第8話 ベルメト山再調査-①
————————————
——階紀六〇六年八月六日
第33階層 クウァイ森林——
「いや〜……、本当に快適だね! レゾン君、これだけで食べていけるんじゃないの?」
テミテミは久しぶりの遠出に少なからず緊張していたようだが、レゾンの言う通りに進路をとっていると本当に魔物に遭遇しないので、すっかりのほほんとして伸びをした。
再びのクウァイ森林である。イグロス、レゾン、テミテミ、そしてリエネ(イグロスに放ったらかしにされて拗ねてついてきた。一応、れっきとした医療の専門家だ)の四人隊は、テミテミが「楽しくなるといいね!」と言った通り平和に進路を辿っていた。飛竜の縄張の現状確認というギラムにとって重要な任務、そしてリエネがいる以上、さしものイグロスもわざわざ戦闘を仕掛けようとは言い出せないのである。……斥候部隊や調査部隊というのは本来、そういうものだったかもしれない。
「——いや、そう簡単にはいかない。テミさんだって、イグロスのお墨付きがなければ、ろくに狩人としての経験もない俺に進路を任せるなんて恐ろしくてできなかったはずだ。俺のこれは所詮『直感』にすぎなくて、何の根拠もない占術と変わらない」
「う〜ん……。それは確かに」
「第六の感覚としか説明できない。魔法生物に近い感覚なんだ、きっと。……自分で言っていて悍ましいけど」
「悍ましいって……そんな風に言わなくたっていいじゃないの」
「とはいえ、実際そうだからな」
レゾンは魔力に対して潔癖である。それは海神への忌避感と同時に、非魔法生物である人間として生きていくことについてある種の誇りを持っているからだ。この感覚が魔物に近いものだという推理は妥当かもしれないが、到底受け入れられるものではない。
しかし、使えるものを使わないのも性に合わなかった。この能力がもし“海”の夢と共に海神によって齎されたものであったとしても、〈大浸食〉から逃れるためにのみ使う。そう決まっている以上、利用しない手はない。
「——他には……魔物がなぜ神殿の冀石を狙いに来ないか考えたことはあるか? 俺には答えが分かる。冀石は魔力の塊だが閉じていて、気配がしないんだ。その上、おそらく喰らってもその分の力を得ることはできない」
「へー……! 神殿は天空神の加護で守られてるって聞いたことがあるけど……」
「ないとは言えない。ただ、俺には分からないな」
天空神は冀石を通じて、非魔法生物に〈昇梯〉という魔法を与えてくれている。それ以上のことを願う理由はない、とレゾンは思う。〈昇梯〉は太陽のように燦然と輝く圧倒的な希望だ。
「でもね、納得するよ。罠師たちの間で、魔物を罠に誘き寄せるために冀石を使うっていう発想は当然あったから。その方法が失敗して残ってないってことは、神殿関係なく冀石が匂ってないってことだもんね」
「なるほど。……テミさん、貴女は頭が良いな。話が早い」
レゾンの言うことをきちんと思考して検証し直す人間はそう多くはない。大体は鵜呑みにするか、頭ごなしに否定するかのどちらかだ。元老院の老耄どもも、彼女のように理性的であればよかったのだが。
「それはウチのセリフでしょ! レゾン君ってまだハタチだよね? じゃあ補佐官をやってたっていうのは……」
「十四の晩から二年半ほど。表には出ない立場だったから、知らなくても当然だよ」
レゾンは自嘲混じりに言った。今の自分が同じことを試みるなら、伯父ではなく自分の名前でもっと表に出つつ、より水面下でも活動する。ティタ族の褐色の肌は嫌悪感を与えることもあるが、人口五千を数える都市ギラムの多民族性は今に始まったことではないし、レゾンはルックスを褒められることも少なくない。使える武器を全て使えば可能だろう。
「へえええ、凄すぎておそろしい。おそれおおいってやつだね」
「はは……。まあ確かに、俺以上に都市の営みに詳しい者はギラムにはいない」
「本当に! その歳の頃のウチなんて、まだバカな遊びばっかりしてたよ……」
「テミさんがバカな遊びを? 気になるな」
「ちょっと、恥ずかしいって! 意地悪だなあ」
「はは」
レゾンは自分の軽い笑い声に少し驚いた。イグロス以外と揶揄い合ったりするのは初めてだった。
「……珍しいわね、レゾン君が楽しそうにしてるなんて」
「なんか見てて複雑だな。年上好きそうとは思ってたけど、テミテミ人妻だし、経産婦だし」
後ろからの野次はひどい。
「あんたら……」
「レゾン君って彼女いないの?」
「テミさんまで、やめてくれよ。俺は〈昇梯〉する前にそんな気にはなれないんだ」
「〈昇梯〉って……いつになるか分からないのに」
テミテミは少し心配そうにレゾンを見る。
「そうそう、レゾン君って格好いいけど、こういうとこが全然唆らないのよ。イグロスはちょっとバカっぽすぎるけど、賢すぎるのも考えものよね」
「おいリエネ」
「俺を当て馬にして痴話喧嘩するな」
ため息が出る。だが、このくらいでちょうどいいのかもしれない。テミテミが視界の端で、気を張るレゾンを安心させるように微笑んだ。自分が未来に恋人を作るとして、それはこういう包容力のある人なのかもな、とレゾンは思った。相手の性格などはこれまで一度も考えたこともなかった。……が、イグロスの「年上好きそう」という言葉を思い出して何だかイラッとして、考えるのをやめた。
「……それで、レゾン君が魔力を感じ取れるのは何となく分かったけど、結局……〈大浸食〉の周期がどうっていうやつは、どうやって調べていこうとしてるの?」
テミテミはにこにこしたまま話を進める。レゾンは一度口を閉じて、それから話し始めた。
「——〈大浸食〉が起きると、“海”は一階層分近くなる。それは紛れもない事実のはずだ。その影響があると仮定して、じゃあどこに表れるのかということが重要になってくる」
「ふんふん」
「雨は海神に関連するものと誤解されているが、恐らく違う。魔力濃度が低いし、魔物の活動状況にも魔力的な影響を及ぼさない。俺が目をつけてるのは湧水だ。特に井戸水」
ギラムの生活では、川水と井戸水を使い分ける。丘陵であるから井戸は深く掘らなければならず、井戸の水汲みは女子供に任される重労働となっている。
「その中でも、コロン川の状態の影響を受けない、聖水の井戸というのがあるらしい。場所は分からないんだが……、ギラムの中にある井戸の三倍以上の深さのものだそうだ」
「聖水」
テミテミはきょとんと目を丸くした。一般市民が聖水に触れる機会はまずない。
「ギラムの建設地が決まる前の仮拠点に掘られたもので、その水はものすごく美味しいとか。……俺は飲んだことはない。昔、儀式で飲まされそうになった時、あまりに魔力濃度が高いもので耐えられなくて初めて仮病したんだが……」
まさか天空神に関わる儀式でそんなものを出されるとは思わず、渾身の演技で参加を拒否した記憶が蘇る。あれは黒歴史だが、あの時感じた魔力の気配は今思い出しても寒気がするほどだ……。あんなものはもはや、魔獣の血を数滴溶かした水を飲めと言われているのと同じである。
「へえ? 魔力、多いんだ」
「ああ。考えてみれば不思議じゃない。水と魔力は共に“海”から、[導灯の大樹]によって上の階層に供給される。[導灯の大樹]の周囲が水場になっていることもあるが、そうじゃないことの方が多い——つまり——“海”の変化は地中に刻まれている、そう推測できると思わないか?」
ここまで考えを詳細に話したのは初めてのことだった。イグロスは聞かないからだ。
「今回の目当ては、飛竜の魔法の痕だ。あれで昔、『階層一高い』で有名なジャラの木よりも深い穴が空いたらしい。その穴は他の魔獣が棲み着いてほとんど埋められてしまったそうだが、この間の飛竜の魔法はかなり激しかったから……また期待できるんじゃないかと思う」
レゾンはテミテミの反応を伺った。正直、受け入れられるかどうかは未知数だった。この手の話題を嫌った伯父の翳った目を思い出す。
しかし彼女は大きな目をぱちぱちと瞬いて、それから明るく頷いた。
「うーん、よく分かんないけど——飛竜の行動パターンと地相を見るのを手伝ってくれってことだよね。〈大浸食〉の予知なんて本当にできたらすごいよ! 協力するする、任せてよ」
「テミさん……」レゾンはほっとして微笑む。「ありがとう。貴女みたいな人と一緒に証拠を見つけて、一番の理解者になってもらえたらすごく嬉しい」
「やーだ何それ、口説き文句?」
テミテミはカラカラと笑って冗談を言う。さすがイグロスが信頼できると言って連れてきた女性だ。
「……昔の俺は性急すぎた。それは間違いない。今度はちゃんと、理解してもらいながら進めようと思ってるんだ。じゃないと、意義もないと」
もちろん焦る気持ちはある。しかしレゾンは夢に見る“海”での出来事を、その時に語り掛けられる言葉を現実と錯覚しているに過ぎない。いや、レゾンに言わせれば錯覚ではないのだが、この感覚を他人に説明するのは難しい。結果を検証できる魔力感知とはわけが違う。
「……安心してレゾン君、ウチ、手伝うからね」
過去の己の青さを恥じるレゾンに対して、大人の女性・テミテミは凄まじい包容力だった。その小柄な体は確かに母のものなのだ、と、謎の神聖さすら感じた。
「——レゾン君って、ずっと気を張ってる子だなあと思ってたの。どうやったら安心した顔が見れるかなあって。きっとそれに必要なのは、気になること全部調べ尽くして、納得できる答えが見つかって、みんなが無事だって確信することなんだね」
「————」レゾンは、その優しい言葉に言い換えられた自分の心情を噛み締めた。「……うん、その通りだ。俺は、ただ……都市の存続を願ってる。それだけなんだ」
「真面目だねえ。でもウチらといる時は、分担しよ、ね?」
「分担?」
「ウチらはレゾン君の味方だからね。ね、イグロス君?」
「ん?」
イグロスは全く空気を読まずに顰め面で片眉を上げる。この男はあくまで軽薄で、そこが裏表がなくて良いのだ、と、レゾンはテミテミと目を合わせてクスリと笑った。
「——ウチも都市のみんなが無事でいて欲しいって思いは同じだよ。大丈夫。ウチらはレゾン君の熱意を嬉しく思うし、応援するよ。君が安心して眠れる時まで」
それは——レゾンが無自覚のうちに欲していた言葉なのかもしれなかった……レゾンはなんだか泣きそうな心地になって、これまでの人生で発した中で一番重い「ありがとう」を言った。




