第4話 功と罰-④
演舞が始まるまでに、レゾンは自分が関わった出店や人員配置の箇所を回る必要があった。
まずさっそく、例のミニャーチの配布を受け取りに行く。一人目の客と言ってしまったので、その通りにしなくてはならなかった。
飾り立てられ賑わった大通りを歩いていると、目当ての手押し車が向かいからやってくる。彼女はレゾンに気づくと手押し車を止めて、大きく手を振った。
「あ! レゾンさま! 昨日は本当にありがとう。おかげさまで『おいしいミニャーチ』ができましたよー!」
レゾン、という名前に反応して、周りにいた人々も振り返る。レゾンは彼女のもとに駆け寄って、例年通りのミニャーチの香りを肺いっぱいに吸い込んだ。かのウルシャ・ハイェーンもこの香りを嗅いだのかと思うと感慨深い。
「ああ……この少し酸っぱい感じ。紛れもなくミニャーチですね」
「そうでしょ?」
「どれ、まずは一口」
レゾンは一つミニャーチをいただいて、一口分ちぎって食べてみる。濃い色の皮を破ると、中は黄色がかって目の詰まった生地。……ああ、この食感、この味だ。歯応えはあるのに弾力がない。目が詰まっていてしっとりしていると思いきや、口の中の水分が奪われていきぱさついてくる。鼻に抜ける香りは新鮮な食物とは思えない生臭さだ。
「フフ……」
「まずいでしょう」
「ええ、俺は嫌いではないですがね。ただし、もしこれを主食にしろと言われたら、迷いなく改良を推し進めるでしょう」
「——それじゃあ僭越ながら、おいしくして差し上げますわ!」
女は言って、鼻歌を歌いながらレゾンのミニャーチを受け取った。ナイフで×の形に切り込みを入れ、断面にオレガノを使ったという赤いソースを塗り込み、具材を挟んでいく。
通行人が何人か寄ってきて、「何だそりゃ?」と覗きに来た。よし、宣伝効果は期待通りだ。
「はい、どうぞ!」
「いくらです?」
レゾンが硬貨を払おうとすると、女はひらひらと手を振って笑う。
「そんなのいいのいいの、レゾンさまは特別! 助けてくれたし、あの後、すごい人だって教えてもらったの」
「いえ、俺はそんな」
「とにかく、サービスだから! 食べてみて?」
では、お言葉に甘えて。レゾンははにかんで、具材ごと一気にかぶりついた。
「!」
「どう?」
——これは素晴らしい。生臭さはソースの匂いに上書きされているし、生地の酸味もまるでこのソースを合わせるために存在していたかのようだ。そこに野菜の食感と肉の旨味がやってくる……。元々の欠点と思われていた特徴を完璧に活かしたマリアージュだ。
「……おいしい!」
レゾンがぱっと顔を明るくしてそう言うと、見物人たちが顔を見合わせた。それから、我先にと好奇心で寄ってくる。
「本当か? 姉ちゃん、おれにもくれ!」
「はいはい、並んで。ミニャーチは例年通り配布だけど、おいしく食べるトッピングは1ルタいただくよ!」
「1ルタ?」
レゾンはその安さに驚いた。新しい客たちも、1ルタなら、と懐から硬貨を取り出す。女は苦笑して、しかし清々しい表情で頷いた。
「うん……ちょっと反省したの。お金儲けの場じゃないなって」
「————」
彼女の商売がこれからうまくいくといい、と、レゾンは心から思った。
レゾンに続いて具のあるミニャーチを食べた人々が、うまいうまいと驚いている。また人が集まってくる予感がしたので、レゾンはそろそろここを離れようと思ったが、その前に今や大忙しの女が「あっ」と顔を上げてレゾンを呼び止めた。
「そうだ——レゾンさま。この新しいミニャーチの名前、何か良い案があるかしら?」
「名前、ですか」
ふむ、これは重要な議題だ。レゾンは少し腕を組んで考え込む。
ミニャーチ! という言葉の出所であるウルシャ・ハイェーンは、ハルマタ族の中でも西部を中心に活動していた集団に属する女性だった。ギラムの公用語は割合の高いイト族やシュカ族の使うラディン語ではあるが、レゾンはさまざまな文献を読むために複数の言語を修得している。
「——『ワーンミニャーチ』はどうです?」
「ワーン?」
「『もうまずくない』という意味です」
告げると、彼女はカラカラと笑って「採用!」と親指を立てた。道端にどっと笑い声が起こり、その騒ぎに釣られた人々によってまた、新名物ワーンミニャーチは飛ぶように売れていった。
*
ついでに「演劇が素晴らしいんですよ」と触れ回ったこともあってか、レゾンが劇場の方に向かう頃には、例年にも増してたくさんの聴衆が集まっていた。都市ギラムの人口は現在約五千人だが、今はそのほとんどが劇場の近くにいるように見えた。
開幕、第30階層の環境を模した背景の前で、英雄ロー・ツァグラの役の男がその筋骨隆々の体で軽やかに劇場を走り回る。彼は大剣の名手だった。その場面がひと段落すると、あらすじが歌によって示される。
舞台を横目に劇場を迂回し、裏手へ。こちら側では次に登壇する者が控えて準備する他、劇の後半で使う小道具などが仮置きされている。劇の出演者はプロと素人の混合であり、毎年違う参加者を鍛え上げて統率しているベテランたちの声がキビキビと走っていた。
「ああ、レゾンくん!」と声をかけてくれたのはその内の一人。「無事『ルッカの悲劇』が仕上がったよ。リチが改めてお礼言いたいって!」
リチは脚本家だ。レゾンは伝記や階層世界史に詳しい身として多くの相談に乗ったのである。もう随分前のことになるが。
「ええ、今夜にでも。——演劇の後はわがティタ族の族長、カニス様が各氏族長を代表して演説されますので、ぜひそちらもよろしくお願いします。ティタ族は伝統を重んじる民族、カニス様の都市ルッカに恥じぬ勇姿をご覧ください」
「おお、それは楽しみだ!」
軽く手を振り合って別れる。黒いバンダナを巻いた格好と実際の血筋による黒い髪から考えて、彼は中盤で合流する、ウルシャ・ハイェーン擁するハルマタ族のリーダーを演じるのだろう。嵌まり役だ。
レゾンは天幕の中に入り、伯父の姿を探した。
伯父は硬い表情で立っていた。レゾンが「伯父さん」と小さく呼ぶと、彼は視線だけをこちらに向けた。そして小声でレゾンを呼ぶ。
「レゾン君……」
「はい」
相変わらずの覇気のなさだ。甥として背中に触れて励ましてでも差し上げようかと思うと、彼は一呼吸おいた後、決心したように話しだした。
「君は優秀だ。だが、やはり、今回のことは——性急に過ぎるのではないかね」
レゾンは顔を顰めた。この人は、まだ踏ん切りがつかないのか。
「……いいえ、性急などということは決してありませんよ。原稿にもあるでしょう? 観測されギラムに伝わる〈大浸食〉の記録は、第1階層の階紀二五年から始まり、最新の第25階層・四九九年に至るまで、およそ二十年間隔でキープされています」
「…………」
「現在は六〇三年。この第33階層に〈大浸食〉が訪れるのは、単純計算で約五十から六十年後だと予想することができる——もちろんご存じのはずです。それでも、早過ぎると?」
「——〈昇梯〉の準備は一年や二年もあれば十分だと、皆は言う」
レゾンは、ぴく、と自分の眉が苛立ちで動くのを感じた。平静を保ち、緩く腕を組む。
「もしそうであったとしても……早期に動くことの重要性も、何度もお話しした上原稿にも記したはずですが。これから民に伝えるというのに、貴方が分かっていてくださらなくては」
「……だが……そのためには……ここを捨てることになるんだぞ」
「——貴方は、歴史に何を学ばれたのですか?」
思わず驚きの声が出る。しかしカニスもまた、同じくらい頭の痛そうに言葉を絞り出した。
「君は……この都市を愛していないのか?」
「愛していますよ。だからこそ真剣なのです」
「……もう……」
「伯父さん?」
伯父の声が震える。今までにない、嫌な予感がした。
——背後に気配を感じる。劇団員のそれではない、高圧的な。
「————」
レゾンは短剣の柄に手を置き、振り返った。
しかし剣を抜くことはできなかった。そこにいたのは——執政官ジェイニス付きの従吏たちだった。
「は」
文脈が分からなかった。だが、自分に向けられたその杖が何を意味するかは知っていた。
「……。——伯父さん?」
彼らの杖は、罪人を指すためにある。
「すまない」
「……そう、ですか」
なんて薄っぺらな謝罪だ。胃の底がスウっと冷えていく。レゾンは殺気を抑えたまま、じり、と構えの姿勢を整えた。
「気をつけろ、彼は剣術の腕もいいと聞く」と従吏が仲間に囁く。
「こちらから暴れたりなんかしませんよ。……しかし、俺に杖など向けてどうされたのですか。そちらをまずはお伺いしたい」
「——カニス殿に、助けを求められたのだよ」
その時、ぬっ、と天幕の外から、長身の男の影が現れた。
執政官ジェイニス。痩せた五十代の男だった。レゾンは低く構えたまま、形だけ敬意を示す格好をとった。嫌な予感は今、最悪の形で的中しようとしていた。
彼は伸びた白い髭のある面で、興味なさげな目でレゾンを見下ろし、続けた。
「急進派としての思想も大概ではあるが……、問題となるのは、きさまが、カニス殿すら操り利用しようとしていた——扇動者であるということだ」
「操るとは……、人聞きの悪い。伯父さん、こんなことをせずとも、俺の意見に不満があるのなら俺と討論してくださればよいのです!」
なぜなら、その上で説得してみせるから。……レゾンのその思いは見え透いていただろうか、伯父は沈黙の後、こう言った。
「……君は天才だ。情けないことだが、私は君と対等にはなれないよ。君もそれは分かっていると思う」
「っ——」
「重い罰を下すようなことはしない。君は優秀な補佐官だったし、未来ある若者で、私の可愛い甥っ子でもある」
「だった、って……俺は——」
なぜ。どうして……こんなことに? こんなことをしてオベスムに何の得がある?
レゾンは彼に思想を共有することはあっても、同意を強要したことはなかった。全てについて納得できる論理を並べ、それを主張する舞台を整えることもレゾンがやった。たとえ〈昇梯〉に全く関わらない用件であったとしても、レゾンは十二分に彼を補佐してきた。誰よりも都市の未来を考える優秀な補佐官だった。実際その恩恵として、カニス・オベスムの名の下に、ティタ族とオベスム家の地位は明らかに向上したじゃないか。そうだろう?
「……ただ君に、権力は与えない。それが私の、判断だよ……レゾン君」
「な……」
「明日から君は、ただのレゾンだ。オベスム姓を名乗ってはならない」
「伯父さん」縋るような声が出た。
族長家姓の剥奪はすなわち、政界からの追放と足場の没収を意味した。
従吏たちが迫る。ここで剣を抜けば罪を重くされると分かっていたから、レゾンは抵抗できなかった。積み上げてきた全てが奪われようとしているというのに。今は己のその理性が恨めしいようにすら思った。
「執政官としてなら、政治家として立て直せる。君なら……支持を集めるのは得意だろう」
「それでは……! それでは遅いのです! っクソ……!」
腕を引っ掴まれ、後ろ手に拘束される。そして四十ほどであろう従吏がレゾンを「フン」と鼻で笑い、地面に引き倒した時、絶望の実感がレゾンの視界を暗くした。抑え込めていた悪夢の感覚がフラッシュバックする。乱暴に引きずられながら、レゾンは脇目も振らずに叫ぶ。
「では——本当のことを言います! 〈大浸食〉は来るんだッ! “海”はすぐそこまで来ている! 伯父さん、お願いします、早期〈昇梯〉計画の支持をッ! いやっ、この際不意の〈昇梯〉を想定した制度の策定でも構わない、とにかく備えを——」
「……いや、なるほど。正気じゃないですね」
「〈大浸食〉は……、——〈大浸食〉は、我らの目前に……!」
「目前に、か。フッ、随分な妄言だな。これがなければ優秀な若者に違いないのに……なんと惜しい」
「妄言などではありません! 妄言で、なくとも——」
「——ひとまず牢に入れておけ。沙汰は明日言い渡す……この偉大な都市を祝う日に水を差されては困るからな」
「はっ」
ジェイニスはため息と共にそう言って、何の同情の気配もなく踵を返して去っていった。元老院でまれに鋭い発言をするカニスの裏にいるレゾンの存在は、他の政治関係者にとって元々目障りだったのかもしれなかった。
劇場からは勇壮な音楽が聞こえ続けていた。観客はきっと沸いているだろう。それらの全ては前座のつもりだった。
まず啓蒙するべきは我が伯父カニス・オベスムだったとでも言うのか。いや——ルッカの悲劇のことなど、知識階級でもある彼らは当然知っているはずだ。知っていて、この人たちは。
ジェイニスの声が少し遠くに聞こえる。
「『ルッカの悲劇』か……。選ばれざる都市の哀れなことよ……」
「ッ……‼︎」
今の言葉は聞き捨てならない。レゾンは歯軋りをして、カニスとジェイニス双方に聞こえるように声を張り上げた。
「つまり、ギラムが『選ばれし都市』であるとでも⁉︎ ——お前たちこそ解釈を歪める老眼の妄言家だ! クソったれ——余命五十に足りぬ老耄どもがッ!」
「————」
「お前たちはそもそもっ、生命の命題を冒涜しているんだ! このままの我々に生き残る資格はない、堕落した都市人には——‼︎」
すると殴られ、蹴られて、地に伏したところを踏み躙られた。レゾンは痛みを感じなかった。怒りにギラつく目で彼らを睨み上げる。清廉潔白のレゾン・オベスムが誰にも見せたことのない表情だった。
「ああ……、来る〈大浸食〉のときお前たちが海神に晒すであろう無様を想像すると、俺は恥ずかしい!」
「今自分が晒している無様を自覚すべきだな……君は」
「未来の恥を雪ぐためなら、俺は現在いくら恥を晒そうが構わない!」
その言葉に怯んで、レゾンの側頭を踏む足に入る力が少し緩んだ。だがそのことを自覚して屈辱を感じたか、間もなく再びより強い力が篭る。
「……牢で、少しその賢い頭を冷やすことだな」
レゾンは考える。
作り物の花は、美しいが、老いに抵抗する術を持たない。伝説上の不死鳥ですらも、不老不死のためには蘇りを経る。
遅かれ早かれ〈大浸食〉は来る。都市ギラムに永遠はない。だが未来ある都市人を、生命の可能性をレゾンは愛している。
愚かな都市人が滅んだところで、レゾンに何の損があるだろうか? 〈昇梯〉は一人でも可能だ。しかしそれでは意味がない。
この慈悲が愛でなくて何だと言うのか——。
だがどうやら、その愛が報われることはないらしい。
ギイと軋む扉が閉まる。冷たい牢で一人、レゾンは今夜も、深淵の夢を見て眠る……。




