2話
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「……ミノタウロスは」
「いませんでした。光苔の広間です。プロポーズの練習中でした」
「あそこは名所だからな」
「本番で噛まないための練習だったみたいですけど、噛んでました」
「やめてやれ」
「それと、ヘルメットに『目指せD級』って貼ってありました」
「ってことは、今はE級か」
「たぶん。緑スライムから全力で逃げるなら、E級の中でも下のほうです」
「言ってやるな」
俺は受付票に必要事項を書き込み、届に記された番号へ電話をかけた。
◇
柏木健太が窓口に駆け込んできたのは、夕方だった。
三十前後の男だった。スーツの上着を腕に抱え、ワイシャツの上から使い込んだプロテクターを着けている。手には、黄色いヘルメット。
側面に、手書きのステッカー。
電話口で聞いた話では、この三日、仕事帰りに毎晩二層を探し回っていたらしい。今日も潜るつもりだったのだろう。
「ゆ、指輪が届いたって」
「はい。先に、探索者証を拝見できますか」
柏木さんが差し出したカードには、E級の文字があった。
後ろのセンター長と、一瞬だけ目が合った。
「ありがとうございます。確認のため、いくつか質問させてください」
柏木さんはこくこくと頷いた。
「指輪の内側の刻印を教えてください」
「K to M、です」
「紛失した場所は」
「二層です。光苔の広間の、手前あたり」
「紛失したときの状況は」
柏木さんの背筋が、少し伸びた。
「ミ、ミノタウロスと戦っていまして。激しい攻防の末に、こう、弾き飛ばされて」
後ろでセンター長が、湯呑みに顔を隠した。
「念のため確認ですが」
俺はできるだけ穏やかな声で言った。
「スライムですよね」
柏木さんが固まった。
「……え」
「二層の緑スライムです。足首に、ぺたっと」
「な、なんで」
「それと、投げましたよね。おにぎりと間違えて」
柏木さんの顔が、みるみる赤くなっていく。
「見てたんですか」
「いいえ。落とし物を見れば、だいたいわかるんです」
嘘ではない。全部でもないけれど。
「うちの職員は優秀なんで」
後ろでセンター長が、なぜか得意げに言った。
柏木さんはしばらく口を開けたり閉じたりしていたが、やがて観念したように肩を落とした。
「……スライムです。おにぎりと間違えました」
「ありがとうございます。ご本人で間違いありません」
受領書にサインをもらい、指輪をトレイに載せて差し出す。箱はもう使い物にならないので、センターの備品の小さな布袋に入れておいた。
柏木さんは指輪をそっと手に取り、長いこと見つめていた。
「……今週の土曜なんです。彼女と、光苔の広間に行く約束をしてて」
「そうでしたか」
「あそこ、彼女が前から行きたいって言ってた場所で。だから一回ちゃんと下見して、どこで言うか決めておこうと思って。……そしたら、スライムが」
「二層の緑スライムは、人を襲いません。くっつくだけです」
「知ってます。知ってるんですけど、ぬるってきたら、もう体が勝手に」
気持ちはわかる。わかるけれど、婚約指輪を投げる人は初めて見た。
「見つからなかったら、土曜は延期しようと思ってたんです。同じのをもう一回買うお金もないし。でも延期の理由を聞かれても、ミノタウロスじゃごまかせないんです。二層に出ないって、彼女は知ってるから。結局、スライムから逃げて指輪投げたって言うしかなくて」
「それは、つらいですね」
「つらいです」
柏木さんは、情けなさそうに頭を掻いた。
「彼女、美咲っていうんですけど。僕よりずっと強くて、もうC級なんです。初めて会ったのも二層で、俺がゴブリンに追いかけられてるのを助けてくれて」
「……逃げてばかりですね」
「そうなんです。だから、せめてプロポーズくらいは、ちゃんと格好つけたかったんですよ」
「つきそうですか、格好」
「……指輪を投げた時点で、たぶん無理です」
「投げたことは、言わなくていいと思いますよ」
柏木さんは、ようやく笑った。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ。仕事ですから」
布袋を上着の内ポケットにしまい、柏木さんは深く頭を下げた。
帰りかけたその背中に、俺は声をかけた。
「柏木さん」
「はい」
「本番は、噛まずに言えるといいですね。『くだしゃい』じゃなくて」
柏木さんの耳まで、真っ赤になった。
「そ、それもわかるんですか」
「それと、もしスライムが出たら。逃げてもいいので、指輪だけは投げないでください」
センター長が、とうとう吹き出した。
◇
柏木さんは何度も頭を下げ、出口へ向かいかけたところで、ふと足を止めた。
視線が、俺の頭上を越えて、カウンターの奥に向いている。
壁一面の保管棚。その最上段。
透明な袋に入った、小さなお守りがひとつ。色の褪せた布地に、黄ばんだ荷札がぶら下がっている。
「あれも、落とし物ですか。ずいぶん古いみたいですけど」
あれを聞かれるのは、珍しいことではない。新しい落とし物ばかりの棚で、あれだけが時間に置いていかれたように見えるのだ。
「ええ」
俺は答えた。
「あれは俺の持ち物です。俺が落とし物だった頃の」
柏木さんは「え」と言ったきり、どう返していいかわからない顔をした。
俺は笑って、出口のほうを手で示した。
「土曜、うまくいくといいですね」
◇
閉館の時間になった。
センター長は老眼鏡を外して、台帳を閉じた。それから、いつものように一度だけ、棚の最上段を見上げた。
この人は毎日、あれを見上げる。何も言わずに。
「湊、帰るぞ。今日はお前が飯当番だ」
「昨日も俺でした」
「昨日のことは言わなくていい」
入れ歯の常連さんと同じことを言って、センター長は先に出ていった。
一人になった窓口で、俺も棚を見上げる。
子どもの頃、俺はこのダンジョンの入口で見つかった。
見つけたのはセンター長だったと聞いている。入口の脇に座り込んでいた俺を、あの太い腕で抱えて、この建物まで連れてきてくれたのだと。
どこから来たのかも、誰の子なのかもわからなかった。首に掛かっていたのは、あのお守りだけだった。
ダンジョンは、落とした物を返してくる。
捨てた物も、律儀に届ける。
だから俺も、ここに届いたんだと思う。
閉館の札を掛け、照明を落とす。
薄暗くなった棚の最上段で、お守りは今日も、誰にも触れられずに置かれていた。
俺はあれに、一度も触ったことがない。
触れれば、見えてしまうからだ。
誰かが、俺を手放した瞬間が。
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