第3話 功と罰-③
レゾンは“海”の夢を見る。幼少の頃から毎日、ずっとだ。
全身が冷たい質量に包まれ、足元では果てしない深淵が大口を開けている。だが不思議と、それは恐怖心を催さなかった。彼女はまるで豊満な体を持った母親のように、レゾンをしかと抱きすくめて離さない。
もがこうとするが、この夢の中ではレゾンは肉体というものを持っていないのだ。ただ水面の揺らめきを見上げて憧憬を抱くことしか許されていない。
海水の魔力は致死量の毒のはずだ。水は呼吸を奪うはずだ。そう訴える本能ごとレゾンの全てを否定するように、羊水の中にいるかのような心地の良さが意識に到達し、精神を蝕む。
漂うレゾンの傍らを、黒々とした大魚が尾鰭を振って大推力ですり抜ける。奥には、無数の銀色の小魚が壁のようになって渦を巻いている。いずれも見たことのない、海魚だ。
一匹の小魚が群れからはぐれて、レゾンの目の前にやって来た。真正面から見る魚は奇妙な姿をしている。どこを見ているか分からない眼の出っ張りと、破けそうに透ける筒状の口。
なぜか、レゾンはそれが“海”の意思だと理解している。
彼女のぱくぱくと開閉する口から泡がのぼっていく。彼女はそして、レゾンに緩慢に言葉を告げる。
君は、沈みゆく檻の中にいる……。翼を——くれぐれも濡らさぬように——。
それは警告だった。
小魚たちはいつの間にかレゾンを取り囲んでいた。密集する群れを構成する彼女らの、夥しい数の目がくっきりと見えた。
そこにあるものは——すべて……わが胎へと還る……。
君が救うべきものなど、そこには何もない……。
——さあ——早く……。
ぐんぐんと持ち上げられる。その勢いに揉まれ、そして水面を突き破って——
「——ッ」
飛び起き、激しく咳き込む。今日の夢は特に鮮明だった。暴力的な力を受けた感覚が、まだ全身に残っている。
「っ、ハァ、……」
毎朝のことだ。大丈夫、空気はちゃんとある。魔力の気配もないし、……第33階層の〈大浸食〉は始まっていない。自分に言い聞かせ、呼吸を整える。
レゾンの夢見の悪さは親族の間では有名で、寝床には小部屋を捻出してもらっていた。隣の部屋にも聞こえてはいるだろうが、もし起きてしまっても気にせずもう一度寝てくれ、と思った。
しかし誰が、“海”に忠告を受ける夢を見るなどと正直に話せるだろう? 内容は無視して海神信仰者と断ぜられて終わりだ。まともに見られない人間に政治は務まらない。
レゾンは起きて、水瓶に手を伸ばした。少し考えて、……戸棚を開け、蒸留器に手を伸ばす。
水瓶に入っている水は、コロン川から引かれた天然水だ。対して蒸留水には不純物が入っていない——主に、魔力が。
「…………」
レゾンには魔力の気配が分かる。これは今日明日の〈大浸食〉を仄めかすような、あの啓示じみた“海”の夢と併せて、他の人間にはない性質だった。視覚でも聴覚でもない何かが、魔力の場所と気配の大きさを教えてくれる。結果として、レゾンは重度の魔力潔癖症であった。
邪神に抱かれる不快感が沈着した顔を揉みほぐし、健康な青年の容貌をつくる。……いちいちショックを受けている時間はない。“海”が何を言おうが、レゾンの目的に関係はない。
建都祭、一歩を踏み出すにはこの日こそ相応しい。礎剣の前の誓いを胸の中で繰り返して、レゾンは本家へと発った。
*
執務室の扉を閉ざして、レゾンは座る伯父の前に立った。レゾンはいつも通りに背筋を伸ばし、伯父はいつも通りに少し背と肩を丸めていた。
「伯父さん、いよいよですね。——さあ、こちらが完成原稿です」
「……ほ、本当にやるのか」
「そう身構えることはありませんよ」
「…………」
「伯父さん、俺を信じてください。どうなったとしても、必ず最後までお支えします。そして共に大義を為しましょう」
骨張って細い手をとり、しっかりと握る。短剣をとって鍛えられたレゾンの手は厚く、伯父の両手をしっかりと包み込んだ。献身的な甥はその澄んだオニキスの瞳で伯父と目を合わせ、語り聞かせるように穏やかに述べる。
「貴方の演説は演舞の後です。今年の演目は、俺の助言で『ルッカの悲劇』に決まっています」
ルッカの悲劇とは、第33階層のギラムより前に第30階層で計画された都市ルッカの物語だ。
階紀初頭、人々は〈大浸食〉で全てを失い、階層世界の構造を知った。何十年とかけて繁栄していく都市というものは、階紀以前の安定した世界の文化を代表する伝説的概念となっていった。
その都市を階層世界に再建するという夢を旗印として民族同士が集まり始めたのは、階紀二世紀の頃だといわれている。人が少なくなれば魔物との戦闘が難しくなり、多くなれば〈昇梯〉に必要な冀石の数が増えるというジレンマの中で、彼らはまず、人口の増加を受け入れた。
彼らは都市に必要な時間的猶予を稼ぐために〈昇梯〉を短いスパンで繰り返しながら、都市を建てられる環境を探していた。大人数を〈昇梯〉させるため魔物と戦った人はみな英雄であった。
そして階紀三二〇年代——第30階層にて、条件は一度整った。
同志たちは集結し、都市ルッカの建設を開始。十年以上の時をかけ、さあ都市の歴史が始まるぞという時——、都市ルッカは魔獣の最高峰である地竜の襲撃を受け、一手で、一夜にして壊滅した。地竜が都市に目をつけたのは、地竜を挑発した魔獣が都市へ突っ込んできたからだったという。それはあまりにも理不尽な不運と暴力だった。
しかし彼らは屈しなかった。だからギラムがある。
「『ルッカの悲劇』は、都市が簡単に崩れ去る可能性と、それでも再び立ち上がった者のみが都市文明を手に入れられるのだということを教えてくれます」
「…………」
「そういう意味で、二百年続いた都市ギラムは永遠に近いか、それとも破滅に近いか? ——答えは後者でしょう。たとえ〈大浸食〉がなかったとしても」
「……だからと言って……」
「だからと言って、——何です?」
伯父はゆるゆると首を横に振り、黙りこくってしまった。
あまり責めるようになってもいけない。レゾンは彼がいかに小心であるかをよく理解していた。
「……生産階級の人々は、存外素直に聞いてくれます。過去の英雄たちがいかに偉大であるかを、そして我々は、彼らの生きたのと全く同じ世界にいるのだということを……。しかしなぜ彼らが素直であると思いますか? ——民として、我々の動きを待っているからですよ。我々が旗を揚げさえすれば、彼らは多少の困難には立ち向かってくれるでしょう。逆に言えば、我々が旗を揚げなければ、彼らは動くことができない」
「…………」
「ただし、そのような意識の差は分業化した都市の定めなのです。その上で、今日明日の生活だけでなく年単位の未来を考えるのが我々の役目です。だというのに政治家は常に、過去を現在と隔離し、自らの責務を履き違えて知らん振りをしている——」
すなわち我らは今後また都市ギラムを捨て〈昇梯〉しなければならないのだ、その責任を負っていかなければ都市文明の存続には至らないのだということを、制度上冀石の貯蔵を増やし続けているとしても、今のギラムでは誰も積極的に意識してはいないのだ。——ただ一人、レゾン・オベスムを除いて。
レゾンの口調は静かだったが、胸は燃えるように熱かった。ここまで、長かった。
族長の弟の息子という身分は高いようでいて、決定的に核心に届かなかった。年齢的な問題もあった。そして“海”は毎晩、今にも〈大浸食〉で第33階層を呑み込んでしまいそうなほどの近さで、レゾンに「諦めろ」と囁いた。
二年半ほど前、十四歳でレゾンはカニス・オベスムの補佐という立場をもらった。その影響力が伯父を通して実質的に実権化するまで、そう時間はかからなかった。だが主義の主張となると話は変わる。
積極的〈昇梯〉、そして新たな都市の建設へ向けた再出発——旗がぐらつかないよう、足元を固めることばかりを考えてきた政治家たちにとって、そのような命題はあまりに大きすぎる。しかし政界にはもう一つの正義があった。圧倒的な支持を得ることだ。
「〈昇梯〉を前にして備えるべきことは、〈昇梯〉数階層分の冀石の貯蔵のほか、次の階層に持ち込むべき作物の種を厳選することなど多岐に渡りますが、おおよそは俺が個人的に話して既に進めていただいています。彼らの心理的抵抗は幾分か弱まったはずです」
「……いつの間に……」
「しかし先遣隊の選定とまでなってくると、俺の力では難しいのです。ここから先は伯父さんの力が必要です……」
レゾンはもう一度伯父の手を握る力を強くして、それから手を離した。伯父の手にはレゾンの体温が移っていた。
「……レゾン君」
「はい?」
「……。いや……」
「何かご意見が?」
レゾンは伯父の言葉を待ったが、結局、彼はまた口を閉ざしてしまった。
「……不安ですか?」
「君は、不安ではないのか」
「都市が滅びる姿を見たくはありません。未来を憂うなら、今、やらなければならないんです」
「…………」
「しっかりしてください。大丈夫、民というものは巨大な力を秘めているのです——権力を持っているのが貴方がただというだけで。堂々としていなければ、実現するものも実現しませんよ」
レゾンはそう言って伯父の肩に手を置き、背筋を伸ばさせる。
伯父はまだ少し躊躇った様子だったが、終いには「……分かった」と頷き、威厳のあるように顎を引いた。レゾンは鷹揚に拍手をした。
「他の議員とは一線を画す、素晴らしいご判断です。今日のことは、未来に建つまだ見ぬ都市の歴史書に記されることでしょう」
「……演舞の時、私と一緒にいてくれ。裏で待っている」
「ええ」
レゾンは頷いて、そしてもう一度、伯父に託した原稿の最終行に目を通した。
都市ルッカ滅亡後の、英雄ロー・ツァグラの言葉を引用した、〈昇梯〉へ向けた号令である。成功すれば、都市全体の潮流を変える演説になるだろう。
——都市は元より偉大なる旅の一部。旅人が生きるならば都市の死も殉道となる。
——怯むな! 旅人たちよ!




