第2話 功と罰-②
伯父への伺候は元老院の中にまでは及ばない。列を捌き終わったレゾンは次に机に向かい、陽の輪郭が定まる時刻には、伯父が持ち込む資料への書き込みを済ませた。
午前中、伯父が元老院へ行っている間、レゾンは引き続き書類仕事をする。終われば鍛錬だ。手に馴染む短剣は戦いの道具ではなく、護衛・護身のためのものである。政治は武力による圧力に左右されてはならない——それがレゾンの信念の一つだった。
午後は外回りに奔走する。現地の人々と会話し、具体的な数字を管理するのがレゾンの主な仕事だ。
日没が近づき、夕食の時間もまた仕事の一部である。レゾンは本家で客をもてなすこともあれば、どこかへ呼ばれて出向くこともあり、また、実家である分家に戻ることもあった。
どの場所でも、レゾンは己を理想的な人間のように見せた。聖人君子、と称されていることは随分前から知っていて、そして、そのパブリックイメージが揺らいだことは一度もなかった。
*
本家で夕食をとり客人と親睦を深めた後、レゾンは夜闇の訪れと共に悪夢の気配を感じて、一度神殿へ寄ることにした。
石畳の階段を登り、都市の中で最も高い場所を目指す。夜空はのっぺりとして暗く、街の喧騒から遠い静寂を包み込んでいる。
神殿の美しい石造りの建築には、繊細な金色の装飾が施されている。陽光のモチーフである。天空神に祈るための神殿であるから天井には大きく円い天窓が空いており、そこから入り込んだ雨はレリーフに縁取られた真円の池に溜まって周囲の草花に吸われていく。外よりも空気が凛としたように感じられ、レゾンは深く息を吸った。
天窓から夜空を見上げる。天空神には……この都市はどう見えているのだろうか。
「…………」
神殿に人気はなかったが、奥から聞き覚えのある歌声が途切れ途切れに聞こえた。一人の少年の、清く伸びやかな声だ。
レゾンと同じ白橡の髪色、褐色のうなじ。歌が一区切りしたのを見計らって、レゾンは少年に歩み寄って声をかけた。
「——やあ、セノ」
「わあっ! あっ……、兄さん!」
弟は大袈裟に驚いた後ぴんと背筋を伸ばして、レゾンにまっすぐ向き直った。体は向き直ったが、おどおどと視線があちこちに揺れる。
「こんな遅くまで練習か?」
「う、うん。……なかなか自分の思うように歌えなくて……」
「ふむ」
喋りだすと視線はどんどん斜め下に滑り、それに首がついていって、結果的に項垂れたようになってしまった。歌っている時の澄んだ表情には何の迷いもないように見えるのに、この他人に対する緊張癖はなかなか治らないようだ。
彼もまた建都祭に向けて動いているのだろうと思われた。先ほど歌っていたのも、単なる讃美歌ではなく、英雄たちが未来への希望を綴った歌だった。どこかで歌うのだろうか。聴きに行くべきか?
「そうだ——兄さん……」
「ん?」
「あの、お忙しいのは分かってるんだけど……」彼は勇気を振り絞って、視線をもう一度ぐっと上げて、レゾンの目を見た。「僕にも歌を教えてくれないかな?」
「…………」
しかし僕「にも」と言われても、レゾンが誰かに歌を教えた覚えはなかった。……どうせあの、兄の自慢話を盛りまくる妹が勝手に自慢したんだろう。そう容易に想像がついて、レゾンは内心でため息を吐く。彼女の言うことは、いつも辻褄合わせが大変だ。
「俺が歌についてお前に教えられることなんてないよ」
「でも……兄さんは何でもできるから。僕より歌が上手いって、姉さん言ってた」
「お前、それを信じてるのか?」
レゾンは思わず笑ってしまった。だが、彼にとっては大事なのだろう、表情が曇る。まったく、手のかかる弟だ。
「……セノ。俺の『何でもできる』っていう評価はな、何でも一番っていう意味じゃない」
「え?」
「一つ評価されやすい突出があると、普通の能力の評価も高められがちなのさ。逆に、できないことが多いと、できることがあっても軽視される……そういうふうにできてる。他人の評価について気にしすぎる必要はない」
「…………」
「自信を持て。……それで? 何が難しいんだ?」
兄の方が上手いということは否定しつつ、悩みは聞き出す。それがレゾンにできる最善の行動だった。弟は少し肩の力を抜いて、話した。
「えっと……この歌は、ご存知とは思うけど、英雄たちが〈昇梯〉してから礎剣を地に刺すまでの武勇と祈りの歌で」
「————」
「でも……僕には、どうしても、〈昇梯〉や〈大浸食〉のことが想像できなくて。……多分、だから上手く歌えないんじゃないかな……」
——想像できない。レゾンはすっと目を細めた。……そのような言葉は、これまでにもあらゆる人の口から数えきれないほど聞いてきた。何度耳にしても愉快なものではない。
「そうか……。いや、そうだろう。都市ギラムができてから二百年経った。……俺たちは、この世界がどんな形をしてるか、全く実感できていない」
レゾンの声が少し低くなった。弟は兄の顔色を窺って、そこに叱責の色がないことを悟ると安堵した。
レゾンは視線を遠くの空へやった。エーレ丘陵の上の都市ギラム、西に流れるコロン川、南西には森林と山脈。世界はそれだけでは完結していない。水平方向にも——そして垂直方向にも。
「……兄さんはどう思ってる? この世界は本当に階層構造なの?」
「もちろん、ここは階層世界——第33階層の南東部だ」
今から約六百年前の話だ。
天空神と海神が対立し、世界の形は創り換えられた。
「元の世界の形を知る人間はもういないが、口伝は記録されている。元の世界では、まず……地面は曲面だった」
「……何度聞いても信じられないです」
「広大な世界だったんだろう。……当時は大陸と海があって、岸より先には見渡す限りの海が広がっていたそうだからな」
「恐ろしいですね」
「ああ……。そして空は有限となり、太陽は失われた。この青天井を這う束陽は、その偽物にすぎない」
「あんなに美しいのに」
「太陽はもっと美しかったのかもしれない。俺が思うに、階紀初頭に生まれた天空神信仰のモチーフは太陽だったはずだが……どれだけの人がそれを覚えているだろうな」
「…………」
束陽は、毎朝東端で発生する光が集まった後、円形を成しながら空を横切っていき、西端でまた拡散するという現象だ。対して伝承にある太陽は常に丸く、時に朝や夕にも鋭い光を投げかけてくる……という。
二人は神殿の天井近くの装飾に目をやった。約百七十年前の建築だが、その紋様は束陽の収束と拡散を描いていた。
「月や星も、きっと美しかったんだろう。階層世界の夜を照らすのは[導灯の大樹]だが」
次に二人の視線は、遥か地平の先に向いた。高所にある神殿からは、遠くの景色がよく見える。この日暮れ時では、発光する太い柱のような[導灯の大樹]が特に目立っている。
「あの光は、下から運ばれてきた魔力……なんだよね」
「ああ」彼に視線を戻す。「“海”は水を供給するが、その水は全て魔力を含む。これがさらに階層世界に歪みを生んだ」
「魔物との戦いの描写は、僕が歌う歌にもあるよ。そこが一番力強いフレーズで、……特に苦手なんだ」
魔物——魔法生物は通常の獣や植物よりも強靭で、肥大化していたり、凶暴であったりし、恐ろしい魔法を使うこともあった。対する人間にとって魔力は毒であり、人間の武器は槍や弓矢などからさほど進化していない。しかし都市ギラムでは魔物狩猟部隊を作り、壁の中の人々は平穏に暮らすことができるようになった。
レゾンは重たい吐息に混ぜるようにして言った。
「魔物の脅威、それから〈大浸食〉に関する切迫感が、一般的な都市人の中では年々薄れているんだ……」
「…………」
「セノ。奥へ行こう」
「?」
レゾンは歩き出して、神殿の奥へと向かった。突き当たりの重厚な扉の方へは行かず、列柱廊を外れて横から回り込む。
「兄さん、こっちは……は、入っていいの?」
「神殿の奥には倉庫がある。中身は見えないが、厳重なのが外から見ても分かるだろう。中身は冀石——見たことあるだろ? 狩人が納品しているところか……あるいは、権力者が加工してアクセサリーとして身につけていることもある。都市が今もなお〈昇梯〉のために集め続けている、魔物の心臓だ」
「————」
魔物を殺すと、その魔力は美しい宝石となる。
そして、それこそが〈昇梯〉——一つ上の階層へ転移する魔法の媒介となるのだ。階層世界の人々が、“海”が階層を呑み砕く〈大浸食〉から逃れるためには、これを繰り返さなければならなかった。
「都市を作るには何よりまず、都市を築き栄えて余りあるほどの〈大浸食〉への時間的猶予が必要だった。そして次に階層の環境と地理的条件。都市を作ろうと言い出し、それを実現させた英雄たちにとって、〈昇梯〉はどんな行為だったと思う?」
「——あ……」
「ただの武勇じゃない、相当な覚悟が必要だったはずだ」
彼はハッとした顔で、歌詞を思い出すように空を見つめて瞬きを繰り返した。
レゾンはぽんとその頭を軽く撫でてやって、それからほぼ闇一色になりかけている空を見上げた。
「大丈夫、セノならもっと上手くやれるさ。——今日はもう遅い、帰ろう。明日は建都祭だしな、俺も今日は分家に戻るつもりだったんだ」
「ほ、本当? 姉さんが喜ぶよ」
「はは」
残念だが、この後はすぐに寝るつもりだし、早朝にはすぐに本家に行かなくてはならない。家族に構っている暇はなかった。
帰るのは悪夢が酷くなりそうだからだ……とは言えない。実家の者の方がレゾンの魘される声には慣れているだろう、という考えだった。
二人は連れ立って家へ帰った。会話は少なかったが、弟は珍しく満ち足りた顔をしていた。




