、茶器を置いた。


「……それなら、少し安心です」


「少しだけですか」


「はい。少しだけ」


 リゼットは笑った。


「全部安心したら、たぶん油断します」


「それは困りますね」


「でしょう?」


 二人は、短く笑い合った。


 その笑いは大きくはなかった。

 けれど、出発前夜の閲覧室にはちょうどよかった。


 リゼットはそれから、少しずつ明日のことを話した。


 持っていく荷は、薬草を乾燥させた軽い包みと、北側で必要とされる小型の針金束。

 どちらも太荷ではないが、戻れば意味がある。

 荷主は二人。

 一人は古くからの付き合いで、もう一人は今回の道筋をかなり疑っている。


「疑っている方の荷も持つのですか」


 アリアが聞くと、リゼットは頷いた。


「はい。疑っている人の荷が戻る方が、話が早いので」


「商人らしいですね」


「褒め言葉として受け取ります」


「もちろんです」


 リゼットは少し得意そうに笑った。


「信用って、味方だけに見せても増えないんです。迷っている人に見せないと」


 アリアは、すぐ記録帳へ手を伸ばした。


「書いても?」


「今のですか?」


「はい」


「どうぞ。格好よく直しておいてください」


「直しません。そのままがいいです」


 アリアは記録帳に書く。


 ――信用は、味方だけに見せても増えない。迷っている人に見せないと。


 リゼットは照れたように頬をかいた。


「そのままだと、少し恥ずかしいですね」


「大事な言葉です」


「そう言われると、もっと恥ずかしいです」


 その時、扉が軽く叩かれた。


 入ってきたのはフェリクスだった。

 手には、明日の同行記録用の板と紙を持っている。


「あ、失礼しました」


 彼はリゼットを見て、すぐに足を止めた。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 リゼットが首を振る。


「明日の記録係さんですね」


「王城確認役です」


 フェリクスは真面目に訂正した。


「似たようなものでは?」


「……かなり似ています」


 アリアは思わず笑いそうになった。


 フェリクスも、少しだけ困った顔をした。


「明日の確認項目について、アリア様に最終確認をいただこうと思いまして」


「今見ます」


 アリアは紙を受け取った。


 項目は丁寧だった。

 出発時刻。

 天候。

 橋前待機。

 風の変化。

 荷の状態。

 人足の会話。

 商人本人の発言。


 ただ、ひとつ足りない気がした。


「ここに、“迷った人に何を見せられるか”を入れてください」


 フェリクスが瞬きをする。


「迷った人?」


「はい。リゼット様が今、言いました。信用は味方だけに見せても増えない、迷っている人に見せないと」


 フェリクスは、一瞬だけリゼットを見る。


 リゼットは肩をすくめた。


「言いました」


「……なるほど」


 フェリクスはすぐに紙へ書き足した。


 帰還後、迷っている荷主・人足へ示せる証拠の有無


 アリアはそれを見て頷く。


「それでお願いします」


「分かりました」


 フェリクスは真面目な顔で記録板を抱え直した。


「明日、見落とさないようにします」


「お願いします」


 リゼットが彼を見て言った。


「ドーレン様」


「はい」


「明日、もし私が道の途中で文句を言ったら、書きますか」


「必要なら」


「“寒い”とか“泥が嫌だ”とかでも?」


「状況を示す発言なら」


「真面目ですねえ」


「よく言われます」


 リゼットはくすっと笑った。


 フェリクスは困ったような顔をしたが、不快ではなさそうだった。


 そのやり取りを見て、アリアは少し安心した。


 明日の道に必要なのは、完璧な英雄ではない。

 怖いと言える商人と、真面目に記録する文官と、道を知る人足たちだ。


 それでいい。

 それがいいのだ。


 夜が更ける前、リゼットは立ち上がった。


「そろそろ戻ります。寝ないと、明日フェリクス様に“出発時より眠気あり”と書かれそうなので」


「必要なら書きます」


「ほら」


 リゼットが笑う。


 アリアも笑った。


 けれど、扉の前でリゼットは一度だけ振り返った。


「アリア様」


「はい」


「戻ってきたら、本当に聞いてくださいね」


 その声は、笑っていなかった。


 アリアはまっすぐ頷いた。


「一言も落としません」


 リゼットは深く息を吸って、それから短く頷いた。


「では、行ってきます。……明日ですけど」


「はい。明日、お待ちしています」


 リゼットが出ていく。


 扉が閉まったあと、閲覧室には静けさが残った。


 フェリクスも少し黙っていたが、やがて低く言った。


「怖いと言えるのは、強いですね」


「そうですね」


 アリアは、リゼットの座っていた椅子を見た。


「怖いと言えないまま出るより、きっと」


 自分にも言い聞かせるような声だった。


 その夜、アリアは記録帳の最後に一行だけ書いた。


 ――出発前夜。リゼット様は、怖いと言った。


 少し間を空けて、もう一行。


 ――その言葉から、明日の記録は始まっている。


 灯りを消す前に、アリアは観察項目の紙をもう一度見た。


 帰着直後の第一声。

 迷っている荷主・人足へ示せる証拠。

 リゼット本人の言葉。


 どれも明日、必要になる。


 机の上の理屈が、いよいよ道へ出る。


 そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。


 けれどアリアは、その怖さから目を逸らさなかった。


 怖いままでも、朝は来る。


 そして明日、最初の一往復が始まる。

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