第7話 都市よ、ギラムよ
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——階紀六〇六年八月一日
第33階層 エーレ丘陵 “都市”ギラム——
納品や報告の類はイグロスの口から行う。レゾンの言うことを信用するなと根回しされている可能性があるからだ。
とはいえレゾン・オベスムは徹底的に貶められたわけではない。というのも、レゾンが実際に何をしていたのか、その全体像はジェイニス一派に掴まれていないからだ。カニスはそこまでレゾンを売る気にはなれなかったらしい。彼はただ、優秀な道具に自我があるのが恐ろしかったのだろう。
支持を集めればみんなを動かせる——かつてはそう考えていた。裏切られたおかげで早くに軌道修正できたと言うべきかもしれない。人々にはそれぞれ都市の中に大切なものがあり、彼らはそのために集団全体を語らなくなっている。それ自体は都市が豊かな証拠であり、結構なことだ。
「また難しい顔してるわね」
「——ああ、すみません。陰気臭かったですか」
レゾンが顔を上げると、ワーンミニャーチ考案者の女が窓枠で頬杖をついてこちらを見下ろしていた。パンを食べる手が止まっていたので気になったのだろう。
記録に残っていない公務外で作った人間関係は、姓を失った後もしっかりと続いていた。彼らは、レゾンが立場を失ったことを「誰かの嫉妬による理不尽な采配」だと思っている。
結局カニス・オベスムは、ルッカの悲劇と都市ギラムの歴史とを過去・現在に隔離し、ギラムの栄華を最大化することだけを考えた演説を行った。レゾンの置いた布石は繋がりを得ることなく、効く機会を逸してしまった。
「また雨季の真っ只中に出て行ったって聞いて驚いたのよ。無事でよかった。……まだ信じられないわね、あのレゾンさまが狩人をしてるなんて」
「そうですか?」
「だって、紙より重いものを持った事がなさそうな人だと思ったもの。……ああえっと、もちろん当時から体格は良かったし、土木工事を手伝ったりもしてたのは知ってるわ。なんとなく、喩えね」
「身分の高さと武勇とは、リンクしていてもおかしくないと思いますがね。義務ではないですが——心掛けとして」
「そんな立派なことを言えるのはレゾンくんだけよ」
そう言って彼女は笑ったが、レゾンは笑えなかった。
「——あ、そうだ。前、〈昇梯〉の備えについて話したじゃない?」
「はい、そうでしたね」次の発言は数通りの嫌なパターンで想定できる。「何か考えていただけましたか?」
彼女は少しやりきれなさそうに眉尻を下げて、通りの奥に視線をやった。神殿の方角だ。
「……結局、私が次の階層に持っていけるものって、おいしい食べ物そのものじゃなくて……レシピなんじゃないかって思ったの。どう? 間違ってる?」
「いえ。実際、そうでしょうね。〈昇梯〉で運ぶ物資は、冀石のリソースを人命と共有していますから」
「厳しいわね」
「誇るべきですよ、伝えるべきものがあることは。都市ギラムを建てた英雄たちの生き様が語られるように、次はギラムにいた数多の市民の知恵が伝えられる……。素晴らしいことではないですか」
「ええ、確かに。……でも、レシピを残そうとすると……どうしても、悲しくなってくるわ」
「悲しく? そんな風に感じる必要はないでしょう。記録するということは、この上なく前向きな行為ですよ」
レゾンはがぶりとパンに噛みついた。一ヶ月の調査の間ろくな料理を食べなかった体にとって、焼きたてのパンの食感は尊いものだった。木の実の香ばしさが鼻を抜ける。
「——都市は素晴らしい。貴女もその都市の一部だ。……人類にこの豊かさを忘れて欲しくない。そう思いませんか」
「……そう言われると、そうだけどね」
歯切れが悪い。彼女は困ったような顔でレゾンを見て、
「……ごめんね。何と戦ってるのか、いまいち分かってあげられなくて」
「いいえ、仕方のないことです。貴女はただ……生きていてくれればいい」
「そう?」
そんな簡単なことでいいの、というように彼女は肩を竦めた。それが難しいのかもしれないとは、寸分も疑っていないようだった。
その時、店の奥から赤子の「あう」といった声が聞こえて、それから間も無く、その声は泣き声に変わってしまった。女がばたばたと戻り、その腕に我が子を抱いてあやす。
彼女は子を抱いたまま戻ってきて、「ほら、ノワ、挨拶して」と言って彼の小さな手を摘まんで持ち上げた。レゾンの褐色の肌と白橡の髪は、母親の姿とは全く違って見えるだろう。彼は困惑したような表情で母親の顔を見、手足をばたつかせながらその胸に擦り寄った。
「今で何カ月ですか」
「半年になるかしら」
「もうですか」
「私にとっては長いわ」
「俺たちは都市を、この子も天寿を全うできるようにしなくてはいけませんね」
「……そうね……。きっと大変な時代になっていくけれど」
彼女はノワの丸い頬をそっと撫でて、深い実感のこもった声音で囁いた。
「〈昇梯〉までに、この子にもギラムの豊かさをしっかり享受してほしい。レシピを書くのも大事だけど、限られた時間でどれだけのことができるか考えないとって——最近そんなふうに思うの。母親になってしまったわね、私」
彼女の言葉尻は皮肉っぽかったが、間違いなく幸せそうだった。
「——……」
レゾンはそこで、彼女と自分の考えていることに深い隔たりがあることにはたと気付いた。
我々はギラムと別れなくてはならない。次なる都市のために。
しかし彼女もまた正しいことには間違いなかったので、何も言えなかった。辛うじて「……そうですね」と肯く。じゃあまたね、と彼女が店の中に引っ込んでいった後、レゾンは己の夢見の悪さを呪ってため息を吐いた。
*
狩りの進路の自由さを重視する面では気の合うイグロスだが、街での過ごし方が違い過ぎるため、いつもギラムに帰ると次にどちらかが相手を誘うまで自然と解散になる。しかし今回は、ベルメト山再調査という次の仕事がすぐに待っていた。他の狩人に行かせてもよかったが、レゾンには確かめたいことがあった。
飛竜の魔法で魔獣たちが山を降りたところまでは確認した。この目で見たわけではなく、「直感」による判断だが、通常の調査においても散々利用しているのでこの際はじめから問題にはしない。
[雷を下す飛竜]に動きがあった場合には、ベルメト山の魔物の勢力図が元通りになったかを確認しなくてはならないことになっている。元通りというのは、つまり、飛竜が王として他の魔獣の動きを抑制している状態のことだ。
とはいえあれ以降雷の光は観測されていないし、他の狩人たちによる次なる報告もない。今回は戦闘の規模こそ大きかったが、それは敵となった魔獣の逆鱗への触れ方が良くなく機嫌が悪かっただけかもしれない、というのがレゾンの見立てだった。そもそも、飛竜を脅かせる魔物など地竜以外に存在しないだろう。
いっそ地竜でも来れば皆〈昇梯〉に乗り気になってくれるだろうか……、と考えて、レゾンは頭を振って悪い考えを追い払った。そんなことではロー・ツァグラに顔向けできない。
レゾンは時間通りに待ち合わせ場所——東側の住宅街の広場——に着いたが、日時計をまともに読んで使えるのは狩人の仲間内でレゾンだけであり、否、狩人は日時計を見ずとも時刻を大体導き出せるものだが、イグロスという男は遅刻の常習犯だった。そしてレゾンは約束を堂々と破るということを知らなかった。
都市ギラムは八氏族を主とする多民族で構成されており、民族の母数が少ないほどまとまって住む傾向がある。カカン族はその例の筆頭で、他所へ輿入した者以外の全員がこのあたりの一画に暮らしていた。レゾンもその権力者層とは二度ほど話したことがあるが、まあ保守的で頭の固い男だったのを覚えている。
「…………」
雨季の終わった空の青天井は、心なしか遠く見えた。“天”はレゾンと共にギラムの未来を憂い、呆れ、また憂いては呆れているようにも思えた。見捨てろと言ってくる“海”とは違う……。
「——レゾン君?」
「!」
突然知らない声に名前を呼ばれて、レゾンは視線を落とした。自分の胸元よりも下ほどの身長の、可愛らしい小柄の女性だった。彼女は初対面の緊張など感じさせない明るさで歩み寄ってきて、にこやかに自己紹介をする。
未亡人と聞いて心配していたが、どうやらパワフルな人のようだ。
「合ってるみたいだね。どうも、ウチはテミテミ。イグロス君から話は聞いてるよ!」
「初めまして。迎えに来てくださったんですか? ……あいつ、一緒に訪ねるって言ってたのにいつも遅くて。すみません」
「いやいや、噂通りのしっかり者だね〜……。ティタ族の人がこっちに来るのは珍しいから、すぐに分かったよ! うち、すぐそこだから」
テミテミはすぐそこの家を指した。確かにすぐそこだ。
「イグロスとはどういう付き合いで?」
「イグロス君がまだこーんなな時に——」彼女は短い腕を精一杯に斜め下へ伸ばした。……正確なんだろうか?「脱走して外にいたところを連れ戻したの。それから尊敬してくれてるって感じ。最近だと、カカンが手芸で使う鳥の羽根が矢羽にいいんだって。ちょうどウチらは大きすぎて使わないところのだから、いつもあげてるんだよ」
「ほう」
なんだ、あの男、中々いい交流をしてるじゃないか。レゾンはつい微笑んだ。
「中、入って入って。お茶は好き?」
「はい」
「よかった」テミテミは落ち着いた足取りでレゾンを案内する。「……それで、レゾン君こそ、イグロス君とはどういう付き合いなの? 全然違うタイプみたいに見えるけど」
少し揶揄うように言われて、レゾンは苦笑した。あの男は本当に説明が足りない。
「俺は……色々と事情を抱えてまして。それを気にせずに何でも付き合ってくれるのがイグロスなんです」
「へえ〜、なんか、いいね」
「ありがたく思ってます。——お邪魔します」
「どうぞどうぞ」
カカン族の家はコンクリートではなくレンガの造りだ。それだけで小洒落て見える。
小柄な体に合わせて作られた扉をくぐると、可愛らしいクロスの敷かれたテーブルにはお菓子が既に並べられていた。至れり尽くせりである。小物が多く手入れが行き届いているが、夫と子供のいない家はがらんとして寂しく見えた。
「事情って、どういうの?」
「少し、政治的な話が絡みます。……俺のことはあまり他の人に話さない方がいい。シンパだと思われると厄介ですから」
「へえ……?」テミテミは目を瞬かせる。
「俺がこうしてテミテミさんときちんと話したかったのは、それでも貴女の知恵を頼りたいからです。イグロスの誘いに乗って狩人に戻るついでに、俺には魔物以外の目的があるということを分かって、できれば協力して欲しい……。今回のベルメト山再調査にも関わります」
「魔物以外の目的……」
魔物狩猟部隊に入る動機は、およそ二つに分けられる。天空神への敬虔な信念か、狩猟技術への信念だ。だがいずれも、魔物と戦い勝つことを仕事としていることは変わらない。
レゾンは違う。全ては都市人の〈昇梯〉のためだ。……本来は、冀石を集めることこそが純粋に〈昇梯〉を目指した活動であったはずだが、現代では、〈昇梯〉に向かうためには——冀石だけでは足りない。
「〈大浸食〉の周期を明かすことです。俺の考えでは、下の階層が〈大浸食〉を受けたことの影響がどこかに残っているはず」
「あ、そういう感じ。なるほどね。……でも、〈大浸食〉の周期って大体二十年ごとくらいって分かってるんじゃなかったっけ?」
「——そうですね。しかし、もしそれが誤っているとしたら……どう思いますか?」
レゾンは訊ねた。「〈大浸食〉は約二十年周期である」——それはある階層に定住する都市人にとって、計画を立てるために何よりも信じたい指標だった。信頼度の高いデータでもある。それを根拠なく疑ったところで誰も幸せにはならない。
テミテミはレゾンの目を見つめて、それからふわりと優しく笑った。
「——怖いね。……そんなこと、ずっと一人で抱えてきたの?」
「え?」
彼女は注いだ茶をテーブルに置いて椅子を引き、レゾンに座るように促した。
「手伝うよ」
「本当ですか」
「もちろん。詳しい話はまた聞かせて。今は——」
テミテミはそう言って、クスリと笑って窓の外を見た。見慣れた黒髪の男が、長い髪の女と取っ組み合って何やら騒いでいる。
「みんなで親睦でも深めようよ。今回はリエネちゃんも参加かな? 楽しくなるといいね!」
その元気は脳天気には見えなくて、この人なりの強さの形なんだろうとレゾンには分かった。そして理由なく自分の張り詰めていた部分が少し緩んだ気がするのも、また事実だった。
いい旅になりそうだ。




