第5話 狩人の地位-①
————————————
——階紀六〇六年七月二十八日
第33階層 クウァイ森林——
今どき大きな声では言われないが、こんな議論がある。——雨とは“天”の涙なのか、それとも“海”の一部なのか。
階紀一〇〇年前後の時代の話である。人々は雨を“天”の涙であると解釈し、雨が降るたび共に嘆き、そして雨によって実る恵みに天空神の慈悲深さを見出した。しかし神官は、雨こそ“海”の侵蝕であるという解釈をした。以後階層世界では、雨に当たり続けることを危険視し湧水を神聖視する考え方が主流になっている。
しかしある希少な文献の記述によれば、これは階層世界の摂理をいち早く理解した集団——具体的に言えば、シュカ族——が、そうでない集団(……ミーチカ族のことだ)に対して水場の有利を得るためにでっち上げた話だったそうだ。
今やシュカ族がギラム文化の太い一柱となり、歴史的には既に決着のついた状態ではあるが、実際にどちらが正しかったのか、レゾンは軍配を上げることができる。答えは“天”の涙だ。なぜなら——雨水は湧水よりも格段に魔力濃度が低いから。
「別にどっちゃでもいーだろ」
イグロスは面倒そうにそう言った。レゾンはすぐに返した。
「ああ、どっちでもいいだろうな、魔力の気配が分からない者からすれば。魔力中毒の原因の正しい記録はいずれも魔物、あるいは特殊な果実によるもので、雨水を飲んでも湧水を飲んでも別に構いはしない。——さて、今日も水利に富む第33階層の大地に感謝しよう」
そう言いつつ、レゾンは川水を掬った器に水筒で溜めた雨水を注ぎ込んだ。「水の水割り」と、イグロスがぼそっと呟いた。
第33階層では今、しばらくぶりの雨季が終わろうとしていた。晴れ間に現れた木漏れ日がぼんやりした影を落とし、水溜まりがその様子を下から写している。
生乾きの外套を直接肩にかけて、レゾンは木の根元に、イグロスは枝の上に座っていた。レゾンが水を飲んで顎を上げると、上から見下ろす彼と目が合う。
ハルマタ族の弓使い、イグロスは黒髪に負けじと日に焼けた顔で、ニッ、とレゾンを馬鹿にするように笑った。
「——なア、今回も無駄足だったな、レゾン。わざわざ雨季に遠征に出て、収穫はこれだけだ」
「あっ、おい」
彼が後ろにやっていた手を開くと、その手の中からぱらぱらといくつかの冀石がレゾンの頭の上に落とされた。まるで“太陽”のような、赤を秘めた金色に煌めく宝石。レゾンは反射的に手を伸ばしてそれを一、二、三、四、五個キャッチして——時間差で落とされた木の実を頭頂にくらって「っ」と顔を顰める。
「ハハッ! 取れねーでやんの」
「この野郎……」
レゾンは深いため息を吐いて、冀石を握ったまま腕を立てた膝の上にだらんと置いた。レゾンは今月で二十、対するイグロスはとっくに二十三を過ぎているはずだったが、この男の精神年齢は都市の中で遊んでいる子供より高いか怪しい。
彼がレゾンの考えを正確に理解する日は恐らく来ないだろう。理解する気がないのだ。
「——無駄足じゃない。俺の仮説はちゃんと立証された」
「ああ? どこがだよ。『雨季は魔力を含む雨の影響で魔獣が活発になるはずだ』とか言ってやがったくせに——」
「『はずだ』とは言ってない。『かもしれない』と言ったんだ。言葉を歪めるな。それに……さっき、雨水の魔力濃度は低いと言っただろ。それは、俺にとっては出発する前から分かってたことだ」
「……あ?」
「結果は出た。あとはいつも通り報告すればいい。『天候雨、異常なし』——重要なのはそれだけだ」
イグロスが首を捻る。レゾンは掌の上で冀石を転がして、頭の中でだけ続けた。
雨季になって、むしろ普段より魔獣は出没しなかったし、遭遇しても強化されてるなんてことはなかった——それで全て予想通りだ。活発になるかもしれないと言ったのは、好戦的なあんたの興味を唆って連れてくるためだよ、イグロス。と。
魔物狩猟部隊、その斥候。この立場に身を置いて一年以上経つ。これで、レゾンがギラムに報告してきた魔物分布のデータは、ちょうど乾季と雨季とを二回ずつ網羅した。
レゾン・オベスムは政界から消えた。だが「狩猟部隊のレゾン」は着実にその軌跡を記録に残している。
「——こんな言葉を言ったところであんたへの報酬にはならないだろうが、俺は本当に感謝してるんだ、イグロス。悪く思わないでくれ。俺の『直感』は、本来誰にも知り得ないことなんだし……」
「直感。あー、魔力の気配がどうとかな。当たりすぎっから疑っちゃねえけどよ」
「その『直感』が正しいことを客観的に証明していくことが、今の俺の課題だ」
レゾンは決意を込めて言った。そして自分の直感、つまり“海”との不思議な繋がり——不本意だが——による感覚を立証することは、自分の気が狂っているわけではないというレゾン自身の安心にも繋がっていた。
「——。今はあんたみたいなのしか、リスクを冒してまで俺の味方はしてくれない。だけど一つずつ積み重ねていけば……、ちゃんとみんなで真実に辿り着けるはずだ」
魔物分布を調べる任に就いたのは、レゾンの感覚が正しいこと、雨の魔力的影響がほとんどないということを証明するためだけではない。最終的な目標——〈大浸食〉の周期の実情を明らかにするための材料を集めるのに都合が良いのだ。例えば湧水や地相のことは、壁の中だけでは分からない。
「てめーは本当に、面倒なことばっか考えてやがンな」
「やるべきことだ」
「どーだか。そうやってグイグイやって投獄されたんだろ? お坊ちゃんがよ」
「……他人の過去に興味はないんじゃなかったのか。趣味が悪いな、瑕疵があると知ると途端に揶揄ってくる」
「だって気になるじゃねーか、——」イグロスは枝の先に足を引っ掛けてぶら下がった。葉がザワザワと悲鳴を上げる。「元、族長の補佐官。シソーハンで牢屋に入れられた罪人。十七歳。魔物狩猟部隊志望、得物は——そのちっせえ剣」
「————」
指さされて、レゾンは腰に視線を落とした。そこには、オベスム家の家紋が外されて質素な見た目になった長めの短剣が掛かっている。——護衛・護身のために磨き上げた、武力に潰されてはやらないという威嚇のための剣だ。およそ魔物を相手取る狩人の得物としては頼りない、と見えるのだろう。
レゾンはその柄をそっと撫でて、強気に言い返した。
「俺にとっては何もおかしなことじゃない。全ては判断の結果だ。心配ならご無用」
「そうですかい」
そうとも。死は他の何よりも悪い。レゾンはそれを分かっているからこそ、リスクを最大限取ることができるのだった。
「……そろそろ戻るか。リエネさんもそろそろ辛抱ならないだろう」
「あー、リエネな」
レゾンが言い出すと、イグロスは今思い出したように気まずげな顔をした。まったく、彼女はこの男のどこがよくて付き合っているんだか。
まあ、彼らは喧嘩も軽ければ仲直りも軽い。イグロスはすぐに切り替えて、
「で……随分大回りしたが、ここから戻るルートはどうする? また川をふたつ越えるのァ面倒だぜ」
「そうだな」レゾンは[導灯の大樹]と束陽の軌道からだいたいの現在地を頭の中に描き、頷く。「——ベルメト山は[雷を下す飛竜]の縄張だ。いっそ山の中を通ってしまうのが安全だろう。コロン川上流域の橋だけ渡れば済む」
ギラムから出発したのは一ヶ月ほども前。レゾンとイグロスはその身軽さで雨季の間にギラムの東から大きく西側を回り——現在地はギラムのあるエーレ丘陵から南西方面、ベルメト山の西側のクウァイ森林である。
さらに西側に広がるクウィ山脈は、ギラムでは「夜に外に出ると魔獣が飛んできてクウィ山脈に連れ去られてしまい、二度と下りられない」という話があるほど危険視されている。しかし英雄たちはクウィ山脈から遠くないエーレ丘陵に都市を建てた。それはひとえに、ベルメト山の王である飛竜が自分の縄張を荒らされることをひどく嫌うため、南西方面から流入する凶暴な魔物の防波堤となってくれるからである。
その魔法は雷のように「落ちる」のだと言い、これによってその飛竜には[雷を下す飛竜]という識別名が与えられていた。裁きの雷……、政治的なパフォーマンスである。
「本気かあ? 飛竜の縄張で戦いになっちゃア……オレら諸共ドカンだぜ」
「飛竜が反応するような魔物は、俺の感覚で十分避けられる」
「…………」
イグロスはつまらなさそうに黙ったが、彼は命知らずというわけではない。きっと今回のタッグでの旅路については総合的に満足してくれただろう。戦いたい時に戦い、避けたい敵は避ける——レゾンの感覚はそれを実現できる。
イグロスは器用に半回転して跳び下りた。レゾンは立って、魔力の気配の薄い方へと歩き始める。風が吹くと雨上がりの匂いが立ち上り、その中にいると全身の濡れや汚れは汚れではなく、自然に溶け込む鎧であるようにも感じた。イグロスはその後に続きながらぼやく。
「てめーといると、魔物の痕跡を見る目が腐りそうだ。——今度、テミテミでも連れてくるか」
「テミテミ? 誰だ、それは」
名前の響き的に、カカン族の女性か。カカン族は小柄で手先が器用なイメージがある。
「罠師だ、観察力がずば抜けてる。旦那が死んでからは狩りに出てねーが、最近、子供が大きくなったから暇してるんだと」
「へえ——それは是非誘って欲しいな」レゾンは顎に手をやって、真剣な声で言った。「色々意見を聞きたいことがある。狩りには関係ないが」
「また何か企んでやがんのか。自分で口説けよ」
「そうさせてもらう。……イグロス、もしかしたら今度こそ、下階層の〈大浸食〉の影響を見つけられるかもしれないぞ」
下の階層で〈大浸食〉が起きれば、その度に一階層分“海”が近くなる——それは当然のことで、現階層にその影響が全くないと考えるのは無理があるとレゾンは思っている。
「ハイハイ」
イグロスは振り返ったレゾンの熱のこもった視線を受け流して、それからふと、山頂の方を見上げた。
「……?」
「——どうかしたか?」
イグロスは勘が鋭い。その彼が眉を顰めたので、レゾンは立ち止まった。イグロスは目を凝らして、
「……一瞬、何か光ったような……」
と、言った。
その直後だった。
ピカッ——と、視界を斜めに横断するように、白い光の筋が閃いた。次の瞬間、轟音と共に地面が振動し——ベルメト山の中腹一帯が爆発。土煙が噴き上がる。
「な——」
魔力が全身を薄くなぞるような感覚。レゾンは初めて己の目で見る飛竜の魔法の強大さに圧倒され、鳥肌が立つ。
「雷! チッ……安全じゃねーじゃねえか!」
「範囲が広いな、何かの群れでも動いたのか……」
「とにかく離れンぞ! レゾン!」
イグロスはすぐさまそう叫んで、ばっと手招きをするなり傾斜を降り始めた。レゾンもその背を追う。飛竜も、飛竜がいると分かっていて戦闘行為を始めた魔物も、人間たった二人の手に負える存在ではなかった。




